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「なぜ、「千と千尋の神隠し」は大ヒットしたか」 -文化としての「千と千尋の神隠し」-」

(英文イントロダクションと文末脚注は省略致します。詳しくお知りになりたい方はメッセージ下さいませ。)



1. はじめに

 本論は、「なぜ、「千と千尋の神隠し」は大ヒットしたか」を文化の視点から探る論文である。「千と千尋の神隠し」は日本の映画史上最もヒットした文化作品である。現代日本人は世界と自分、その究極の形である死と自分の関係に向かい合わなくなった。世界と自分、あるいは死と自分の関係を判りやすく提示した「千と千尋の神隠し」が、映画史上最もヒットしたと論じる。「千と千尋の神隠し」の世界と自分、死と自分が日本最古の書物『古事記』のイザナキ、イザナミ神話などとそっくりである。また、古くからお正月やお盆などを含む文化的現象で受け継がれてきた世界と自分、死と自分でもある。現代日本は社会変化、家集団の縮小で死に触れる機会が減りつつある。丁度そこへ「千と千尋の神隠し」が放り込まれたので、過去のあらゆる文化作品の中で最もヒットしたと考える。逆に捉えれば、現代日本人は精神的な転換期にあると観られる。中高年男性の世界第2位の自殺率、ここ10年前後で表れてきたニートや不登校、学級崩壊、日本の科学教育の低迷も世界と自分、死と自分の関係の喪失という、大きな流れの1つ1つの表れのように見受けられてならない。その第一歩として「千と千尋の神隠し」を文化の視点から探っていきたい。
先行研究との比較や、「千と千尋の神隠し」を文化的に捉えた理由とその利点、また、「千と千尋の神隠し」の大ヒットで明らかになった現代日本社会の問題についてさらに踏み込む。本論が、高齢化問題を含む現代日本社会の問題に踏み込む足がかりとなればと願って止まない。

2. 「千と千尋の神隠し」の先行研究との比較

文化の視点から「千と千尋の神隠し」に踏み込む前に、先行研究について述べて行きたい。「千と千尋の神隠し」について、これまで主に心理学、欲望論、物語分析の3つの観点から分析されている。
1つは、幼児期からの成長として捉える発達心理学の観点である。山本政人は、複雑化した現代日本を適応しにくい湯屋の世界と同じ世界とし、「現実世界での千尋は普通の少女で、映画の冒頭のシーンで、車の後部シートに寝転がって憂鬱そうにしているが、異界に踏み込んだ後、見事に成長を遂げる」 と述べる。さらに、自分の本当の名前を忘れることを過剰適応と捉えるなどし、大ヒットした理由を「そしてアニメ作品において繰り広げられる冒険や闘争や恋愛などの中に身を置くことによって、目的の達成や疑似体験するのである・・・(中略)・・・不自然にヒューマニズムを強調することもなく、日本の伝統的な意匠を散りばめながら、登場するキャラクターの内面や、キャラクター同士のインタラクションを淡々と描くという、いわば散文的な手法が功を奏したといえよう」 とする。あるいは、後藤秀爾は、「・・・この“千と千尋現象”と呼ぶべき事態は,“時代の病理”を反映していると言ってよく,その裏にあるものは,“大人になれない自分”を抱えた若者たちの姿である。また,同時に,私自身を含めて“大人たち”にも共通する心の課題であるとも言える」 と述べ、大人社会と子供という構図の中で捉えている。木部則雄もフロイトの精神分析理論を基に「湯屋の登場人物は千に好意的であり、千の対象関係の健康さを示していた。これは、千尋の乳幼児時期からの良好な対象関係の確立を示唆していると考えられた。本映画は千尋が成功裏に前思春期を乗りきったという物語であり、これが多くの人々を感動させたのであろうと考えられた」 としている。方法は異なるが何れもが少女から大人へと変わるという視点から、「千と千尋の神隠し」を捉えている。また、心理学では他に、外傷性精神障害患者に対する催眠療法の観点からも捉えられている 。
 もう1つは、現代社会の欲望の葛藤から捉える観点である。カオナシや湯婆婆(ゆばーば)の行動を現代社会の欲望の権化とみた後、「銭婆婆(ぜにーば)が人間の(商品への)欲望を起動因として成立させる存在であるとすれば、無欲な千尋は、銭婆婆が象徴する機能そのものを成り立たせなくさせるもの、ないしは、その支配力をすり抜けるものだからである・・・(中略)・・・われわれの満足は、何も商品を消費すること、消費への欲望を充足することによって得られるだけではないのである。それを釜爺は「愛」と呼んだのであった」 とする。消費を現代社会の中心と考え、欲望を対立軸として挙げている。
 最後の1つは、物語分析の視点である。浅野俊和は「千と千尋の神隠し」の特徴を「物語の典型的なパターンを破綻させた点にある」と捉えている。「宮崎駿による物語創作は、「脚本の不在」という特徴から、そうした「連載もの」的な特質を、どうしても持たざるを得ない。・・・(中略)・・・大人の目から見れば、たわいものあい「夢」の中の世界のことであり、全体的に猥雑で混沌とし、〈破綻〉しているとしかとらえられないものがあったとしても、そこに子供なりの「美学」が存在することは、子供に関する研究では、何度も指摘され、常識的なことがらになっている。そのような〈破綻〉の美学とでも呼ぶべきものは、「結果よりも途中にこそ本質があった宮崎作品の特性」として、従来の作品に見出すことが出来るのだけれど、とりわけ、「10歳の女の子のために作った作品」である『千と千尋の神隠し』において、それが「ひとつの到達点に達した」点は極めて興味深いといえよう」 と全体をまとめている。浅野は子供特有の〈破綻〉の「美学」から「千と千尋の神隠し」を述べている。
 以上が「千と千尋の神隠し」の先行研究の主な3つの観点である。発達心理学や欲望論、また物語分析についてそれぞれ鋭い分析を行っている。ただし、「なぜ、日本映画史上最も大ヒットしたのか」を明確に説明できていないように思われる。その原因の1つとして「欲望論も発達心理学も物語分析も洋の東西を問わず成立する」 という限定条件問題が指摘できる。例えば、山本が「異界に踏み込んだ後、見事に成長を遂げる」と述べた「異界」には限定条件が付されていない。「異界」であるならば、言葉も通じず、舞台となった日本には存在しない悪魔や唯一神がいる世界が、より「異界」と考えられる。けれども、そうした「より異界」を描いた映画は史上最高のヒットを飛ばしていない。木部の少女から大人への成長という指摘も、少女から成長を描いた映画が他にもある中で「なぜ「千と千尋の神隠し」が大ヒットしたか」を説明しがたい。浅野の子供特有の「美学」の完成度の高さ、という分析では、「〈破綻〉の「美学」」の成立によって子供にヒットしたのは説明できるが、老若男女という広い年齢層に受けた理由を説明し難い 。
20世紀最高の思想家の1人である科学哲学者のカール・ポパーは「情報とは何かを排除した上にある」 と定義した。数千本、数万本以上であろうか作られている映画の中で、同じような心理構造や欲望というテーマを多くの映画が持つであろう。先行研究の主な3つの指摘では数千本の中から「千と千尋の神隠し」を選び出せない。また、方法論的に捉えてみたい。発達心理学、あるいは欲望論を紐解いてみても、やはり、それは洋の東西を区切らない点、また現代日本社会の特徴を踏まえていない点において、他の多くの論が同等になるであろう。心理学や社会科学は対象の通時性と地域的な普遍性を前提にしている学術的な方法論的条件を持つからである。この点、「文化」という限定性を持ちつつ渾然とした観点を用いることによって、地域性や社会の現代性を捉えることが可能となると考える。。そうした「文化」の視点の価値を認め、本論では「文化」を持ち出す。先行研究と本論が明確に異なるのは、この「文化」の視点なのである。

3. 文化としての「千と千尋の神隠し」

 次に「文化」について定義を述べて行きたい 。「千と千尋の神隠し」は100億円を超える史上最高のヒットとなったが、これは映画という一般的な文化形式に対して現代日本人が抵抗無く受容可能である点も読み取れる。つまり、世界と自分、死と自分という世界観や死生観を文化として現代日本人が受容可能なのを示している。前節のポパーに習うならば、思想活動や宗教活動として死生観や世界観を受容し難いという排除を付け加えるべきであろう 。特定の宗教に基づいた場合、死生観や世界観の受容は難しい。数々のアンケート結果で「無宗教」と自覚している現代日本人の多い点や、盆の歴史的変遷や祖先信仰の集合、死者の扱いという歴史的変遷に見られる。もし、「千と千尋の神隠し」が特定の宗教教団やイデオロギーの宣伝のための映画であったとしたら、日本の映画史上最もヒットしなかったであろう。
「文化」的視点から眺める利点を3点述べておきたい。
1点目は、地域の限定と時代の限定も可能である点にある。「千と千尋の神隠し」は、海外でもヒットしたが、年間の最高額をたたき出すまでには至らなかった。洋の東西を越える作品としての素晴らしさも原因の1つであるが、日本社会や現代日本という地域、時代の限定が可能であるのは、「文化」の視点ゆえである。心理学の性的衝動や社会科学の社会構造などのように、地域性や時代性を乗り越えて行こうとする方向性とは異なっている。宮崎駿氏の数々の優れた作品の中で現代日本という地域、そうした限定範囲に適した作品であったからこそ、「千と千尋の神隠し」は史上最高のヒットを飛ばした。この「文化」から観て初めて、「千と千尋の神隠し」と史上最高のヒットを結び付けられるのである。
2点目は、概念を抽象した超概念も「文化」として同一に述べられる点にある。社会科学や自然科学では、通常抽象化した概念次元は、別個の学問、たとえば政治史では政治思想など、自然観、世界観、宗教観として対象領域とは別個の概念として区別されている。けれども、文化は、一般的に世界観や死生観を含む概念として捉えられている。この点の利点によって、文化が思想では捉えきれない問題を扱えるようになる。「魂をどう認識するのか、認識可能か」という認識論や、「魂はどのように存在するのか、存在可能なのか」という存在論の哲学的捉え方を横における 。社会的死者と物質的死者の異なりはあるけれども、魂をどのように扱っているか、を「文化」という行動様式によって扱える。魂を事実から捉えられる、と言い直しても良い。そこに「文化」の利点がある。 行動様式に注目しつつ、思想的な観念を分離せずに議論できるので、「千と千尋の神隠し」において史上最高の大ヒットという行動の結果を、死生観という観念に結び付けられる。哲学や心理学のように普遍的な観念、例えば少女の自立、に着目すると史上最高の大ヒットに結びつかず、社会構造や消費行動、例えば欲望、に着目すると映画の死生観が消えていってしまう。概念を抽象した超概念も「文化」として同一に述べられる点が利点である。
3点目は、曖昧さである。捉えがたいもの、あるいは自己内在的なもの、どこまでが一般化が可能であるか、という論理的問題を省略できる利点がある。ただし、この曖昧さは学問的に放置しておけない要因でもある。それゆえ曖昧さを払拭するために、史上最高のヒットという形而下の著しい決定的事実を用いる。なぜ「千と千尋の神隠し」が大ヒットしたのか、その原因がはっきりと明確に出来ないでいる。本論では要因として作品の素晴らしさと精神的な死の欠如を挙げているが、はたしてそれだけであるのか、は曖昧なまま残る。この曖昧な闇は可知領域に決して組み込まれはしない。さらに、それが自己内在的な主観であるのか、それとも一般化が可能であるのか、そうした問題がやはり横たわっている 。こうした問題を方法論が明確でない「文化」を用いることによって表現する事が可能なのである。
以上が本論の念頭におく「文化」である。

4. 「千と千尋の神隠し」と『古事記』の共通点

 世界と自分、死と自分という世界観と死生観に注目して「千と千尋の神隠し」と『古事記』の共通点を5点述べていきたい。
 1点目は、「食べ物と土地(世界)の絶対的密接さ」である。『古事記』の冒頭にある国造りの神話で、イザナキ(伊邪那岐命)とイザナミ(伊邪那美命)が日本列島や食べ物などあらゆるものを産もうとする。ある時、イザナミが火を産み全身が焼けてしまいあの世に行ってしまう。国造りの途中であったイザナキはイザナミを追ってあの世に下っていく。イザナキがこの世に連れ戻そうと言葉を掛けるとイザナミは迎えに来るのが遅いので「ヨモツヘグヒ」をしたので戻れない、と答えた。「ヨモツヘグヒ」とは「あの世の世界で煮炊きした食べ物を食べること」の意味である。その世界で出来たものや料理したものを食べるとその世界の住人になってしまったので、イザナミはあの世を統治している別の神に許可をもらいにいく。ここに観られるのは、「食べ物と世界の絶対的密接さ」である。「千と千尋の神隠し」では、湯屋の灯篭が灯り始め怪しい影が出現して千尋が川岸に逃げるシーンがある。後から追いかけてきたハクと会話していると何故か千尋の姿が消えてしまいそうになる。「湯屋の世界の食べ物を食べれば平気」というハクが言い、差し出した小さな赤い実を食べると透けていった千尋の体が元通りになる。何故千尋の姿が消えそうになったのか、について映画の中では一切の説明がないが、現象に注目する「文化」の視点で捉えれば浮かび上がってくるのは、「食べ物と世界の絶対的密接さ」である。これは後に「人間臭さは湯屋の食べ物を3日も食べれば消える」という台詞でも表現されている。現代日本でも「お土産」 の習慣にこの考え方が残っている。「お土産」では食べ物が一般的であるが、腐る、汚れる、重いなど元来食物は旅行先からの贈呈品に適さない。情報化された現代日本では、電話一本、あるいはメール1通で届くけれども、多くの人々は現地で購入してわざわざ持ち帰る。そこには「私はこのような土地(世界)に行ってきました」という報告であり、現地で調達した食べ物を重要視する「文化」行動が観られる。「食べ物と世界の絶対的密接さ」が現代日本でも「文化」行動として見られる。
 2点目は「元の世界に帰るためにはその世界の神的存在の許可が要る」である。『古事記』では、先ほどの「ヨモツヘグイ」をしてあの世の住人になってしまったイザナミは、元の世界に戻るために許可をもらいにいった。許可をもらい元の世界に帰れるようになったイザナミは 、戻ってきてイザナキが約束を破り自分の醜い姿を見てしまったのを怒り、殺そうとする。ここには「元の世界に帰るためにはその世界の神的存在の許可が要る」があり、「千と千尋の神隠し」では最後のラストシーンで表現されている。千が12匹の豚の中から両親を当てないと現世に戻れない、というシーンである。千は「いない」ときっぱりと答え意地悪な問題を乗り越える。「元の世界に帰るためにはその世界の神的存在の許可が要る」も『古事記』と「千と千尋の神隠し」の共通点である。
3点目は「神的存在の不完全性と多神論」である。『古事記』では、この世では日本列島という当時の全ての世界を創造しているイザナキ、イザナミの兄妹神といえども、黄泉の国では別の神に従わなければならない。また、アストンが「イザナキとイザナミは、われわれの言う至上supremeという概念をほとんど満たしていない。彼らは、前から存在している他の神々の命令によって行動しているし、彼らの創造は限られている」 と言うように、不完全で人間的である。イザナキとイザナミに続けて登場するアマテラス(天照大御神)とスサノオ(建速須佐之男命)の争い、スサノオとオオクニヌシ(大国主神)の知恵比べでも神々は、善悪を含む面で不完全であり、かつ多神的である。吉野裕子が「アマテラスに中国の宇宙神「太一」が集合された」 と指摘しているが、出生は問わない「文化」現象に注目しておきたい。「千と千尋の神隠し」では、ハクという川の神が湯屋では使用人になっている点が挙げられる。神でさえ場所が変われば神としての敬意を払われない。アストンの言う「至上supreme」がそのまま当てはまる。また、湯屋という唯一の社会集団を統べる湯婆婆が、姉の銭婆婆と争い、ハクという川の神を奴隷にしようとしている。さらに、銭婆婆から魔女の契約印を奪って湯屋を仕切っているのは全てを管理する存在がいない、あるいは善悪の不完全な存在が読み取れる。銭婆婆もハクを死に追いやるに躊躇わない面と、魔女の契約印を届けに来た千を温かく迎え入れる両面を兼ね備えている。
 4点目は「働くことの大切さ」である。『古事記』において労働の大切さは特に重要である 。そもそも神々の多くの名前はその役割、つまり担当する労働を表現している。太陽の神アマテラスも稲作労働をしている。また、神々の時代から人の時代を語る『古事記』で最初に登場する人間も労働し、神々と同じ労働の役割によって呼ばれている。機を織っていたので「機織女」と書かれるが高天原という神々の住む天上の世界にいる。神々の住む高天の原に人間が共存し、労働を行っている点は注目に値する。彼女らを人と見るか、アマテラス自身と見なすかは意見が割れているが 、神々の住む地で労働が行われているのは変わらない。これに対して『旧約聖書』創世記に「君のために土地は呪われる。そこから君は一生の間労働しつつ食を獲なければならない」 とある。りんごを食べたために神と共に住んでいた天国から追放される罰として労働を科せられた。これは労働を天職と見なし、また救済を得るための最良で唯一の手段と変化して考えられるようになったと、マックス・ヴェーバーは指摘した 。天職概念が近代資本主義に大いに貢献したされるが、救済のための労働である点に留意しなければならない。両者とも、ヘブライ神話の中の神と共にある天国で労働は行われない。「千と千尋の神隠し」では、これが銭婆婆によって「働かないものに居場所は無い」と明確に語られる。銭婆婆が千の髪留めを作る時、「魔法じゃなにもならないからね」と言う。その紫の髪留めはこの世に帰還してからも千尋の髪に輝くなど多くの事例が挙げられる。また、千尋が千と名前を変え湯屋で働いて認めてもらい、元の世界に戻るにキーワードになっている。この「世界と自分との関係の中に「働く」がある」という点において『古事記』と「千と千尋の神隠し」は共通点を持つ。さらに加えれば、実際の肉体的労力を必ずしも必要としない幅広い概念であろう。それは、根本的に「働く」が「世界と自分を結びつける」という世界観である。現代日本では定年退職後で経済的に安定していても労働を希望する人々が多い 。あるいはニートや不登校などを否定的に捉えているのも単に経済的試算のみならず、「働く」ことで世界と自分との関係を構築するという人格的な側面が要因ではないだろうか。
 5点目は、「あの世にいくと超能力を獲得する」である。現代日本人も、「あの世に行くと超能力を獲得する」という前提を無意識の内に認めている。お盆やお彼岸で死者がこの世に帰ってくるのは、生身の人になくあの世に行った全員に生じる超能力である。この超能力の獲得なしに死者のみがこの世に帰ってくることなどありえない。恨みを持った人間が祟(たた)りを起こす、というのも同類で、あの世に触れる点が共通している。対してキリスト教ではこうした超能力は唯一神のみの所有物である。神に認められ預言者や天使、天使で神を裏切った悪魔だけがこの世で超能力を使えることになっている。イエス・キリストが預言者として認められたのは、神の所有物である超能力を使い奇跡を起こしたからである。超能力は全て神の所属物という前提がある。
『古事記』には現代日本と同じ考え方がある。イザナキが「国造りが完成してない」と黄泉の国にイザナミを追い、醜い姿を見たために追われて、黄泉戸大神という大岩を置きあの世とこの世の行き来が自由に出来なくなる。こうしてあの世とこの世の行き来が不自由になり、人に生と死の区別が生まれた。この後、イザナキは禊をして着物や身の回りの神や海神3柱などを生み、最後に重要なアマテラス、ツクヨミ(月読命)、スサノオを産む。イザナミを黄泉の国に追い求めた理由は、「まだ国生みが終わっていないから」であったのに、たった1人でアマテラスやスサノオを産めるようになる。そして、アマテラスやスサノオが後に色々な神を産む役割を果たしていく。イザナキはあの世に触れ、超能力を得てこれまで産まなかった重要な神を産んだ 。「千と千尋の神隠し」では、千の超能力獲得がはっきりと打ち出されている。幾百もの小さい紙に追われている白い龍を見て、思わず「ハクー!」と叫ぶ。叫んだ後、自分で驚くが何故か人の姿のハクなのだと知る。そして傷ついた白い龍が人の姿に戻った時に自分の超能力を確信するのである。この超能力は銭婆婆の家から帰り日月が過ぎるとさらに強まっており、最後の12匹の豚から両親を当てる場面では、「この中に両親はいない」と一瞬で見抜き、湯婆婆に「それがお前の答えかい!」と脅されても平然と、確信を持って答える。最初豚が両親であったかどうかも疑っていた千は最後には豚の正体を見抜けるようになる。「あの世にいくと超能力を獲得する」が「千と千尋の神隠し」でははっきりと打ち出されている。また、湯屋の世界に入りたての頃、「人間臭い」と湯屋の住人に嫌がられるが、「3日もすれば人間臭さが消える」とハクは反論する。あの世の食べ物と滞在時間の何れが原因であるかはっきりしないが、あの世に触れる長さによってよりより強い超能力を獲得している。

5. 「千と千尋の神隠し」と『古事記』の共通点は世界と自分、死と自分

 前節の「千と千尋の神隠し」と『古事記』の5つの共通点の基本軸を述べていきたい。5つの共通点は、「世界と自分」、その究極の形「死と自分」の関係で1つに括れる。「食べ物と土地の絶対的密接さ」では、自らの住む世界と自分を結びつけるものとして食べ物が選ばれている。世界の6割以上の人々が信仰する唯一神教では、神が選ばれている。そうした国々ではお土産は食べ物でない方が多い。腐りやすく、重たい食べ物は旅行の記念物として不適当な面を持つからであろう。「元の世界に帰るためにはその世界の神的存在の許可が要る」というのも世界と自分との関係である。「自分の所属する場所によってルールや規律が異なる」という関係で、「郷に入れば郷に従え」や山本七平が「物神化によって空気が成立する」 と指摘した関係でもある。所属する世界ごとにルールや規律を常に意識しなければならない、という世界と自分との関係は、「千と千尋の神隠し」の中で千尋が何の疑問もなく「働かなければこの世界には居られない」というルールを享受した点に観られる。また、現代日本の根本的問題の1つである談合も所属する世界ごとにルールや規律を常に意識しなければならない、という点が出発点ではないだろうか。この「空気」について山本は続けて「水をささなくなった」と指摘する 。山本の議論の是非は置いておくにせよ、現代日本には『古事記』以来の「所属する世界ごとにルールや規律を常に意識しなければならない」がある。また、2007年初頭から「KY」という言葉が少年層、青年層を中心に広がった。「KY」とは「空気読め」の略字である。その意味は「「所属する世界ごとにルールや規律を常に意識しなければならない」のを無視して「自分の意見や気持ちをいう」」行為をさし、現代日本でも残っている。
「神的存在の不完全性と多神論」もまた世界と自分との関係の1つと考えられる。神的存在の不完全性によって私たち人間は、その神への服従か反発かの二者択一せずに済む。お正月は年神様を迎える行事であるが何れの神社にお参りしても良い。多ければ多いほど良いと考える地方さえある。多神論を前提としているからであって、唯一神教であれば、他の神を拝むことは宗教的戒律によって許されない 。初詣でお賽銭を投げ入れるが、その時の願い事が叶えられるかどうかを問題にはしない。なぜなら、神的存在の不完全性を前提として私たちが受け入れているからである。
「働くことの大切さ」は、食べ物との関係とは異なり1つの価値観が入っている。『古事記』に神々さえも働く役割によって名前がつけられ、最初の人間も働く役割の名前で呼ばれていた。「千と千尋の神隠し」では働かなければ世界の中から認められなかった。つまり、「働くことは善」である、という価値観が入っている。これに対して先に述べたように旧約聖書では、働くことは天国から追放された罰、で、「働くことは悪」に分類される。現代日本では労働市場が厳しくなってあまり聞かれなくなった「窓際族」という言葉がある。閑職に追いやられたサラリーマン、の意味であるが、否定的な響きを持っていた。この前提にあるのは、「しっかり働くことで世間や会社から自らの認めてもらう」であり、「働くことは善」という考え方である。現在は日本人のメジャーリーガーが誕生して「アメリカンドリーム」という言葉が身近になっている。「アメリカンドリーム」は「働かなくても良いほどお金を掴んだ人」という意味である。つまり、「天国で労働から解放されるが、現世で既に労働から解放される」という夢のような状態を成し遂げた人を指す。メジャーリーガーが金銭の多寡だけで直ぐに移籍してしまうのに対して、日本人選手は球団を動く割合が低い。「働くことを善」と観るか「働くことを悪(罰)」と観るかが1つの原因であるように思われる。現代日本の一般的な労働市場でも「金銭の多寡」と同時に「やりがい」が大切にされている。この「やりがい」もまた、「働くことは善」に基づいている。さらに深く追求するならば「働くこと」でその世界に居られ、その世界の中から認めてもらう、という「千と千尋の神隠し」の描かれた関係である。また、ニートが否定的に捉えられるのは、金銭を稼がないからではなく、世間から認められないからであろう。中高年の男性の自殺率が世界最高水準なのは、「働けなくなり自分の存在意義を見出せなくなってしまう」、つまり「世界と自分との関係が切れてしまう」という考えがあるからではないだろうか。このように「働くことの大切さ」は世界と自分との関係を含んでいる。
「あの世にいくと超能力を獲得する」の最も判りやすい例は、菅原道真神社である。菅原公は政争に破れて死亡した。その恨みを払うように神社が作られた。生きている時には対応せずに死者になって初めて対応したのである。また、「あの世にいくと超能力を獲得する」は、あの世とこの世が同時に並行に存在しているという世界観を前提としている。原始仏教では仏陀の世界とこの世は質的に全く異なり、並行していない。旧約聖書の世界ではこの世の終わりにあの世が始まるので、同時に存在しない。また、あの世が存在せず死後この世に生まれ変わると考えるタイのような国もある。これについては象使いを目指した少年の映画「星になった少年」が見事にコントラストを描いている。日本では屋根に上り空に向かって死者に話しかけるが、タイでは立派な行いをした少年は象に生まれ変わったと考えて、象に話しかける。あの世とこの世が同時に並行に存在している世界観を「二世界同時並行観」と呼ぶ。「二世界同時並行観」は、『古事記』のイザナキとイザナミ神話、「千と千尋の神隠し」の湯屋とこの世、現代日本ではお盆やお彼岸などの風習の前提となっている。生きている人間があの世に行けなくなったのはイザナキが黄泉戸大神(大岩)でふさいでしまったからであるが、「千と千尋の神隠し」ではモルタル作りの門の前に岩がおいてある。千尋と両親が入る時は岩の両面に顔がついていたが 、帰りは岩が小さくなり顔が無かった。お盆とお彼岸も同じように考えていて、生きている人間は入りにくいが死者は用意に行き来できるのである。この世とあの世との近さについて、吉野裕子は「古代日本人は意識の底では、真の他界と仮の他界は区別されていて、現世を「顕世(うつしよ)」とすれば真の他界は「幽界(かくりよ)」であった。しかもなお、キリスト教の天国、仏教における極楽とか地獄がまったく隔絶しているのに対して、この誘拐も何となくこの現世に連続しているのである」 と述べている。この世の住人が近くにあるあの世に迷い込むことを、古くから日本人は「神隠し」と呼んで来た。こうした世界観を持つ「千と千尋の神隠し」とキリスト教世界観が対応せず、英題は「Spirited away」となっている。「元気な離脱、精神的な脱出」である 。神隠し、という世界観を含んだ語彙はキリスト教世界観を基にした英語には適語がないのは「二世界同時並行観」による。他の世界観と比較すると、「二世界同時並行観」が現代日本人の最も大きな世界観であることがはっきりする。
 以上のように5つの共通点は、何れもが世界と自分という関係で捉えられた。さらに述べれば、何れもが世界と自分との関係の最も根源的な「死と自分」という関係に関わっている。食べ物ではヨモツヘグイとして食べ物は死の世界と結びつき、「千と千尋の神隠し」でも食べ物を食べなければ姿が消える、という点で死に結びついていた。働くでは名前が役割を、つまりの自分の存在意義と関わり、「千と千尋の神隠し」ではまさに世界に居られないという形で死に関わる。また、世界と自分との関係が切れる所に、死が現れるのであるから、世界と自分との関係は、究極的に「死と自分」との関係だと言える。
 
6. なぜ、「千と千尋の神隠し」を現代日本は求めるのか

 映画「千と千尋の神隠し」が史上最高のヒットした理由は、伝統的な世界と自分、死と自分を分かり易く描いたからであり、同時に関係が現代日本になって不安定になってきているからでもある。現代日本になって世界と自分、死と自分が変わった点を述べていきたい。
 現在、死者の約84%(平成16年度84万6千人、総数102万8千人)の人が病院(診療所を含む)で亡くなる。平成17年の厚生労働省のデータである。そして約12%(12万7千)の人が家で亡くなる 。12%の人が自宅で亡くなるが、その実態は、「もう最後だから」と実家に帰って人が多いのではないだろうか。死は単に当人の肉体の滅びだけではない。死は本人だけの肉体的な死と周りの人がその人の死を受容する精神的な死に分けられる。その精神的な死の受け入れ作業が、現代日本では病院の中でひっそりと行われている、という事実を先ほどのデータは教えてくれる。死の苦しみは本人だけではなく、その苦しんでいる姿を見て家族や親戚近所の人は、自分の死を思い、これから先の自分の人生を考える機会を与えてもらう。身近な人の死によって人間は多くの無情や人生を感じ考える。世界と自分、死と自分を突きつけられて初めて自分の問題として考えるようになる。死の苦しみ抜く姿を、現代日本では全て病院という非日常的な世界に押し込んでしまった。実に95%を超える人々にも及んでいる。死を考える機会が、葬式や数度の数時間のお見舞い、という非日常的世界に追いやられ、現代では、日常から遠い環境に置かれている。世界と自分、死と自分を見つめる機会が私たちの周りに無くなって来ている、というのを厚生労働省のデータは教えてくれる。死亡総数に対する病院と診療所の割合は昭和26年12%、昭和35年22%、昭和45年37%、昭和55年(1980)57%、平成2年(1990)75%、平成7年(1995年)77%、そして平成16年(2004年)84%となる 。映画「千と千尋の神隠し」が公開されたのが2001年で、病院での死者の漸近ピーク75%に達してから10年が過ぎようとしていた。多くの人が病院で亡くなるようになり、精神的な死が日常から遠ざかってから10年である。人々はバブルや不況という経済のみに目が行くようになり、死をどこかに追いやってしまった時に「千と千尋の神隠し」が公開された。統計を眺めると精神的な死が日常から遠ざかっていったのは戦後に始まる現象であって、伏流が徐々に現れだした点も指摘できる。特に高度経済成長時代と言われる昭和30年~40年時代に病院での死者が15%(昭和30年)から47%(昭和50年)に急激に増え半数に達しようとしている。
日常から死を追いやる原因として他に2つ挙げられる。1つは核家族化である。現代日本では中学生高校生になったとしても、死に逝く人の介護される親族の苦しみを直に触れる人が少なくなった。3世代同居から核家族化が1つの原因であり、ロバート・スミスは「ここ30年間には幾万という小さな村落共同体が崩壊し、人口の都市集中が進行した。そして幾世紀もの間祖先祭祀の焦点であった家自体が消滅しつつある。夫婦家族が第一義的な居住集団として台頭してきた」 と1996年に書いている。また、家族構成の年次別平均人口が、1920年(大正9年)「4.9人」、1930年(昭和5年)「5.1人」、1940年(昭和15年)「5.1人」、1947年(昭和22年)「4.9人」と戦中戦後を通して変わらなかったが、1998(平成10年)「2.81人」、2004年(平成16年)「2.72人」と減少している 。大正から戦後まで5人前後であった家族構成の人数が、現代日本ではほぼ半分の2.7人に減少している。世帯数の割合でも1人世帯と2人世帯がほぼ半数を占める。2004年単独世帯が10817世帯、夫婦のみ10161世帯、夫婦と未婚の子供のみ15125世帯、3世代同居4512世帯、総数46323世帯となっている 。死に逝く人の介護される親族の苦しみを直に触れる人が少なくなっていると言えるであろう。
もう1つの原因として、私たちが自らの手で動物を捌かなくなった点が挙げられる。これも村落共同体の崩壊と同時に、スーパーなどの進出などの社会構造の変化が原因である。例えば、スーパーでパッケージされた肉や野菜しか触れていない世代が増加し、目の当たりにしてきた世代でも生身の動植物と食事の関係を忘れてしまっている人は多いのではないだろうか。生命としてのつながりの関係を忘れてしまうということは、つまり精神的な死が非日常的な感覚になってしまっているという事である 。食事の前の「いただきます」が「命をいただきます」という精神的な死を含んでいることを忘れている人々が増えているのではないだろうか。
この2点を裏付けるのが、東京都生活文化局が行った葬儀の準備内容に関する調査データである。「家族に自分の葬儀について話している19.6%、友人などの連絡先を決めている17.8%、葬儀の方法を決めている人が8.5%、葬儀社や価格を調べている人が2.0%」という調査データが出ている 。精神的な死を身近な事として、つまり日常と密接に関わっていると考える機会が殆ど無くなった結果と言えるのではないだろうか。
以上のように現代日本では死と自分を考える機会が極端に低下している。それによって自分の位置や自分の存在意義を見失い、あるいは世界に対する関心、関わり方が弱くなってしまっているのではないだろうか。医療の発達や社会関係の変化、あるいは家集団の現象などによって現代日本は、精神的な死を見失っているように思われてならない。この点の検討は次論文に譲るが、中高年男性の世界第2位の自殺率、ニートや学級崩壊、理科に対する関心が最も低い国になってしまったなども世界と自分、死と自分との関係を喪失してしまっている現われに思われてならない。こうした状況が現れ始めた時に「千と千尋の神隠し」が大ヒットしたのである。宮崎アニメは確かに素晴らしい映像と音楽で完成度が極めて高い。けれども、その宮崎アニメの中でも「千と千尋の神隠し」が最もヒットしたのは、観客が最も必要なものを提供したからなのではないだろうか。その最も必要なものを捉えるために、心理学や欲望論、物語分析ではなく限定条件の使える「文化」を使い本論を展開した。人間である限り必ず死が訪れる。けれども日常生活から精神的な死が切り離されてしまうというアンバランスな形が作り出されている。現代日本が渇望している精神的な死を、『古事記』から続く世界観、死生観を体現した「千と千尋の神隠し」が満たしたのである。老人も子供も男も女も皆、渇望していたのであるから、大ヒットしたのである。それにしても史上最高のヒットになるのは何と大きな渇望であろうか。
以上が「なぜ、「千と千尋の神隠し」は大ヒットしたか」である。




参考文献

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三浦佑之 『古事記講義』 文藝春秋 2003
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Taco Studio 『「千と千尋の神隠し」の謎』 三笠書房 2002
W・Gアストン 『神道』 青土社 2001
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高木健治郎 「ほらふき男爵のトリレンマと「対象の完全なる把握の希求」 哲学若手研究者フォーラム論文集 33号所収 2006
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「「千と千尋の神隠し」がヒットした理由はこれだ!--各界の有識者によるヒット分析」
西山利佳 「一言提案 千と千尋の神隠しに思うこと・考えこむこと」 子どもの文化巻号 34(5) 38~41頁 2002
山本政人 「『千と千尋の神隠し』における成長」 Gyros巻号 (10) 150~161頁  2005
NEWSWEEK 2005.11.2
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ブログ記事についてのお問合せ

高木健治郎 様
 
突然のご連絡で申し訳ありません。
東京都市大学等々力キャンパス図書館の澁川と申します。
 
実は、本学学生が、以下の論文記事を参考にしたいと要望があり、調査していましたところ、こちらのブログ記事を拝見いたしました。
http://takagikenziro.blog.fc2.com/blog-entry-110.html

こちらに掲載されている記事は、雑誌に掲載されているものでしょうか?
もし、異なるようでしたら、別の機関へ複写依頼をかけようと考えております。

ご多忙中、お手数をおかけして大変恐縮ですが、一度ご回答いただきたくお願い申し上げます。


比較生活文化研究 / 日本比較生活文化学会 編
14号( 掲載ページ 85~100 )/2007
論文記事『なぜ、「千と千尋の神隠し」は大ヒットしたか--文化としての「千と千尋の神隠し」 』

Re: ブログ記事についてのお問合せ

東京都市大学等々力キャンパス図書館様

高木健治郎です。

お問い合わせ有り難う御座います。

> こちらに掲載されている記事は、雑誌に掲載されているものでしょうか?
> もし、異なるようでしたら、別の機関へ複写依頼をかけようと考えております。
>
> ご多忙中、お手数をおかけして大変恐縮ですが、一度ご回答いただきたくお願い申し上げます。

掲載されている論文です。
「雑誌」が何を指すのか判りませんが、一般誌には掲載されておりません。

CiNiiのに掲載されている以下から複製をお願い致します。

高木 健治郎 ID: 9000010512041
CiNii収録論文: 3件
なぜ、「千と千尋の神隠し」は大ヒットしたか--文化としての「千と千尋の神隠し」 (2007)
なぜ、「千と千尋の神隠し」は大ヒットしたか(2)労働からみた「千と千尋の神隠し」 (2008)
人間のあり様としてのネット社会 (2010)


尚、比較生活文化学会の学会誌『比較生活文化研究』に査読論文として掲載されました。
ブログに書いてあるように、「英文イントロダクションと文末脚注は省略」してあります。

また、同論文の継続論文「なぜ、「千と千尋の神隠し」は大ヒットしたか(2)労働からみた「千と千尋の神隠し」」(2008) も『比較生活文化研究』に査読論文として掲載されました。

何かご参考になることがあれば幸いです。

また、何時でもお問い合わせくださいませ。

       高木 健治郎

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

有り難う御座います

小高さま

コメント有り難う御座います。

拙いブログを読んで下さり、感謝しております。
古事記とジブリは、とても似ていると思います。是非ともアピールをして下さい。
ブログはどんどん参考にして下されば幸いです。

もうお読みかもしれませんが、以下の本もどうぞ。

『ユリイカ 宮崎駿[千と千尋の神隠し]の世界』 2001年8月臨時増刊号 青土社

『風の帰り場所 ナウシカから千尋までの軌跡』 宮崎駿 ロッキングオン



ありがとうございます!!
本も凄く面白そうだったのでそちらも参考にさせていただきます。
古事記を少しでも面白いものだと伝わるよう頑張ります( ´∀`)ありがとうございます。
プロフィール
哲学(平成28年度)
科学技術者の倫理(平成28年度)
書いたもの(平成28年)
科学技術者の倫理(平成27年度)
哲学(平成27年度)
書いたもの(平成27年)
哲学(平成26年度)
「科学技術者の倫理(平成26年度)
講義録「哲学」
書いたもの(平成26年)
書いたもの(平成25年)
論文(高木健治郎の)
講義録「科学技術者の倫理」(平成25年度)
高木ゼミ『銃・病原菌・鉄』
高木ゼミ全6回『ぼくらの祖国』
教養講座6回分(平成24年度)   講義録21~
講義録「科学技術者の倫理」(平成24年度)     講義録1~15
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