講義録5-1 「パターナリズム 医療のインフォームドコンセント」


(文意不明、文末の言い回しミス、誤字脱字は沢山あると思います。ご了承下さいませ。)

 1回消してしまい、泣く泣く2回目です。

 「『公衆の福利』の曖昧さがあるけれども、技術者の社会的責任がある」というのは、技術者が「誰よりも早く欠陥、危険に気が付く可能性がある」からです。

 ですから、これまで述べてきた①(6つの)工学的安全、の他に情報公開と説明責任があります。例えばパックの野菜ジュースには、品名と原材料名、内容量、賞味期限、保存方法、販売者が書いてあります。これは製造物の情報公開と言えるでしょう。そして問題があった場合などに説明を求められれば説明しなければなりません。
 さらに、この情報公開と説明責任を果たした上で、公衆に同意を得ること=インフォームドコンセントをしなければならない、と筆者と教員は考えます。常識として(「社会通念」と難しく言い直しても良い)、このインフォームドコンセントは医療に限らず、多くの社会的現象で見られます。
 ここで筆者は、以下のように考えていると思われます。

筆者:インフォームドコンセントは善、パターナリズムは悪  →倫理で判断する
 VS
教員:インフォームドコンセントとパターナリズムはどちらが善や悪では割り切れない。 →それぞれの要素で判断する

 インフォームドコンセントに反対の立場としてパターナリズムがあります。
これは公衆(対象者)の同意を必ずしも必要としない、という考え方です。極端な場合は説明責任や情報公開も必要ではなくなります。こう聞くと常識に反しますので解説していきましょう。
 
 パターナリズムは「paternalism」と書きます。「pater」とはパパの意味で一般的に「父権主義」や「家族温情主義」と訳されます。しかし私は、この「pater」はもっと強い意味だと考えています。なぜなら、キリスト教の神様のことを英語では「ファーザー」と言います。また、ローマ・カトリックの説教師のことを「神父」と言い「父」が付きます。そしてファーザーや神父は、私たちの日常生活の善悪、生活習慣の指導から、死後の世界に天国に行けるか地獄になるか、を左右できるのです。つまり、日本の父親(明治時代の大日本帝国憲法下でも家長は家族に対して裁判権を持っていませんでした。実態としてそのようなことはありましたが、全てではなく思い込みがかなりあると思います。余話)よりももっともっと強い存在だと考えるのです。日本人は「死んだ後どうなるか」が不安になるのは死が近づいてからでしょう。 
 しかし、それは無意識のうちに日本人的宗教観に染まっているのです。日本人的宗教観では全員が同じ場所に行きます。今とあまり変わらない世界です。ですから不安にもなりません。さらに、お盆やお彼岸に返ってくるしお正月にも帰ってこれる。だから「死んだ後どうなるか」が不安になりません。世界の7,8割の人は天国に行くかは大きな問題です。それを決定するのがローマ・カトリックでは神父様なのです。

 あるクラスでしか言いませんでしたが、筆者は「日本も欧米もイスラムも同じ倫理である」と思っていますし、そのように論理を組み立てていますし、教員は「日本と欧米とイスラムは同じ場所もあるけれど違う部分もある」という風に組み立てています。これは後の講義で触れます。

 さてさて、パターナリズムに戻りましょう。
インフォームドコンセントは主に医療の分野で進んでいます。お医者さんが患者さんに「明日手術ですよ」と言って、患者に手術の内容を、危険も手術方法の欠陥も説明し、同意を得るのがインフォームドコンセント。対してパターナリズムは私が小さい時はそうでしたが、「明日手術ですよ」の後に何も言わないのがパターナリズムです。

 パターナリズムでずっと日本の医療は進んできましたし、他の多くの分野でパターナリズムが行われています。その理由は、公衆(対象者)が無知であり、自分で勉強もせず、判断もしない、からなのです。今回の福島原発事故後であっても「原発を止めると電気が止まる」と科学的事実に反することを信じている人もいます。さらには「原発が事故を起こしたらしょうがないよね」とサラッと言う人もいます。大分「格納容器」などの言葉も浸透しましたが、では「どうして原発事故は起こったのだ」や「私の家の一番そばの原発は安全である」ということをきちっと科学的合理性に基づいて知っている人はどのくらいいるでしょう? 知らなくても知りたい、と思っている人は何人いるでしょう?
 さらに、原発は分かりましたが、他の問題はどうでしょう? 外国人参政権問題や自衛隊法の問題、憲法9条や25条の問題などなど、身近な問題なのに関心を持たないし勉強しないし、判断をまかせている人々が多いのではないでしょうか。だから、専門家が判断するという理屈がまかり通る訳です。そもそも日本は世界最高水準の識字率で新聞の販売数が世界一です。それでも、という訳です。

 さて、筆者も教科書の中で医療分野になぞらえてインフォームドコンセントが大切だ、ということを言います。大筋では同意しますが、私は現在のレベルで十分であると考えています。つまり、医療分野には他の要素がある、という訳です。そこで、紹介した本のデータを紹介しました。

 盲腸の手術代 日本 6万4200円
           NY  243万円(日本の38倍!!)
           ボストン 169万円(日本の26倍!!)

 どうしてこのように同じ手術で高くなるのか。
その原因はA)人間が1人1人違うから 
       B)インフォームドコンセントが世界で一番進んでいる
からなのです。
 医療界では有名な話だそうですが、東大の名誉教授が誤診率を20%(17%前後)と発表して、会場から「えー」という声を受けました。それは

一般の人は「そんなに多いのか?!」の「えー」であり、
医療関係者は「そんなに少ないのか?!」の「えー」であったそうです

 (翌々日留学生に話したら低くて「えー」という人が実際にいました)。日本では医療ミスはない、という前提に立ってきましたから、医療ミスで亡くなられても表立ったことはありませんでした。しかし現在はインフォームドコンセントが進み表立ってきました。これは私たち日本人の個人としては素晴らしい点です(しかし物事には裏表があります。一方的に良い、ということは無いと私は考えています。だから情報公開とインフォームドコンセントが大切である、と思うのです。筆者のように善だからいい、訳ではありません)。実際にお医者さんになりたてのインターンの人は誤診率が60%~70%くらいだそうです。ということは半分は間違うのです。何故なら「お腹がちくちく痛いです」と言っても私が言うのと他の人が言うのでは内容が異なってしまうからですし、そもそも人間が1人1人違うからです。ここからチャート式にしてみましょう。

 人間は1人1人違う →医者はミスが必ず出る →インフォームドコンセントでミスが分かる →ミスで訴えられる →訴えられた場合に備えて保険に入る →保険代金は負担する →医療費高騰、特に手術などミスが分かる場合

 人間は製造物のように殆ど同じに造られていません。だからミスが起こるのです。情報公開すればミスが分かるのは当然です。人間の値段は数千万から数億ですから保険に入りますし、その掛け金も莫大です。何故なら名医でも20%の誤診率なのですから。1日5人見れば1人間違えるのですから、掛け金は最低で数百万、上は億を超えると言います。例えば2000万円にしましょう、すると1日10万円の掛け金を患者さんからとらなければならない。1日10人なら1人1万円です。

 実際に妹がアメリカに留学していまして、留学生会館で留学生が倒れた場に居合わせた話をしました。周りの皆はその留学生の側に立ってオロオロしている。日本国出身の妹は「どうして救急車を呼ばないの?」と何気なく聞きました。すると周りから「え?!」という反応をもらったそうです。日本では横に座っている人が倒れたら救急車を呼びます。

 (補足。1クラスでサラッと述べたことに大分加筆します)
 私も実はある高校で物理を教えていて、教員バスケットチームに入れてもらいました。ハーフタイム20点の内16点くらい取っていて、ある若い先生が「上手いですね~僕も頑張らないと~」と言っていました。その後、私も彼も交替でベンチに帰って来て数10秒後、彼はドタン、と私の椅子の方に倒れてきました。直ぐに様子を見ましたし、救急車が呼ばれました。しかし彼は心臓の停止で亡くなってしまいました。私はその時に「無理しないで楽しみましょうよ」と一声かけてあげていれば、などなど自責の念を強く持ちました。 また、もっとパスを回して上げていたら、ということも感じました。彼は非常に真面目で教員採用1年目で担任を持ち、毎日の睡眠時間は3~5時間、倒れた時期は2月、というのも聞きましたが、どうにも私の中では自責の念は消えていません。今後も忘れないつもりです。
 (以上補足終わり)

 しかし、アメリカでは救急車を呼ぶとまず
 「社会保険の番号(ソーシャルID)は何番ですか?」
 と聞かれます。他には貯金額などを聞かれるケースもあるようです(翌日、翌々日の留学生たちは良く知っていました)。そして救急車に乗れば1万円を超えます。医者に問診「どこが痛いですか~?」などを聞かれて3万円、薬が大量に出ますから2~4万円などで、1回乗ると7万円前後かかると言われます。このように医療費が高騰します(例えば出産費用は150万円が平均です。日本は40万円)。
 さらに、病院を保険会社が独占します。ですから、医者に「何人診なさい」や「何万円分薬を売りなさい」などの「ノルマ」が課されます。看護婦さんも同様ですし、これが出来ない医者は職を失います。日本では医者が失業する、というのは想像しにくいですが、アメリカでは普通にある話だそうです(『ルポ貧困大国アメリカ』をご参照ください)。ですから、患者さんの話をしっかり聞いたり、この人は病状が重いからもう少し丁寧に診たい、というのではなく、この人の病気は金になるかならないか、で診なさい、という圧力が掛かるのです。医者だけではありません。

 公衆にとって問題なのは、①健康保険代金が年間約60万円(他の先進国の2.5倍)、②保険未加入者が2~3割の5000万人から9千万人(私は国籍を持たない不法労働者3000万人強を加えました)もいるのです。③手術費が高いので病気になると自己破産しなければならなくなる。日本ではギャンブルや失業が自己破産の主な原因ですが、アメリカではクレジットカードと医療費が主な原因です。
 他にも色々な要因が重なっていますが、インフォームドコンセントは人間という1人1人違う存在に当てはめるのは程度がいる、と私は考えるのです。そこで

 問2 日本ではインフォームドコンセントをさらに進めるべきですか?

 という問いを出しました。
問に対して補足しました。私の個人的な体験です。先ほどの高校の物理教師だった時代、あるクラスで昼休みに数名とバスケットを週に1,2回していました。その中でバスケットをさらにしたいという人が出てきて、私の所属するチームは社会人のみのチームだったので他のチームで練習をした人がいました。ストレッチをしておくように、と言ったのですがどうも腰を痛めてしまったのです。彼がある整形外科に2カ月通いましたが一向に良くならず、相談に来ました。そこで私は、セカンドオピニオンという他のお医者さんの意見を聞く制度が出来たことを教えて、カルテやレントゲンをもらって他の医者を受信することを勧めました。彼は高校生でしたから中々出来なかったので「先生一緒にきてよ~」というので一緒にいきました。医院では最初戸惑っていましたが(多分少ないのでしょう。確認していました)、無事頂き他の名医と他の先生の教えてもらった医者にいきました。「先生、1回だけだけど2カ月通ったよりいい感じ。治りそう!」と言っていました。嬉しいことでした。彼はその後普通に歩けるようになりました。これもインフォームドコンセントが進んだ結果です。けれども、現在より先に進める必要があるのか、私には疑いがもたれてならないのです。

 また、解答方法をしめした。論理性=言葉のつながり、ですから、解答は2方法しかありません。他の答え方、例えば「インフォームドコンセントはいいです」とか「日本の医療は素晴らしい」とか「アメリカは酷い国だ」というのは解答として論理的に間違いです。解答方法は

「だから、~なのでインフォームドコンセントを進めるべきです」 か 
「だから、~なのでインフォームドコンセントを進めるべきではない」

 しかありません。「インフォームドコンセントを進めるべきか?」につながらないと論理的ではないのです。答えを教員がしめしました。

     肯定
事実:「医療は人々のためにある」
論拠:「医療のインフォームドコンセントは人々を幸せにすると私は考える」
結論:「だから、人々を幸せにするので、インフォームドコンセントを進めるべきである」

     否定
事実:「医療は人々のためにある」
論拠:「医療のインフォームドコンセントは人々を不幸せにすると私は考える」
結論:「だから、人々を不幸せにするので、インフォームドコンセントを進めるべきである」

 どうでしょうか。
肯定の「幸せ」とは「知る権利が守られる」、「医療の発展」、「安心」などでしょう。
否定の「不幸せ」とは「医療費高騰」、「加入差別」、「質の低下」などでしょう。
 ただし、「幸福とは何か?」は聞かれていませんから、この解答で良いのです。引っかかる人はそこに引っ掛かります。

 さて、講義として最も大切なポイントを示しましょう。

 「肯定も否定も同じ事実から出発している」

 「同じ事実から出発して肯定も否定も出来る」

と言い直しても良いでしょう。つまり、「論理的には同じ事実から肯定も否定も引き出せる」ということです。これが最も大切なポイントです。

 福島原発事故がありました。この事実から「だから、原発は今度も推進すべきだ」も「だから、原発は今度も推進すべきでない」も論理的に成立します。ですから、原発賛成派の人が「どうしてこの事実を見ないんだ!」と原発停止派の人を避難することは論理的ではありません。同時に「こんなに客観的事実があるのだから原発推進なんて信じられない!」というのも論理的ではありません。その段階で留まっている段階と実は、技術的な議論が出来ないのです。そもそも建設的な議論ができません。それは論理的ではなく、感情や政治性やある特定の価値判断があるのに、それ以外を認めないからです。反対からみれば、自分は原発推進(あるいは停止)、という価値判断をしているのに、公平で中立で論理的だ、と言っていることになります。

 そして、肯定的立論も出来、否定的立論も出来た後に、初めて「自分の考えが持てる」のです。
 片方の立場しか認めない、というのは実はある特定の価値判断に支配されているのでしかないのです。そういうのは学問とは言えないのです。

 この講義で最も大切にする「公平さ」はこのようにして支持されます。そしてこの「公平さ」つまり肯定的立論も否定的立論も立てた上で判断する、というのは、皆さん(学生)が、自分の人生を生きていく時に、自分の足で立って判断する時にきっと役に立つと私は考えています。


 大分加筆しました。講義で2,3の単語だったのが、2,3行に化けています。
その点はご注意ください。

 さて、ここで一旦保存します。
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