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エッセイ「【随筆】哲学とーちゃんの子育て 五 -ガスと電気-」


質問攻めの車の中
 最近、車の運転中、とっくん(五歳六か月)に質問攻めにされることがある。

 「ガスと電気はどっちが強いの?」

 「う~ん、ガスかなぁ。」

 「なんで?」

 「ガスから電気は作れるけど、電気からガスは作れないからねぇ。」

 「そうなんだ~。」

 「じゃあ、雷とバスはどっちが強いの?」

 「目の前に走っている大きなバスでいい?」

 「うん。」

 「じゃあ、そうだなぁ~バスかなぁ。」

 「なんで?」

 「雷がバスに落ちても平気だから。」

 「そうなんだぁ~。」

 「じゃあ、竜巻と爆弾はどっちが強いの?」

 「うーん、難しいねぇ。」

 「難しい??」

 「うん、難しいねぇ。でも、竜巻かなぁ~。」

 「なんで?」

 「竜巻の中で爆弾が爆発しても平気だからね。」

 「へー平気なんだ?!」

 「そうだよ、竜巻の方がエネルギーが大きいからね。」

 「とーちゃん、エネルギーって何?」

 「おーそうか、エネルギーってのは、そうだなぁ、大きなバスと自転車とどっちが強いか分かる?」

 「バス。だってぶつかっても強いから。」

 「そうだね、それがエネルギーだよ、エネルギーが大きい方が強いんだよ。竜巻と爆弾なら竜巻の方が力が強いんだよ。」

 「へー。」

 丁度、五歳を過ぎて、世の中の色々なことに意味を求めるようになってきた。ヒーロー戦隊ものは、「ニンニンジャー」と「仮面ライダーゴースト」が大好きである。この勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の物語は、世の中の色々なことに、「悪を懲(こ)らしめ、善を勧(すす)める」という意味を与える物語である。そしてヒーローと一体になって、世の中の色々なことに意味を付けていく。勧める、には「努力する」の意味もある。
 私も、免許を取って一年半、会話できる余裕も生まれてきている。お陰様で無事故無違反である。

世の中に意味を与えるために
 とっくんとの会話で大切にしているのは、以下の二点である。

 ①問を真剣に考えること
 ②問を否定しないこと

 当たり前かもしれないが、当たり前を教えるのが躾(しつけ)である。

①問を真剣に考えること
 『論語』に以下の言葉がある。

 「子曰(のたまわ)く、學(まな)びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)く、思うて学ばされば則ち殆(あやう)し。」
 『仮名論語』 十七頁 爲政第二 第十五章

 「先師が言われた。
 『学ぶだけで深く考えなければ、本当の意味がわからない。考えるのみで学ばなければ、独断におちて危ない。』」 伊與田覺先生訳

 五歳児の問は、粗雑に出来ない。いや、本当は何歳の問いでも粗略に出来ない。なぜなら、深く考える機会を頂けるからである。世の中の意味を考える問の前では、誰でもが公平で平等なのである。
 
 ガスの意味は、既に過去の私が決定していた。が、問を真剣に考えること、で現在(四十二歳)の私は、新たに置き換える。ガスの意味が「便利なもの」から、「ガスは電気よりも強い。なぜなら、ガスは電気を生み出すが、電気はガスを生み出せない」に新たに置き換えた。

 「学ぶだけで深く考えなければ」

 とは仲間や本を読み、過去の私を現在の私に新たにすることも意味している。そういえば孔子は弟子達と沢山の会話をしていた。怠け者の弟子からも学ばれた。『仮名論語』 五十三、五十四頁 公冶長第五 第十章

 「宰予(さいよ:弟子の名)、書寝(ひるい)ぬ。…子曰わく、始め吾人に於(お)けるや、其の言(ことば)を聴きて其の行いを信ず。今吾人に於けるや、その言を聴いて其の行いを觀(み)る。予に於てか是を改む。」

 「(弟子の)宰予がだらしなく昼寝をしていた。…私は今までは、人の言葉を聞いてその行を信じた。だが今は、その人の言葉を聞いても、その行を見てから信ずるようになった。お前によって人の見方を変えたからだよ。」 伊與田覺先生訳

 宰予は弁舌の優れた人です。孔子も口先でコロリと騙されました。そこからが孔子の偉大な所で、「どうしてこうなったんだろう」と問、そして自らの意味を新たにしたのです。孔子は宰予を「どうして怠けるんだ!」と責めて終わりにしませんでした。中々出来ないことです。

②問を否定しないこと
 「問を否定しないこと」の大切さは、数々の所で言われているが、先程の孔子の言葉の後半「思うて学ばされば則ち殆(あやう)し。」を引用したい。

 「考えるのみで」というのは、①で書いたように自らの意味を新たにすることである。続く「独断におちて危ない」は、先生や仲間と会話しない危険を意味している。
 言い換えれば、知識を一つの立場でしか吸収できない危険である。先生や仲間との会話をしていても、自分の考えだけをぶつける人がいる。案外にいる。孔子が顔回を褒めたのも、この辺りであろう。
 また、本との会話も重要である。本は著者の会話が詰まっている。先生や仲間との会話とは違う会話ではあるが、会話できることに変わりはない。
 本の著者との会話も含めて、会話によって、自分が思いもよらなかった「気づき」を与えられる。「気づき」へ届くのを邪魔するものがある。「自分の意見だけを押し付ける」ことである。「自分の意見をぶつける」と「自分の意見を押し付ける」は似たような言葉になることが多い。分かれ目は、問うことを根本から否定することである。とっくんとの会話で振り返ってみよう。私が運転中で時間と余裕がある時に、とっくんから私が既に知っていることを問われた。人情としては「面倒くさいなぁ」と思うであろう。その時に、

 「自分で考えなさい。(それがあなたのためよ)」
 「本を読みなさい。(それがあなたのためよ)」
 「そんなことも知らないの?」
 「何で今聞くのかな、そんなこと。」

 という言葉は、問うことを根本から否定することになってしまう。子供や相手の立場に立ってみれば察せられるであろう。「相談しても答えてくれないし説教臭いから」と親や相手の独善さを感じ取り、自らの疑問をぶつけようとはしなくなる。具体的には「そうだね」と形ばかりに返事を返すに違いない。「はーい」と。そうやって先生の親の意見に従うことにする。何故なら、最も手軽で、効果的であり、自分が怒られないで済むからである。しかし、「気づき」の機会は閉ざされてしまいがちである。

「気づき」の面白さ
 ①と②を通して親子の会話による「気づき」の面白さを知れば、次に、本との会話に置きかえられると感じている。
 本は無理やり読んでも面白くはない。何か疑問を持った時に、本の筆者と会話して答えを探すのが面白い。小説には、「へーそんな風に人間を見ているんだね、気が付かなかったよ」という面白さが溢れている。歴史には「ほぉ~人間はそんな行動をしてきたんだね」という驚きがつまっている。本の面白さは、本の筆者が教えてくれることと自分自身が会話をして「気づき」が得られることにある。

大学試験という余談
 少し余談になるかもしれない。現在、大学受験生を担当する機会に恵まれている。実感しているのは、「小論や面接とは大学と学生との会話である」という点である。現在の大学入試は過去の小論や面接の問題を受験生に教えくれる。それは大学から学生への話し掛けなのである。その話し掛けに真剣に受け止め、会話を返すことが試験の合否につながってくる。
 単純な会話は「大学に入りたいですか?」に対して「はい、入りたいです」である。これでは合否は、他の受験生のレベルや数によって左右されてしまう。きちんとした会話では、「大学に入りたいですか?」に対して「はい、私は大学に入る準備をこのようにしてきて、大学ではこのような目標を持ち、このような学習計画を立てていますので、入りたいです」である。理由を説明している会話がきちんとした会話なのである。

 視点を広げてみれば、試験問題を読み、マークシートを塗りつぶす一般の試験も同じである。大学が「あなたはきちんと勉強してきたんですか?」と問い、「私はきちんと勉強してきましたよ。」と試験で発揮する。試験問題は教科書から必ず出ると事前に教えてくれている。数が多いのが難点ではあるが、これも会話なのである。日本の入試は少々難しくて、アメリカのように会話が簡単、つまり、入試で多くの学生を合格させる方法もある。アメリカでは入学してからの会話が大変で進級できない人が多いと言われている。どの会話を重視するかが国や大学によって変わることがある。
 
 受験生を指導する中で実感するのは、先生と十分に会話が出来ない学生は実力が伸びにくく、会話がしっかり出来る学生は、驚くほど伸びることが多いことである。

 私はよっぽど試験が迫っている場合を除いて受験生に読書を求める。事前に問を課したり、読み終わった後に直接問うたりする。一週間に一冊(三百頁)を課すことも多い。大人でも中々難しい量なので、出来ない学生も多い。出来ない時の会話を重要視している。本を読むのが早い遅い、元々の頭の回転力が良い悪いはある。学生自身に想定外の予定も入ることもある。私が学生に聴きたいのは、

 「なぜ、出来なかったのか。」

 である。私が「なぜ出来なかったの?」という問にきちんと説明できるかどうか、である。人間は苦境の時に本音が出やすい。出来ない時にその学生の本性が現れやすい。「先生多すぎでしたよ」と相手に責任を押し付けたり、無断でさぼったり、「すいません」とだけ言って理由を説明しなかったり、などがある。孔子が宰予を責めなかったのを見習い、私は学生を責めたりはしない。会話ができる学生と会話ができにくい学生の対応を替えるのである。それは①と②を大切だと考えるからでもある。また、受験生と私の関係は合格後に終了するが、受験生の人生は終わらない。だからこそ、会話がしっかり出来るようにと導いていきたい。
 大人でも失敗はする。その時に、きちんと説明できるかどうか、相手と会話できるかどうか、が社会生活では大切なのである。言い換えれば、人生においても会話は重要である。

 「子曰く、學びて思わざれば則ち罔く、思うて学ばされば則ち殆し。」

 とは名言である。本文の内容が簡潔にまとめられている。『論語』が読み継がれてきた理由が少しだけ解った気がした。有り難いことである。
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