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【哲學】プラトンの男女観    

 日付を思い出せないから、いつもの朝ごはんの用意の時だったろう。

 「いま、プラトンの『国家』を読み返していて、なかなか面白いんだよ。」
 「へー、国家って名前の本があるの?」
 「あ、うん。アメリカのアイビーリーグ、えと、アイビーリーグはハーバード大学などの名門私立大学ね、その大学生が読むべき本として、ナンバーワンに挙げている本だよ。プラトンは知ってる?」
 「うん、名前は。」
 「ええとね、男女観とか、現代と同じようだったり、全然違ったりして、面白いよ。」
 「へー知りたいな。」
 「じゃあ、本を貸すよ。」
 「ううん、健治郎さんが書いた文章で読みたい。」

 という会話があった。平成三十一年二月中だったのは確かで、すぐに書くことにする。

プラトンについて
 少しプラトンの紹介をしたい。
 古代ギリシャの哲学者で「イデア論」を唱えた。『ソクラテスの弁明』が日本では有名。二千四百年前に民主制都市国家アテナイの貴族階級に生まれ、欧州哲学の基礎を築いた。師はソクラテス、弟子は学問の祖アリストテレスである。若いころレスラーとして活躍しそのリング名(体格が広い=プラトン)が残った。
 プラトンが唯一の哲学であり、その他の哲学はプラトン哲学の解釈に過ぎない、と言い切る人(ホワイトヘッド)までいるほどである。

プラトンの男女観
 今回は、プラトンで比較的注目されていない、プラトンの男女観、特に男女の関係について『国家』からまとめていきたい。まず、引用したい。

 『「(プラトンの代理ソクラテス)いったい番犬のうち女の犬たちは、男の犬たちが守るものと同じものをいっしょに守り、いっしょに獲物を追い、またそのほかの仕事も共通に分担しなければならないと、われわれは考えるだろうか? それとも、牝犬(めすいぬ)のほうは、子犬を産んで育てるためにそうした仕事はできないものとして、家の中にいるべきであり、牡犬が骨折り仕事や羊の群の世話いっさいを引き受けなければならない、と考えるだろうか。」
 「(プラトンの代理グラウコン)すべての仕事を同じように分担しなければなりません。」と彼は答えた、「両性の体力的な弱さ強さの差を考慮する点をのぞいてはね。」
 「ところでどんな動物でも」とぼくは言った、「共に同じ養育と教育を与えないでおいて、共に同じ目的のために使うことができるだろうか?」
 「いいえ、できません。」
 「そうすると、女子も男子も同じ目的のために使おうとするなら、女たちにも同じことを教えなければならないわけだ。」
 「ええ。」
 「しかるに、男子には音楽・文芸と体育とが課せられたのだった。」
 「ええ。」
 「してみると、女子にもこの二つの術を課するほか、戦争に関する事柄も習わせ、そして男子と同じように扱わなければならないことになる。」』
 『国家』 第五巻 三百四十四、五頁

 この後、プラトンは古代アテナイで男女の教育が同じに行われていないが、同じになるべきである、と結論付ける。ここに見られるのは、
 一、動物を根拠として人間を考えること。
 :キリスト教のように人間を支配者として考えない。
 二、男女の差は体力の強度の差でしかなく、本質は同じであること。
 :男女差は本質の差であるとするキリスト教や儒教とは異なる。
 三、本質が同じであるから教育も同じにしなければならないこと。
 :強弱の差が本質でないのだから、個性によって乗り越えられるので教育を平等にしなければならない。

 キリスト教から国家が独立した二十世紀に入ってもヨーロッパでは男女の差が本質であると考えられてきた歴史がある。チャイナ(支那大陸)では多くの支配民族が入れ替わったが、儒教の影響で男女差は決定的であった。日本では江戸時代に入り多少強くなったが、世界で最も男女差、特に教育格差のない歴史があった。これらの何れの地域でも、二十一世紀に入って男女ともに同レベルの教育が施されている。プラトンの先見性は二千年を優に超えている。それだけに、プラトンの男女観が本質をついているとも解釈できる。
 キリスト教や儒教のように男女の差が本質と考える思想の根拠として、出産が挙げられる。『聖書』ではエデンの園から追放されるアダムとエバへの罰として男女の差がつけられていて、女への罰は出産に関わるものである。ではプラトンはどのようにこの問題をとらえているのであろうか。

 『「もし女は子供を生み男は生ませるという、ただそのことだけが両性の相違点であるように見えるのならば、それだけではいっこうにまだ、われわれが問題としている点に関して女が男と異なっているということは、証明されたことにはならないと主張すべきだろう。そしてわれわれは依然として、われわれの国の守護者たちとその妻女たちとは、同じ仕事にたずさわらなければならないと考えつづけるだろう。」
 「ええ、それで正しいですとも」と彼は答えた。
 「そうすると、われわれの次の手順としては、反対論者に、いったい国を設営して行く上でのどのような技術、どのような仕事に関して、女と男との自然本来の素質は同じではなく異なっているのか、まさにその点を、われわれに正確に教えてくれとたのむことではないかね。」』
               三百五十三頁

 プラトンにとって出産に関わる違いは、男女の差の本質と見なしていないことが判明する。プラトンは肉体上の違いとして「体力差」や「出産の差」などは認めつつも、人間の本質としての知性の差を男女には認めていない。続けて引用したい。

 『「それでは君は、およそ人間が習いおぼえる仕事で、いま言ったすべての点で男性が女性よりもまさっていないようなものを、何か知っているかね。 ―それとも、着物を織ることや、菓子や料理を作ることなどを挙げて、長話をしなければならないだろうか?」
 (中略)
 「そうとすれば、友よ、国を治める上での仕事で女が女であるがゆえにとくに引き受けねばならず、また男が男であるがゆえにとくに引き受けなければならないような仕事は、何もないということになる。むしろ、どの種族にも同じように、自然本来の素質としてさまざまなものがばらまかれていて、したがって女は女、男は男で、どちらもそれぞれの自然的素質に応じてどのような仕事にもあずかれるわけであり、ただすべてにつけ女は男よりも弱いというだけなのだ。」
 「ええ、たしかに。」
 「それではわれわれは、男たちにすべての仕事を課し、女にも何も課さないでおくべだろうか?」
 (中略)
 「では、体育に向いた女、また戦争に向いた女もあり、他方には戦争に向かず体育好きでない女もいる、ということはありえないかね?」
 「あると思います。」
 「したがって、国家を守護する任務に必要な自然的素質そのものは、女のそれが男のそれも同じであるということになる。ただ一方は比較的弱く、他方は比較的強いという違いがあるだけだ。」
 「そのようです。」』
            三百五十四から六頁

 このようにプラトンは、男女の肉体の差ではなく教育を含めた知性の差に注目している。そして何よりも、男女の差よりも個人の差が大きいという点で現代と全く一致している。
 さらに現代と一致する点が再三繰り返される。男女の体力差の是認である。女性保護運動がニーチェのいうキリスト教的な弱者救済運動と結びつくフェミニズムは、女性の権利のみを主張して義務を説かない。さらに男女の体力差も認めようともしない。一方的に生理休暇を要求するだけであり、育児休暇が「女性に与えられてない」とだけ主張し、育児休暇が「男性に与えられていない」とは主張してこなかった。
 しかし、プラトンはこのような立場に立たない。「ただ一方は比較的弱く、他方は比較的強いという違いがあるだけだ」とだけ主張する。
 これは現代では、オリンピックが男女別に行われていることと一致する。フェミニズムの主張を進めていくと弱者は強者と同等の立場になる。すると同じレベルで競争しなければならない。しかし、権利主張では弱者の立場を捨てない、という自己矛盾に陥ってしまう。この自己矛盾を二千四百年前に考え抜いて、男女の差よりも個性の差が大きい、と捉え男女論の出発点と、プラトンはしたのである。
 こうした思想から導き出される最も善い状態を引用したい。

 『「ところで、一国にとって、その内の女たちも男たちもできるだけすぐれた人間となることよりも、さらに善いことが何かあるだろうか?」
 「いいえ、ありません。」』
               三百五十九頁

 プラトンは男女差に注目するのではなく、人間の観点から人間を考えた。この点がキリスト教やフェミニズムなどとは異なる点である。そしてそれぞれの自然的素質を鍛え上げ、個性の開花こそが国家にとって最善である、と述べている。理想すぎる国家論かもしれないが、現代の欧米や日本における教育の理想とピタリと一致するのは、大変に興味深い。プラトンはどうしてこのように本質を捉えることができたのであろうか。なぜならば、古代アテナイでは女性に参政権はなく、男女の教育格差はとても大きかったからである。そのような時代背景に縛られることのない、大きな翼をプラトンが持ち、二千年の大空を飛んだのである。
 
プラトンの恋愛観
 もう一つの足かせは、プラトン自身の考えの中にある。プラトンの恋愛観は実は今述べた人間を人間としてとらえるだけではなく、男性優位の側面もある。そしてそれはプラトン哲学の核心である「イデア論」と緊密に結びついている。
 プラトンの恋愛観で有名なのは、ホモセクシャリティ(男性同士の恋愛 日本では「衆道(しゅうどう)である。特に「少年愛(ペデラスティ)はイデア論と結びついている。講談社刊『人類の知的遺産 7 プラトン』で斎藤忍隨(にんずい)先生は以下のように書かれている。

 「・・・華やかな『饗宴(きょうえん:ブラトン著の書名)』の場面だが、酔漢アルキビアデースは昔を回想して、ソクラテスを自分のベッドまで誘い入れたことを告白している。
 ソクラテスが美少年に寄せるこうした関心がホモセクシャルなものであることは言うまでもないが、ギリシャでは周知のように「少年愛」は社会一般の風習であった。
 (中略)
 しかし(一般的であった同性愛的盟友関係について)、プラトンは、この両人が成し遂げた以上のものを同性愛に期待し、同性愛を極度に精神化した。」
              四十四から七頁
 
 プラトンは社会一般よりも同性愛に高い地位を与えたことが判る。続けて斎藤先生を引用する。

 「『パイドゥロス(プラトン著の書名)』はこのように不毛であるはずの地上の同性愛の局面転換をはかって、天外の風景を眺め知ろうとする知的な恋を促しているが、プラトンの著者の中に登場するソクラテスも美少年や美青年たちもその線に沿って知的な、哲学的な対話に耽溺(たんでき:深くおぼれること)する仕組みになっている。」
                  五十頁

 少し解説して判りやすくしたい。

 プラトンは同性愛の不毛さ、つまり子供が産まれないという同性愛の不毛さを受け止めていた。さらに、美少年は一時である。男性はひげが生えだし筋肉が出てくる。そうした一時の移り行く少年の中に、「美そのもの」を見出すことが知的な作業である、と考えている。そして移り行く美の中に「美そのもの」を見出す知的作業は、この現実に生活している世界の中に、理想の世界「イデアの世界(文中では「天外の風景」」を見出す知的作業に通じている、と考えるのである。
 少年愛を「イデア」の探求に類比させたことを、斎藤先生は「同性愛を極度に精神化した」と述べているのであろう。

まとめ
 このようにプラトン全体の思想を眺めてみると、プラトンは男女の差をはっきりと認めており、その男女の差から知的作業を切り出し、思想の核心である「イデア論」へと進めていく。
 つまり、プラトンの恋愛観において同性愛は異性愛よりも高い評価を受けており、『国家』における男女観だけではないことが示される。
 ではどのように二つの男女観を解釈すべきであるか。それは色々な解釈が述べられてきた。代表例としては「同性愛を極度に精神化した」のはプラトンの対機説法である、という解釈である。つまり、同性愛が社会一般で受け入れられていたから、同性愛で説いたのであって、本質は男女差よりも個性の差を認めていた、と解する立場である。他にプラトンの思想が年齢によって変化するので、その流れで解釈する立場もある。浅学の私にはこれらの解釈をまとめることはできないが、プラトンの男女観が一様でなかったことは示せたと考えたい。
 
 最後に一つ述べたい。『国家』の続きには家族観が示されている。こちらは現代とは全くかけ離れていて、それはそれで興味深い。一部引用したい。

 『「これらの女たちのすべては、これらの男たちのすべての共有であり、誰か一人の女が一人の男と私的に同棲することは、いかなる者もこれをしてはならないこと。さらに子供たちもまた共有されるべきであり、親が自分の子を知ることも、子が親を知ることも許されないこと、というのだ。」』
               三百六十一頁

 婦女子の共有という現代では全く見られなくなった主張が記されている。この点については次回に譲ることとしたい。

 参考書
 プラトン著 藤沢令夫訳 『国家 (上)』 岩波文庫 千九百九十九年 第三十七刷
 斎藤忍隨著 『人類の知的遺産 7 プラトン』 講談社 昭和五十七年 第一刷
 山田潤二訳 『国家 ―政治と教育―(プラトン)』 明治図書出版 千九百七十九年 九刷
 山本光雄訳者代表 『プラトン 国家 他』 河出書房新社 二千四年九月発行
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