FC2ブログ

【随筆】ドッチボールとバスケットボール


 「もう、いや!!」
 (ダン!)

 右足で床を大きくけった。

 「とっくん、ちょっといらっしゃい。」
 「んはぃ!!!(怒鳴り声)」
 (ひざを床につけて、顔の高さを合わせ、抱きしめて背中を両手でさすりだす。)

 「とっくんはドッチボール楽しかったでしょう?」
 「ん!!(大声)」
 「ドッチボールに行って楽しかったんだよね。さっき話してくれたよね?」
 「ぅん(強い声)。」
 「じゃあ、次に金曜日にドッチボールにいくんだよね。」
 「うん(普通の声になる)。」
 「それはとっくんが決めたんでしょ。じゃあ、金曜日に練習いこうね。」
 「うん(普通の声)。」
 「でも、バスケットをやるって決めたのもとっくんでしょ。バスケットは三年間はやるってお約束したよね。」
 「・・・うん。」
 「じゃあ、今日の午前中はバスケットをして、午後はドッチボールの体験会にいって、そして明日はバスケットでしょう。自分で決めたバスケットに迷惑をかけちゃダメだよ。だから、今から寝ないとバスケットの迷惑かけちゃうよね。わかる?」
 「・・・うん、わかる。。」
 「じゃあ、上に行って寝ようね。」
 「はーい(穏やかな声になる)。」

 平成三十年五月十三日の午後四時半である。
 ミニバスケットは公式戦が終わって、次の公式戦まで二か月も間が空いている。同時に、ドッチボールクラブの体験会が丁度あって、とっくんが今日の午後行ってきた。四時に帰って来て、パンや牛乳や煮豆を食べて、明日の朝まで寝ようか、という話になったら、先ほどの「もう、いや!!」が出た。
 疲れていると不機嫌になる。逆に不機嫌になるには、疲れか空腹かしかなく、分かりやすくはある。
 ドッチボールはよっぽど楽しかったようで、「ドッチボールに入りたい」と言った。勢いに乗って、「バスケットよりドッチボールがやりたい」とまで言った。子供らしい子供で、目の前しか見えていない。
 パンを食べ終わるころに聞いてみた。
 「お母さんが言ったように来週の土曜日、釣りをするよ。でも、ドッチボールの練習があるね。どっちに行きたい。」
 「(え?!) うーん。どっちも同じくらい。」
 「さらに、とっくん。囲碁をしたいって言ってたね。」
 「うん、そうだった。」
 「囲碁とドッチボールとどっちがしたい?」
 「えー・・・と。」

 という具合である。楽しいことをやりたい、という気持ちで単純に動いている。

 だから、親が少し整理してあげる。
 「じゃあ、ドッチボールは金曜日に体験会じゃなく、普通の練習に参加してみよう。」
 「うん。」
 「釣りはしたことないし、山の保育園のお友達に教えてもらえるから、土曜日に行ってみよう。」
 「はーい。」
 「囲碁は時間を見つけて参加してみよう。とにかく全部、一回はやってみて考えようね。」
 「はーい。そうだね。」

 バスケットよりもドッチボールが上、と聞いた時は、ドキッとしたが、少し頭を冷やした。この辺りが子育てをしていると鍛えられる。その後、想い付いた一文がある。

 「子曰く、學(まな)びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)く、思うて學ばざれば則ち殆(あやう)し。」
            為政第二 第十五章

 伊與田覺先生訳
 『〇先師が言われた。
 「学ぶだけで深く考えなければ、本当の意味がわからない。考えるのみで学ばなければ、独断におちて危ない。」』 
       『仮名論語』 十七から十八頁

 私ととっくんはバスケットをしている。それを「学ぶ」と考えれば、この一文の奥深さが胸に刺さる。

 「技術の習得や子供の成長、指導方法の習得だけで考えて、なぜ、バスケットをするのか、どのようにすることが最も適しているのか、と深く考えなければ、バスケットをしている意味、活きている意味がわからない。これはドッチボールも同じである。また、バスケットボールとドッチボールのどちらが良いか、どのように良いかなどを考えるだけで、実際に体験を通して学ばなければ、親や子供の独断だけになってしまって危ない。その危なさ、とは人生を無駄にする危なさである。」

 宮崎市定先生の『論語』の學而第一の解釈を知られたので、「学ぶ」を実際の訓練、体験にまで広げて考えた解釈である。

 今回、ドッチボールの体験会に参加してみてよかった。と言うのも、ドッチボールよりもバスケットの方がいい、と私が自分の独断を下したと気がついたから。心の片隅では「とっくんがドッチボールをしたいって言っているけど、向いていない。参加してほしくない。」と感じていた。独断を下して押しつけて、ドッチボールから遠ざけようと、体験会の参加をしぶっていた。「実際に体験を通して学ばなければ、親や子供の独断だけになってしまって危ない。その危なさ、とは人生を無駄にする危なさである。」という一文が、原文では「考えるのみで学ばなければ、独断におちて危ない。」が深く心にしみいった。子育ては親の独断で行うものではなく、子供の意見を取り入れる必要があったのである。
 同時に、子供が目の前のことだけで判断してしまう特性を考慮し、全て子供の望むように、と任せてはならない。これは「なぜ、バスケットをするのか、どのようにすることが最も適しているのか、と深く考えなければ、バスケットをしている意味、活きている意味がわからない。」という一文、原文では「学ぶだけで深く考えなければ、本当の意味がわからない。」である。バスケットをするのは子供の心身の健やかな成長のためである。決して優れたバスケットボール選手を作り出すためではない。それは結果としてついてくるかもしれない。つまり、おまけでしかない。優れたバスケットボール選手にならなくてもいい。目指して歯を食いしばり努力する過程で、子供は成長するのである。それが目的であり、ドッチボールでもバスケットボールでもいいのだ。

 「おまけは、おまけ。」

 と気がついて、どろどろと全身にへばりついていた我欲が洗い流されたような気になった。

 晴れ晴れとした目で見えてきたことがある。ドッチボールの体験会に参加して、とっくんの良い点、向いている点、向いていない点、悪い点などが見えてきた。

 とっくんは、運動量が人一倍あり、ボールへの反応も速い。保育園が同じでドッチボールに元々入っているお母様に「一人で投げて一人で取っている感じですね」と言われた。三年生も含めて二十人強の中で、一番動いていた。午前三時間の厳しいバスケットの練習後に、である。こうした運動特性は、ドッチボールよりもある程度の広さのあるスポーツに向いていると私は思った。バトミントンよりもテニス、卓球よりもサッカーが向いている。こうした気づきは、頭の中の空想では出てこないものだ。また、同じチームメイトへの声掛けも多く、声量も大きい。自分より下の一年生や女子の体の細い子供には弱めのボールを投げていた。これは個人単位のスポーツ、例えば陸上、よりもチームスポーツ、例えば野球の方が向いていると思う。
 悪い点は、他の子供の前にボールが来ても、横から走りこんで取ってしまい、さらにそのことに気がつかない。尊敬するバスケットのコーチは「とくはお家で王様でしょ」と表現された。その通りである。王様なので自分のやりたいことだけに集中して周りを見なくなってしまう。また、ボールキャッチの技術が未熟なのにボールを取りに行くので、すぐに当てられてしまう。キャッチが無理そうなボールも足が動くので取りに行って、当てられる。自分の技術を考えてのプレーができていない。だから、技術の未熟さを考えずに、友達に「俺はボール全部とれるぜ!」と平気でうそぶく(大言壮語する)。

 私の指導するバスケットの練習なら怒る所だ。ただ、ドッチボール、しかも体験会なので何も言わなかった。また、コーチではないので全体を見渡さなくていいし、自分の子供(とっくん)だけを見ていれば良かったので、リラックスして体育館に居られた。次の練習メニューを考えなくてもいい。休憩時間も選手たちを見なくてもいい。そんなこんなで体育館に居るのに緊張感を持たずに、気楽に居られた。久しぶりだった。こういうのも悪くはなかった。

 次回は体験会ではなく、ドッチボールの練習に参加する。釣りや囲碁も実際に参加して、とっくんと何をするかを話し合う予定である。

 それにしても二千年以上前に書かれた『論語』がお教えくださること、感嘆する次第である。
スポンサーサイト
プロフィール

    名前:高木健治郎

書いたもの 令和元年度
書いたもの 平成30年度
科学技術者の倫理(平成30年度)
書いたもの(平成29年度)
科学技術者の倫理(平成29年度)
哲学(平成28年度)
科学技術者の倫理(平成28年度)
書いたもの(平成28年)
科学技術者の倫理(平成27年度)
哲学(平成27年度)
書いたもの(平成27年)
哲学(平成26年度)
「科学技術者の倫理(平成26年度)
講義録「哲学」
書いたもの(平成26年)
書いたもの(平成25年)
論文(高木健治郎の)
講義録「科学技術者の倫理」(平成25年度)
高木ゼミ『銃・病原菌・鉄』
高木ゼミ全6回『ぼくらの祖国』
教養講座6回分(平成24年度)   講義録21~
講義録「科学技術者の倫理」(平成24年度)     講義録1~15
最新記事
講義録「科学技術者の倫理」(平成23年度)
石上国語教室で行われた講演のレジュメです。哲学が足りなかったのが、福島原発事故の原因の1つではないか、と考えています。

「哲学のススメ2」レジュメ

最新コメント
カテゴリ