配布プリント「死と日常」と解説

 静岡英和女学院中学校・高等学校様で、60分の講演で配布したプリントです。

 プリントの解答と講演内容の簡単な内容を、プリントの下に書いております。
 実際の講演は、高校生向けですので、わかりやすい言葉をつかいました。

講演は、石上国語教室様の依頼です。

静岡英和女学院女子中学校・高等学校様HP
http://www.shizuoka-eiwa.ed.jp/

石上国語教室様
http://www.kokugokyoushitsu.com/

 以下レジュメです。WORDのA4で1枚配布です。


                              平成29年2月23日
            死と日常
                               高木 健治郎
問1 「死」とは、何ですか?


問2 「死」とは、あなたにとって何ですか?(書ける所までで結構です)


問3 朝目覚めて学校に来るまで、誰かのお陰で来れました。あなたは誰のお世話になったでしょうか。なるべく多くの人を挙げて書いて下さい。



問4 あなたが生まれるために、物質として親は何人必要ですか? [       ]人

問5 同じく、あなたが生まれるために、明治維新(1867年、150年前)に何人の人がいましたか? 
   1世代30年とすると、5世代で150年です。       [        ]人

問6 同じく江戸時代(1603年、414年前、14世代前)は?  [          ]人
   同じく鎌倉時代(1183年や1192年など、約834、825年前、27世代前)は?
                         [             ]人
問7 以上の問から「生きる」ためには何があったのが判りますか?



問8 1月を日本語で正式に言うと何といいますか? [        ]
問9 問8の意味は何ですか?

問10 新約聖書『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』は読んだことがありますか。   はい・いいえ

問11 『ヨハネによる福音書』12章24節
「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」
はどういう意味だと思いますか。以下に書いて下さい。



問12 『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」は以下の通りです。
「二つのうち一つを選ばなければならない状態、つまり死ぬか生きるかというような場面では、死ぬほうに進むほ うがよい。むずかしいことではない。腹をすえて進むだけのことである。」
どういう意味だと思いますか。以下に書いて下さい。



 以上、配布プリントです。
 以下、プリントの解答と講演の簡単な内容です。また、加筆修正してあります。

 石上国語教室様よりのご紹介をいただきました。小論文の連続講座の最後を担当する講座です。

 最初に、黒板の上に向かって一礼をしました。壇上に立ち名前を述べました。そして「今日は皆さんにお会いできたこと大変嬉しく思っています。感謝で一杯です」と述べました。高校生の皆さんは、予習をしてきてくれました。ですので、私は

「皆さん、死について調べてきてもらったと思いますが、どうですか?死は調べてみて解りましたか?」
「解らないことが多かったと思います。なぜなら、誰も死んだことがないからです。では、どうして死を考えるのか? 誰もが死ぬからです。そして今日は、この視点を少し離れて観てみたいと思います。」

 という切り出して講演をはじめました。「ではまず、問1を書いてみてください」と言いました。受講生の他に高校の先生方3,4名、同窓会の方3名、国語教室の方2名が聞いて下さいました。

○- 問1 「死」とは、何ですか? -

 死=非日常
 生=日常

 黒板に板書しました。タイトルが「死と日常」です。そして「死」とはなんですか?と聞いています。この2つから導き出されるのは、死=非日常です。なぜなら、「死『と』日常」ということで、死と日常が対になっているからです。このように学問では、言葉、単語、助詞等を大切にします。同時に、クイズではありませんから、必ず導き出すだめの手引き(ヒント)があるのです。授業では教科書であり、高校の授業では先生の説明の順番です。この点に気がつくこと、この点を大切にすることが、高校までの勉強で重要な部分です。

 よく、「高校までの数学や国語は社会で役に立たない」という人がいます。それはこの点を学んでいないからでしょう。もちろん、教師側の責任もありますが。例えば、結婚とは何でしょうか? 市役所に行くと婚姻届をもらえます。そこに名前を書くのは本人同士と、書かなくてもいいですが証人の欄があります。ここから導き出されるのは、「結婚とは本人同士の承認だけで提出でき、かつ市役所に出す法律に基づく行為」というのが判るのです。税金、行政サービス、数々の商売なども、同じように必ず導き出すための手引き(ヒント)があり、それを正確に読み取ることが社会生活を続けていくために必要なのです。初めから、講演では話していない内容を入れ込みました。話をもとに戻します。

 つまり、タイトルから 「死=非日常 生=日常」を書けるようになるのが、学問なのです。そして正解はこの1つしかありません。そして今回の講演の核心部分です。

○- 問2 「死」とは、あなたにとって何ですか?(書ける所までで結構です) -

 他方、死とは個人の想い、という側面もあります。私には2人のおじいちゃんと2人のおばあちゃんがおりましたが、全員死にました。私に将棋を教えてくれた半身不随の母方のおじいちゃんが大好きでした。あまり話さない人でしたが、岩手県に里帰りすると何ともなしに歓迎してくれたのです。その静けさが好きでしたし、今でも逢いたいと思うのです。これは私の個人の想いです。この面は重要です。静岡県ボランティア協会様は、「ケアする人のケア」と題して、介護職や看護職など人の死に向かうあう人のケアの問題を取り組む連続講座を開催して下さいました。私も当時「ターミナルケアにおける死」という授業を介護職を目指す学生さんに教えていましたので数年参加しました。ちなみに、静岡新聞社から本としてまとめられています。

『一人じゃないよ ケアする人のケア』 静岡新聞社編纂 2008年

 この講座の中で、内藤いづみ先生のお話が心に残っています。在宅死、つまり日常生活を過ごしているいつもの家で死ぬ、家族に死をみとってもらうのを、いち早く取り組まれたのが内藤先生です。先生は、ご講演の中で「寝る前に布団に入って、今日よかったことを3つ思い出して、感謝をします」と仰られておりました。それから、私も講演では言いませんでしたが、毎日続けています。死の看取りを実際に考える時、内藤先生の方法はありがたいものです。そして、それを真似する必要はありません(問1のように正解は1つではありません)。死の想いの受け止め方は1人1人異なり、それで良いと思います。この問題は、死ぬまで考え続けていく問題だと思いますし、話は長くなりますので、この辺にしておきました。ただ、ポイントは以下の通りです。

☆現在の日本では、「死」=個人の想い の視点に集中している
☆学問としての「死」と個人の想いの「死」は別の問題である

 話を「死=非日常」に戻しました。
非日常というのは、所有権で考えると解りやすくなります。死者には所有権がありません。ですから遺産、遺言などの問題が出てきます。日常では人が所有権を持つことで成り立っています。ですから、お金を所有している前提で、コンビニやスーパーがあるのです。車のローンを組むのもその人が生きていることが前提です。
 個人の心でも同じです。

 生=日常=当たり前

 と思うから、学校は行くのがめんどくさくなります。授業を受けるのが当たり前だから、「あの先生の授業は嫌い。好き」があります。当たり前だから、この授業も1日の授業が終わってから、さらに受けるのは面倒くさい、と思う訳です。それは社会生活を営む前提ですから、そうなるのです。対して同じことを

 死=非日常=当たり前でない

 と思ってみましょう。学校は今日が最後です。めんどうくさい、と思いませんね。「最後の授業だから一所懸命聞こう」となるわけです。教室の外を見てください。夕日がさしてきています。皆さんどう思いますか? いつもの夕日=当たり前と思えば、まぶしいな、とか、もう夕暮か、と思うでしょう。けれども、末期がんで明日明後日の命の人、ホスピスに入っている人はこの同じ夕日をどのように感じるでしょうか。

「なんと美しい夕日なのだろう。その夕日に照らされている世界は美しいなぁ」

と感じ入ることでしょう。つまり、死=非日常の視点を持つと、生きていることが当たり前ではなくなるのです。それをより具体的な話で考えてもらいます。

○- 問3 朝目覚めて学校に来るまで、誰かのお陰で来れました。あなたは誰のお世話になったでしょうか。なるべく多くの人を挙げて書いて下さい。 -

 高校生の皆さんは親と書いてくれました。また、優れた学生さんがいまして「漁師」と書いてくれました。素晴らしいですね。私の伝えんとすることをしっかり理解してくれています。答えは「数え切れないほど多くの人」です。朝起きるとき、布団かベッドで寝ているでしょう。その布団やベッドはあなたが自分で作ったものでしょうか? 誰かが布を作ってくれ、デザインをして工場の人が作ってくれ、会社の営業の人が宣伝をしてくれ、そしてお店の人から買ったから寝ることできたのです。寝巻(パジャマ)もそうです。「漁師」と書いてくれた人はお魚を朝食に食べたのでしょうか。朝ごはんの材料を全部自分だけで採った人はいないでしょう。2000年前は自分で採るのが当たり前だったかもしれませんが。起こしてくれたのは誰でしょうか? 携帯電話や目覚ましなら、それを作ってくれた人などなどがいるのです。道路は昔の日本人が税金を払ったからできたのです。水を飲んだのなら現在の水道システムを作ってくれた人、例えば後藤新平が塩素殺菌による現在の水道水を作ってくれました、のように数多くの人のお陰なのです。税金はみんなが生活しやすいようにと払ってくれたからなのです。その方たちは現在どうなっているでしょうか、もう全員亡くなっています。つまり、私たちの社会が成り立つためには、数多くの人の死=非日常があるためなのです。

 私が最初に「皆さんにお会いできたことを嬉しく思いますし、感謝しています」と言いました。それはもちろん皆さん1人1人にも感謝していますが、ここに来るまでにお世話になった人々への感謝も意味しているのです。(私が講演の前に黒板に向かって一礼をしたのも同じです)

 ですから、皆さんが大人になっていく、ということは年齢が18歳や20歳になることだけではなく、そのお陰に気が付き、そしてそれに感謝して、自分が皆のために働くことも意味しています。社会の死=非日常から、物質として考えてみましょう。

○ー 問4 あなたが生まれるために、物質として親は何人必要ですか? [       ]人 -

 すぐに書いてくれました。正解は「2人」です。「物質として」とわざわざ書いたのは、高校時代は両親と上手な関係を持っていることが少ないからです。私自身、父親が大嫌いで、顔を観るのも同じ空気を吸うのも嫌でした。高校時代は思春期で自我が混乱する時期ですし、親離れをする時期ですから、そのようになるのです。また、離婚率が33%を超えていますから、ご両親が離婚されている家庭もあるのです。そうした社会的な関係を抜く、という意味で「物質として」と書きました。

○- 問5 同じく、あなたが生まれるために、明治維新(1867年、150年前)に何人の人がいましたか?  -
   1世代30年とすると、5世代で150年です。       [        ]人

 親は2人、祖父母は4人・・・です。これは、2の0乗=1(私)、2の1乗=2(親)、2の2乗=4(祖父母)・・・ですので、150年前の5世代は2の5乗=2×2×2×2×2=32です。

 これも学生さんが答えてくれました。なので、32人の人がいなければ、1人の人間は存在しないのです。32人の内、1人でも病気で亡くなったり、事故で死亡していれば、あなたはいなかったのです。これは純粋に数理で導き出されます。そう考えてみると、私が存在してることの軌跡(奇跡)に想いが深まります。ではさらにさかのぼってみましょう。

○- 問6 同じく江戸時代(1603年、414年前、14世代前)は?  [          ]人
       同じく鎌倉時代(1183年や1192年など、約834、825年前、27世代前)は?
                                      [             ]人 -

 江戸時代は2の14乗で「1万6384人」で、鎌倉時代は2の27乗で「1億3421万7728人」です。
面白いことに、日本の現在の人口とほぼ同じ人数になります。1億人の内、幾人もかぶっているでしょう。ですから、日本人が「話し合えばわかる」という意識は数理に基づくと言ってもいいでしょう。それにしても興味深い一致です。数学はこうした興味深い一致がたくさんあります。

 日本は世界最古の国家です。今年で2677年目になります。そうすると2の89乗=10の26乗になります。全宇宙の星の数がたった2000億です。現在観測されている広さが、丁度10の26乗mです。日本が建国された時までさかのぼると、その1人1人が1m置きに立つと全宇宙の大きさと同じになる・・・想像を絶するほどの数なのです(諸説あります)。

○- 問7 以上の問から「生きる」ためには何があったのが判りますか? -

 ここでも学生の皆さんの解答にうなる場面がありました。ただ、挙手を求めましたが、緊張しているためか中々あがりませんでした。それはそうかもしれません。と言いますのも、後ろに同窓会の方が3名、教頭先生を始め数名の先生がいらっしゃるのですから。指名をして答えてくれた解答は、

 「多くの人の非日常」

 素晴らしいです。タイトルの手引きから導き出してくれました。知ってもらいたい感じてもらいたいのは、「死=非日常」という視点から見てみると、多くの人の非日常によって当たり前の世界が作られているということです。人は独りで生きているように錯覚します。現代社会はますます便利になっていますから、そのように錯覚しやすくなっています。「生きる」ためには、「多くの人の非日常」があるのです。例えば、この講演をするために、後ろに座っていらっしゃる方々のお陰で皆さんに逢うことができたのです。ご先祖様が居たから、生まれてこれたのです。道路や服なども数多くの方のお陰です。この点をお伝えしました。

○- 問8 1月を日本語で正式に言うと何といいますか? [        ] -

 睦月(むつき)です。これも正解を書いてくれている学生さんに答えてもらいました。「意味は解りますか?」と聞くと「解りません」と答えてくれました。

問9 問8の意味は何ですか?

 「睦(むつ)みあう」=「家族仲よくする」という意味です。お正月は死んだ祖先が歳神(としがみ)様として帰ってくる月です。つまり、数億人以上の先祖のお陰で私は今日生きていられることに感謝する月です。皆さんも遠い親戚と久しぶりに逢うとご馳走を食べるでしょう。それと同じです。「死んだ家族も含めて仲よくする」=「睦月」=正月の意味なのです。

 ちなみに、歳神様は初日の出で飛び出して、門松を目指し、しめ縄(玄関につける丸い縄)を通って家に入り、おもちにいらっしゃいます。そのお餅を鏡餅と言います。神社は神様がいる場所に鏡が飾ってあります。ですから、その時は家の鏡餅に遊びに来て、一緒にお祝をしてくれるのです。そしてお正月が終わって神社にもどられるのです。静岡市では浅間神社内に、大歳御祖社(おおとしみおやじんじゃ)というのがあり、静岡市の死んだ方がいらっしゃる場所のようです。

 では、このような考え方は日本だけなのでしょうか。世界に目を向けて観ましょう。

○- 問10 新約聖書『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』は読んだことがありますか。   はい・いいえ -

 多くの方が「はい」に丸をしてくれました。英和女学院中学校・高等学校のHPを拝見していまして、4つの福音書からの引用が数多くあり、伝統を大切にされていることが伝わってきました。また、現代風なHPのレイアウトとよく合っていると感じました。

○- 問11 『ヨハネによる福音書』12章24節
「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」
はどういう意味だと思いますか。以下に書いて下さい。 -

 「自分の生きること=当たり前だと考えると独りになりますよ。もし、自分の生きること=当たり前ではない、と考えると多くの方々のお役に立てますよ」

 という意味だと高木は読みました。ただし、この場面はいくつか解釈があります。まず、「あなたがた」と呼びかけているのはイエス様です。相手はギリシャ人です。第12章20節で「祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。」とあります。ギリシャ人はイエス様に書かれていないのですが、祭りについての不平不満、多分、ユダヤ人の民族主義的な部分、現在でいえば差別的な部分について文句を言ったのでしょう。それに対してイエス様は「それはいい」や「それは悪い」とお答えにならず、上のように答えられたのです。

 つまり、麦がそのまま麦でいるのは当たり前のことです。生=日常を続けることです。けれども、そうなると孤立してしまうのです。例えば、高校生の皆さんは働いていません。このまま働かないで友人と遊んだり、楽しく(あるいは苦しくとも)生きていこうとしたらどうなるでしょうか。30歳、40歳になっても家にいて働かず、空いた時間は自分のためだけに使えるという生活です。そういう人は孤立するのではないでしょうか。あるいは、結婚したとします。新婚ほやほやのままの状態で、ずーっと伴侶に同じことを何十年もしてほしい、と変わらないままだとしたらどうでしょうか。若いうちはいろいろな社会のお役が回ってきません。町内会の班長にしてもお当番にしても回ってきません。私もそうでした。けれども今は、数か月に1回資源ごみ回収で朝、回収場所に立ちます。班長も来年回ってきます。回覧板を回したり配布物をもらいにいくことでしょう。それを「今までなかったから、面倒くさいから」とやらなければ、町内で孤立してしまいます。イエス様のお話を少し身近な話にしてしまいました。もとに戻します。

 イエス様は、ギリシャ人にもユダヤ人にも同じように「自分たちの当たり前だけを相手に押し付けては孤立しますよ。そうではなくて死ぬ覚悟で融和に努めれば、多くの実りがありますよ」と言っておられるのです。偉大なお言葉です。

○- 問12 『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」は以下の通りです。-
「二つのうち一つを選ばなければならない状態、つまり死ぬか生きるかというような場面では、死ぬほうに進むほうがよい。むずかしいことではない。腹をすえて進むだけのことである。」
どういう意味だと思いますか。以下に書いて下さい。

「 生きる=当たり前、と死ぬ=当たり前ではないを選ばなければならなくなった時、死ぬ=自分の欲を捨てる方向を選びなさい。それは覚悟が要りますが、選びなさい。」

 となります。言葉は異なりますが、先ほどの一粒の麦と同じ意味なのです。仏教でいえば「死ぬ=欲を捨てる」という意味です。

 ここまでの講演の内容を踏まえて例えてみます。
 明日はテストだとします。

「ああ、勉強しないとな、でも面倒くさいな。だって、勉強しても成績にも就職にも関係ないし、得にもならない。無駄じゃん」

 という場面です。「勉強しない=楽=欲=得にならないことをしないのは当たり前」と「勉強する=苦=欲を捨てる=得にならなくても覚悟をしてやる」で、勉強しなさい、という風になります。人は生きるために欲を持ちます。けれども、悩む場面があった時、欲を捨てなさい、というのです。『葉隠』では「死にぐるい」とも言っています。意味は「死者は欲がない。だから毎朝死ぬんです。そして欲にまどわされずに、皆のために働くのです」と言っています。イエス様と『葉隠』が時代を超えて同じことを言っているのです。
 それは、「生=日常=当たり前」と「死=非日常=当たり前ではない」という対立で比べると観えてくることです。

 現代の私たちの社会は、一見すると自分の得を考えている人だけが作っているように見えます。けれども、実はそうではないのです。自分の得だけを考えれば税金を納める人は少なくなるでしょう。街は汚くなるでしょう。もっと犯罪が増え安心できない社会になるでしょう。道路がこんなにもきれいに保たれているのは世界190カ国以上の中で当たり前でしょうか。街がこんなにもきれいなのは当たり前でしょうか。私は「静岡駅周辺が他の県庁所在地よりもきれいだからと移住してきた」と言っている人に会ったことがあります。確かに静岡市はきれいな方です。

 私は毎朝、神社に息子、娘2人を連れてお参りに行きます。雨の日はいきませんし、結構気楽にお参りしていますが、毎朝、おじいちゃんやおばあさんが家の前の道路をはいて下さっています。「おはようございます」とあいさつをしています。1度、「いつもはいて下さりありがとうございます」と言ったことがあります。するとそのおばあちゃんは、「あら・・・」と言って家の中にひっこんでしまいました。なぜなら、褒められるために掃いているからではないからです。後日お話をうかがうと「通る人が気持よくなるために」と仰って下さいました。毎朝早く起きるのは面倒くさいです。掃除するのも面倒くさいです。でも、知らない誰かのために掃いて下さっているのです。学生の皆さんに

「 問3 朝目覚めて学校に来るまで、誰かのお陰で来れました。あなたは誰のお世話になったでしょうか。なるべく多くの人を挙げて書いて下さい。 」

 を思い出して下さい、と言いました。皆さんが朝通ってきた道は汚かったですか?と。道路は国や県の管理下ですから、本来は清掃員が来てきれいにするものです。汚くなかったとしたら、清掃員を毎日みていますか?と聞きました。ということは、きれいな道は当たり前=生きる=欲、ではないのです。誰かが自分の欲を抑えて=死できれいにして下さっているのです。そのことに気がついて欲しいです。ですから、毎朝、先生や友人に会って挨拶をするのは、「ここまで来れた人に感謝する」という意味もあるのです。また、奉仕も同じです。私達は多くの方の奉仕=死によって支えられています。その自覚が奉仕へと向かうのです。

 「労働と働く」の違いが判りますか?

 と問を出しました。「働く」は日本でできた漢字です。日本語はもともと文字がなく音に意味がありました。「はたらく」=「八方楽く」の意味です。この場合の楽、は先ほどまでの「生=楽」とは違う意味です。たとえ話をします。

 皆さんが明日から今日という日は1日しかない。だから、一所懸命授業を受ける、と頑張ります。数日すると充実が感じられるでしょう。そうすると「肉体が楽ちん=快楽=苦痛がない」ではなく、「精神な充実感=楽しさ」を実感するでしょう。そうすると本人の「心が美しく」なります。この点を思想として打ち出しだのは江戸時代の石田梅岩先生です。次にその姿を親が見たらどうでしょうか。ああ、英和女学院に行かせてよかった、と楽しくなるでしょう。そしてその頑張る姿を見て、先生は「お、頑張っているね。」と喜んでくれるでしょう。そうして勉強をがんばる姿勢は(成績に関係なく)、アルバイトでも仕事でも社会全体の役に立つでしょう。そうやって自分が怠け心を捨てて頑張ること、そして自分も周りも楽しくさせること=「はたらく」というのです。先ほどの、誰にも褒められなくても家の前を掃除しているおじいさん、おばあさんの動きは「はたらく」そのものなのです。

 今回は、「死=非日常」と「生=日常」と対比させて、色々な点を挙げました。「死=非日常」から見ると、当たり前が当たり前でなくなる、という所を伝えました。

 質問を受け付けた後(ありませんでしたので)、感想を書いてもらいました。
 最後に、講演をできましたことに感謝をして、黒板に一礼をして終了しました。

 石上国語教室様の講演の意味を小論文から説明をされました。
 同窓会の方々、先生方に心のこもったお言葉と対応を頂きました。感謝申し上げます。

 講演が終わり校門を出ますと、すっかりと日が落ち、風が寒くなっていました。
 家に帰り早速、全ての感想を2回目を通しました。自分自身で深く考えてくれたこと、「死=非日常」の対比とその意味を受け止めてくれたことが伝わってきました。誠実な学生さんに恵まれたことに感謝のことばが、溜息のように思わずこぼれました。
 




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