講義録10-1 社会背景と地球的視野

 社会背景とは「戦争、歴史、文化、欲望など」であり、技術と相補的な関係にあります(詳しくは講義録9-2)。
 地球的視野とは、JABEE(ジャビー:日本技術者教育認定制度)で国際的に通用するある一定以上の技術者を認定する際に求められる視野のことです。自分の国の価値観や倫理観だけでしか物事や技術や製造物を判断してしまう技術者ではなく、地球的視野=自国から超えた視野を持つ必要がある、という意味です。JABEEについて詳しくは以下を見て下さい。
:http://jabee.org/

 自分の国の価値観から離れてみる時に2つの立場が基本的にあります。

1)各国が全部バラバラ 

2)各国がグループとなりバラバラ 

 です。これは身の回りでも同じように見る場合があります。「1人1人は別々の頭で考えているし、これまでの環境も違うのだから、1)各人が全部バラバラ」という見方。他方、「静岡県内でも静岡市(中部)と浜松市(西部)は気質が違う。沖縄と東京の人ではコミュニケーションの仕方が違うのだから、2)各人が地域でグループとなりバラバラ」です。地球的視野で見るのは、倫理ですから、この場合のキーポイントは「宗教」です。

1)宗教は倫理の一部である あるいは、宗教と倫理は関係ない 

2)倫理は宗教の一部である 

 教科書は1)の立場、高木は2)の立場をとります。教科書には、宗教という言葉が出て来ません。しかし、高木からすれば、倫理を語る時に宗教が出てこないのは、「日本的視野でしかない」と考えます。日本は、大東亜戦争敗戦後、アメリカ(GHQ)に宗教教育を禁止されました。禁止されただけではなく、教科書にわざわざ黒い線を引かされたそうです。禁止するならば教科書を新しいものにしすれば良いのに、わざわざ屈辱的で、イメージしやすい黒塗りをさせる、という行為を行わせたのです。
 これ以外にも国際法上も、どの国家の法律でも認められない東京裁判(極東国際軍事裁判)という裁判の名に値しない、裁判と呼んではならない茶番で、「日本人は大東亜戦争の時に悪いことをした」というイメージを植え付けました。詳しくは、以下の本を。アマゾンで105件もの数多くのプレビューがついている本です(平成24年6月15日現在)。
:『パール判事の日本無罪論』 田中 正明著 小学館文庫

 ここは国際政治そのものを論じる場所ではないのこの辺に留めておきます。ポイントは私たちの身近な生活で

 「いや~政治はちょっと・・・」
 「いや~宗教はちょっとねぇ・・・」

 というのは、アメリカが日本を弱体化させるために導入した手段であった、という点です。ですから、日本では宗教の話題を取り上げるのをタブー視しています。「オウム真理教の教団を宗教教団」と勘違いしていまうのです。オウム真理教は宗教教団ではなくテロ集団です。国際テロ組織アルカイーダは「イスラム教に基づいている」と言っていますが、では、サウジアラビアやイラクで宗教はタブー視されているでしょうか? アメリカでは80年代から宗教教団の皮を被った、宗教で人を引きつけたテロ集団が沢山出て来ましたが、アメリカではタブーでしょうか?
 日本がいかに、宗教をタブー視するのが偏っているかが分かると思います。そしてこのように他国の状況を身の回りの具体的な事例で考えることが、高木は地球的視野を持つことになると思います。

 教科書では、各国の違いについて以下の例を挙げます(102-4P)。

状況:客船が嵐で沈みそうになっている。救命ボートが足りず船長が各国の人に飛びこむように伝える場合です。

イギリス人には「飛びこむことが「名誉なことです」」と言え、そうすれば飛びこむだろう。
ドイツ人には、「飛びこむことが「規則です」」   と言え、そうすれば飛びこむだろう。
イタリア人には「飛びこむことが「運命です」」   と言え、そうすれば飛びこむだろう。
日本人には、 「みんながそうしているよ」     と言え、そうすれば飛びこむだろう。

 その後、放置禁止地区の自転車の話や、アメリカが「能力主義」や「成果主義」で日本が集団倫理であり、村社会によりものだと述べます。そこで
「そこでの倫理の基本は、仲間はずれになるという恐怖心に支えられていたといえるでしょう」(104P)
と述べます。

 教科書では宗教が出てこずに、「仲間はずれになる恐怖心」が倫理の基本にある、というのです。

確かに一理ありますが、高木からするとそれは主な原因とは言えません。何故なら、「人間とは社会的な動物である」という名言があるからです。「仲間はずれになること」が個人の生存を決定するのが人間である、という意味です。人間は1人では生きていけないのは、日本人だけでなくヨーロッパ人もインド人も同じなのです。恐怖心よりも食べ物が食べられなくなる、生きていけなくなる、方が強いし、全ての人間が持っている、と考えます。
 また、日本人を集団主義、と言いますが、その集団を動かしているのも日本人なのです。ただし、日本の集団主義の場合はそれを「誰が動かしているかが分かり難いだけ」なのです。今回の福島原発事故後の対応も、誰が指示を出しているのでしょうか? 細野原発担当大臣は現場に常駐せず常に原発作業の情報に触れ判断しているとは、外部から見ていても到底思えません。静岡市だったか浜松市だったか、で大臣自らビラを配っている記事があったと記憶していますが、その時に、緊急の判断が必要になったらどうするのでしょうか?
 これは、「誰が動かしているかが分かり難いだけ」の集団主義が日本の集団主義である、と言う根拠です。過去の原子力政策を振り返ると経済産業省の官僚が実際には動かしているのでしょう。

 イギリス人とドイツ人とイタリア人と日本人の違いを指す寓話は、1)各国が全部バラバラ、というのに最適の寓話です。名誉、規則、運命、みんなが・・・というのはどれも近いものがなく、どれも遠いものもありません。それぞれの質が違って、どこにもグループがありません。対して高木の、2)各国がグループとなりバラバラというのは、基準があって、その中でまとまったグループを形成している、という視点です。その基準は宗教です。整理して書いてみましょう。

1)各国が全部バラバラな基準を持っている :倫理は各国ごと

2)各国が宗教で幾つかのグループとなる基準を持っている :倫理は宗教ごと

 となります。
高木が2)である理由をこれまでの講義録で述べてきた主張をさらに深めてみます。それは、

「「人間とは何か?」や「善とは何か?」を決めなければ、善悪を守ることは出来ない」

と考えるからです。言葉を足してみます。

「宗教によって「人間とは何か?」や「善とは何か?」を定義しないと、倫理の善悪を実際に守れない」

ということです。ここで、宗教と宗教教団と信仰の違いが出て来ます。
宗教は誤解されがちですが、「人間とは何なの?」、「善いこととは何なの?」に答えてくれることです。宗教教団はその教えを引き継ぐ集団に過ぎません。人間は弱いので集団になると直ぐに汚くなり、腐敗します。それを引き受けたイエスや仏陀や孔子を高木は尊敬しています。なかなか他人の汚い部分、愚かな部分に寛容になれないでいます。信仰とは、何かを「仰(おっしゃ)ることを信じること」です。ですから、「仰ったことが間違っていても信じることは信仰」になるのです。
 伝統的な宗教でもオウム真理教でも信仰はあります。しかし、宗教=「人間とは何なの?」、「善きこととは何なの?」がありません。
 テロ集団の「善きこと」とは「テロ集団内にとって都合の良いこと」でしかないのです。それは「善きこと」ではありません。さらに、「人間とは何なの?」は、テロ集団にとっては「テロ集団内の人間だけが人間であり、外部の人間は、被害を与えてもいい存在(人間ではない)」という考え方なのです。これは宗教ではありません。イエスが救おうとしたのは「全ての人間」です。仏陀が「善き本性(仏性)を持っているのは男女を問わず全ての人間」なのです。

 さて、現代の日本では、宗教というとキリスト教や仏教だけと考えられがちですが、古代ギリシャの哲学も宗教に基づいています。プラトンという古代ギリシャ人が、『メノン』という本で、
:『メノン』 プラトン著, 藤沢 令夫訳  岩波文庫 こちらのプレビューは15件です。ちなみに600円くらい。

 「徳(善いこと)は教えられうるか」
 「徳(善いこと)とはそもそも何であるか」

 という答えを出しています。この考えを元にプラトンは、当時のアテネの民主主義の現状を嘆きから、「哲学者だけが国家を統治できる」という考えを出します。実際には失敗しますが、身近な例から「善いこととは何か」と考えて具体的な方法を考えたのです。高木が学生の皆さんに「自分の心の声を聞いてほしい」と伝えているのも、こうした点からです。話を元に戻し文を引用します。45-46P 一部平仮名を漢字にしています。改行も。

「人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することは出来ない。

 というのは、まず、知っているものを探求することはありえないだろう。
 何故なら、知っているのだし、ひいてはその人には探求の必要が全くないわけだから。

 また、知らないものを探求するということもありえないだろう。
 何故ならその場合は、何を探求すべきかということを知らないはずだから」

 という議論の前提があります。これは当時議論で相手を負かして民主主義で自分に投票してもらう人々への批判です。こうした言葉遊びが、本当に大切な問題解決へと、あるいは戦略的行動へと移れない原因とプラトンは考えたのです。この言葉遊び、現在の、まさに今の日本にあるのではないでしょうか? これに対してプラトンは「ソクラテス」に(47-48P)、

 「魂は不死だから、死後の国(ハデスの国)とこの世の全てを学んできている。だから「善いものが分かる」」

 と述べます。「死後の世界や魂が滅びない」から、「善いものが分かる」のです。この説明は宗教です。そしてこの説明が、自然科学で説明されることは決してありません。先ほど述べたように、「善きものとは何か?」に宗教が答えた後、倫理が出て来ます。つまり、「死後の国でもこの世でも該当すること=多くの事柄に共通すること」ということです。プラトンは後に、死後の国の方が善いことがある、と言い、独自性を発揮していきます。

 この実例として、数学の図形の証明を持ち出します。正方形の辺が2倍になれば面積は4倍になる。これは元々その人の中にあった推論に基づいているでしょう。というのです。

 以上のように、古代ギリシャの哲学は、「魂の不死」や「魂の輪廻(りんね:生まれ変わり)」や「輪廻による記憶の保持」などを含んでいます。その上で、倫理が出て来ます。たった今の、身の回りの日本で

「魂って生まれ変わるんだよね。死んだ後もあるんだよ。だからね、人間は善いことをしないといけないよ」

というのは、堂々と言えないのではないでしょうか。これが如何に人間の歴史から偏っているか、判ると思います。そしてこの偏りは、これまでの講義録で述べてきたように原発でもあるのではないでしょうか。例えば、「原発は絶対再稼働反対」、「放射性物質は少しでも凄く危険」、「原発は安い発電方法」などなどです。

 本題に戻り終わりましょう。

 題に、社会背景とありますが、これはプラトンの古代の機能しない民主主義が挙げられるでしょう。民主主義を衆愚主義に貶(おとし)めてしまった言葉あそびを好む人々、あるいはその人々を称賛する民衆、あるいはくじ引きで公職者を選んでいた制度などです。現在の日本の民主主義は選挙で公職者の一部(国会議員など)を選んでいます。こうした文化や歴史、また、当時はペロポネソス戦争など軍事なども関わっていました。

 地球的視野は、2つの立場、1)各国が全部バラバラな基準を持っている、2)各国が宗教で幾つかのグループとなる基準を持っている、を示しましたが、過去の歴史に目を向けることも地球的視野になるでしょう。イエスや仏陀、プラトンなどの考え方も挙げました。

 次は、2つの立場が生み出す結論について述べていきます。
 




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