エッセイ「【先賢】伊藤仁斎の人となり」

(「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した原稿です。
 読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。以下本文です。)

 前回のエッセイ「【學問】伊藤仁斎と深さに学ぶ」で、伊藤仁斎を儒教の中に位置づけました。そして、客観的で公平な手法が優れている点にも注目しました。今回は、仁斎の人となり、を中心にして、仁斎の生い立ちや、思想にもう少し踏み込んでみたいと思います。資料を読んでみると、仁斎の奥深さ、思想家としての偉大さ、が観えてくると同時に、京都という街の移り変わりや、皇室まで、浮かび上がってきました。そして儒教が日本化した理由が観えてきました。

伊藤仁斎の生れ
 伊藤仁斎は京都の堀川通りの生れで、寛永四年(西暦千六百二十七年)です。生家は戦国時代の戦乱に巻き込まれ家産を失い、祖父が京都に移住し刀や家具を売り成功します。祖父了慶(りょうけい)は、連歌を嗜(たしな)み諸僧に参禅しましたが、これらはそっくり仁斎に引き継がれました。伊藤家は了慶によって京都の高度の文化的素養を取り入れ、富裕層の交流の場に入って行きました。それを婚姻によって不動のものとしました。
 母方は豪商角倉(すみのくら)家と御連歌師の里村家につながり、妻は芸術一族尾形家と本阿弥家につながっています。有名な尾形光琳(こうりん)はいとこになります。光琳は、金の装飾をふんだんに使い、貴族的な優美さを追求しました。日本風のかわいらしさ、古き王朝時代の古典を取り入れました。仁斎が思想面で古き王朝を尊重し、芸術面では光琳が尊重したのです。二人の共通点は、裕福な町人や教養高い公卿の社交界の雰囲気の中で育っており、自由な文化的雰囲気を吸い込んで育っている点にあります。
 本も同様です。仁斎の学問の基礎となる『論語』や朱子の『四書』、『語録(ごろく)』、『性理大全』などは祖父了慶が所蔵しており、儒教研究の無二の教科書となりました。時は戦国時代、京だけがこうした教養高い蔵書が流通していました。また、母に恋話を聞かせてもらい町見物や芝居見物につれていってもらっていました。恋話は、古き王朝時代の『古今和歌集』や『源氏物語』などに欠かせない主題です。『古今和歌集』は恋の歌が最も多くの章を占めています。恋話は古き王朝時代の香りとして受け継がれてきました。
 対して、古き王朝とは別の立場である武家は、恋話に対して反対の態度でした。山崎闇斎が最もいやしんだのが恋話でした。荻生徂徠や山鹿素行は武家の統治を中心に儒教を考えていましたから、全く省みられませんでした。朱子学では恋話は全く相手にされない主題でした。以上の二点から、仁斎の生れが古き王朝時代の雰囲気をたっぷり含んでいたことが判ります。

伊藤仁斎の時代
 次は仁斎の時代の社会背景から考えていきましょう。それは皇室が形骸化していく時代であり、政治の中心が京から江戸へ移る時代でもありました。
 仁斎誕生の前年、寛永三年に将軍徳川秀忠が京都に上り(あるいは下り)、第百八代、後水尾( ごみずのお)天皇を二条城に迎えて大いに武威を誇示しています。三年後の寛永六年、紫衣(しえ)事件で天皇から僧侶を任命する権限を奪いました。僧侶が紫の衣(法衣や袈裟:けさ)を朝廷から賜る伝統がありました。しかし、江戸幕府は「禁中並公家諸法度」を出し、禁じていたのです。御水尾天皇は慣例通り紫衣を相談なく賜ったのです。この事件の本質は、「江戸幕府の法が天皇の勅許に優先する」という点です。統治権が天皇から江戸幕府に移る、という事件です。有名な大徳寺住職沢庵禅師は抗弁書を提出しています。しかしながら、結果は江戸幕府の法が天皇の勅許に優先したのです。それにより、後水尾天皇は突然、退位をされたと言われています。仁斎二歳で政治権力が江戸に移る大事件が起きていました。それまで、室町幕府成立の建武三年(西暦千三百三十六年)から、約三百年間、京周辺に政治権力があったのです。織田信長も豊臣秀吉も京の政治権力の代理人に過ぎなかったのです。
 紫衣事件の五年後、寛永十一年に家光が上洛し、武威を発しつつ、京都民に銀十二万枚(約百億円)を配っています。紫衣事件の動揺と江戸幕府への反発が根強く残っており、これを治めるためです。時に、仁斎八才。家光上洛の光景を目にしたことでしょう。関ヶ原の戦いの人数を超える三十万人の大軍勢を従え、明正天皇と御水尾上皇に拝謁し、新たに七千石を献上しています。江戸幕府がさらに権威を高める上洛となりました。御水尾上皇は院政を認められましたが、これもまた、江戸幕府によって院政を許可される、という江戸幕府上位を決定づけました。このように数々の事件によって天皇は権力や政治、権威からも遠ざけられたのです。仁斎の物心はこのような時代に育まれました。
 他方、京は江戸幕府の政治権力の安定による平和を享受します。応仁の乱以来の二百年以上ぶりの継続した平和によって経済復興が進み、生活の向上が起こっています。経済発展によって、学問・芸術の目覚ましい発展が起こりました。伊藤仁斎と尾形光琳などが学問や芸術に邁進(まいしん)できる時代となったのです。

仁斎の正義感
 こうした時代の社会背景を仁斎はどのように受け止めたのでしょうか。仁斎の思想には、武威を誇る徳川家に対する反発が、色濃く見られます。

 「武威を誇る覇者(武家)は、民衆の目には付きやすい。しかし、徳をつむ王者は、民衆が忘れがちである。だから、覇者はうぬぼれて自分が偉いと考えている。」

 と主著『孟子古義』で仁斎が述べています。社会背景と合わせて考えれば、江戸幕府批判であり、皇室礼賛と読むことが出来ます。仁斎が八歳で体験した家光の上洛、それに対する竹を割ったような反発が読み取れます。その反発は徐々に正義感となり、仁斎の心を占めていったのでしょう。
 十六、七歳で学問を志した仁斎でしたが、周りは医者を勧めました。当時は学問で食べていくことが出来ない時代でした。江戸幕府の御用学者でしか食べていけなかったのです。医者は伊藤家親類に多数あり、十分に裕福な生活が出来る職業でした。しかし、仁斎は医者になるのは、どうしても承服できなかったのです。

 「自分が金持ちや偉い人にぺこぺこする人(幇間:たいこもち)になって自分を失ってしまうようで受け入れられない。」

 と書いています。親類縁者に医者の多数いる家系がありながら、この文章を書いたのです。己の正義感を貫き通す姿勢がまざまざと読み取れます。
 もう一歩深く探ってみましょう。仁斎に言う「自分を失ってしまう」という「自分」とは何なのでしょうか。仁斎の「自分」を支えるものとは何なのでしょうか。私には、古き王朝時代を大切にする気持ち、であり、祖父や母に育まれた高い教養文化であるように思われます。
 次に有名なお話を見ていきましょう。
 後年、母の介護をする人がいない、という理由で武家の教師の仕事を断っています。非常に高額の謝礼が出るのにも関わらず、です。ここに仁斎の強い正義感が感じられます。つまり、仁斎の心の底に沈んでいる潔癖さ、誠実さ、原理の尊重が見て取れるのです。
 母の介護を貫き通した仁斎は、臨終の母から、その孝養ぶりに手を合わせて感謝されました。しかし、仁斎は母を一転して切って捨てるように言うのです。

 「私を深く愛する母はかたきである。」

 幾つもの解釈がありそうです。

 「孝行したのは当然である。母に感謝されるためではないのです。私は原理原則を貫き通すために介護を行ったのです。お母さんを愛していたから、ではないのです。愛していなくとも親孝行をする、それが私の目指すべき仁の道なのです。お母さん理解して下さい。深く愛するから孝行するのではないのです。そのような理解は、私の仁の道にとって敵(かたき)なのです。」

 と私には聞こえました。親孝行は仁斎にとって自分が愛しているから行うのではなく、親孝行が仁だから行う、という気持ちだったのでしょう。ここにも仁斎の強い正義感、心の底に沈んでいる潔癖さ、誠実さ、原理の尊重が見て取れるのです。

「仁」とは行動である
 親孝行だけでなく仁斎は「仁とは言葉ではなく行動なのです」と主張していました。
 目に付きやすい孝行を評価するのは、民衆が目に付きやすい徳川家を評価するのと同じに映ったのでしょう。そんな推測が聞こえてくる程に、仁斎は京都の文化的雰囲気を吸い込み、そして富裕層や公家の人々と、連歌などを通じて親しく交わっていました。
 また、仁斎の思想からも、潔癖さ、誠実さ、原理の尊重が見て取れます。仁斎は、朱子の解釈を一刀で切って捨ててしまいます。孔子の本義と合わないから、という理由です。普通の人ならば、「朱子の時代は、支那(China)の中心地が奪われ辺境に追いやられている社会背景がある。」や「朱子の解釈にも一理ある。」などと切り捨て御免はしないものです。しかし、一刀両断、そこに仁斎の正義感の強さが現れています。
 さらに、孔子を「最上至極宇宙第一の聖人」と絶賛しています。「最上」、「至極」、「宇宙第一」と絶賛の単語を三度も繰り返しています。思い入れの強さがはっきりと見て取れます。その思い入れの強さは、正義感が元になっています。同時に、孔子の聖人として強く崇拝するには、仁斎の心の跳躍(ちょうやく)があるのです。心の跳躍は、仁斎の外面(そとづら)とは全く一致しません。仁斎は、

 「品格は大納言並、いつも柔らかい雰囲気であり、人格が優れている。」

 と評されていました。しかしながら、仁斎の心の奥底には激情がふつふつと沸いていたのです。親孝行をしながら「親をかたき」と言い、江戸幕府を否定する文章を書き残し、主流学派であった朱子学を一刀両断にし、孔子を三度も絶賛しました。それには、これまで述べて来たように仁斎が京都堀川通り、寛永四年、の生れが大きいと考えます。
 外面は京文化に薫陶され品格が優れつつ、幼少期に京文化を損なう体験を強烈に刻み付けられた、という生れです。仁斎の思想と人格の逆説は、寛永四年、京都堀川通りでピタリと表裏が一致するのです。以上が仁斎の人となりです。

仁斎の善と悪
 次に、仁斎の善と悪を、朱子と比較しながら述べていきます。ここでも先程の京都と江戸の大きな関係があるように思われます。

朱子の善と悪
 :古代は理想の時代で悪はなかった。それ以後は悪の世界である。

 古代、つまり「尭舜(ぎょうしゅん:人名)の統治時代と夏・殷(いん)・周の国の時代」は理の極まった世界で善しかない世界と考えます。しかしながら、現在の世界では身の回りに悪がある世界と考えます。

 朱子学では過去(古代)を理想化し、現在の悪を考えます。ですから、聖人になるには、尭や舜のように振る舞い、行動しなければなりません。尭や舜の統治では、君主(自分)の行動を立派にすれば周りの人が従ってくれました。
 しかし、現在の時代はそうではありません。私が徳の高い行為をしていても自分勝手にふるまう人々が沢山います。ここで朱子学は大問題にぶち当たります。

 「周りの人は自分のことしか考えない。」
   ↓
 「私は上手く統治が出来ない。つまり、尭や舜になれない。」
   ↓
 「では、どうして出来ないのか?」
   ↓
 「私の行いが徳に適ってないからだ。」
   ↓
 「では、どういう行為が良いのか?」
   ↓
 「もちろん、強制や威圧は使えない。」
   ↓
 「どうやって自分勝手な人を立派にさせる?」
   ↓
 「そもそも、立派とか人とかは何?」
   ↓
 「・・・(ひきこもり)・・・」

 仁斎が朱子学の真髄を身に着け、ひきこもりになった理由が判明します。
 私自身、先生をしているといつも突き当る問いです。「先生が立派にしていれば学生全員がきちんと勉強を毎日するのだろうか?」と。朱子ならば言うことを聞かない学生に「成績を下げるぞ」という強制や「ダメだろう!!ちゃんと勉強しなさい」とは言えないのです。先生が率先して身を粉にして徳を積まなければならない。そして最後には古代の尭やや舜のように全員が全て善にならなければならないのです。他方、私はすぐに強制や「ダメですよ」と叱ってしまいます。
 朱子の理想は「最後には全員が善人(=仏陀)になる」という点で仏教と似ています。前の文章で仏教と朱子学が共通している、と言いましたが、この点を指しています。同時に、古代を理想世界と考える点でプラトンのイデアとも共通しています。イデアの世界は善のみであり、古代は善しかなかったとプラトンは考えます。こうした過去に善しかなかった、という考えは高い目標と尽きることない努力を求めていく点で秀でています。他方、現実離れしているとの批判も受けやすいのです。

仁斎の善と悪
 :古代にも現代にも善と悪が人間に根深くある。

 「尭舜(ぎょうしゅん)と夏・殷(いん)・周」も現在の世界も変わりなく善悪がある。なぜなら、善悪は人間の本質だからである。

 仁斎では、悪が人間に根深いものと考えます。引用してみましょう。

 「恐ろしい話や幽霊の話、占いなどを好んで、政治や経済の話を好まないのは、時代を超えている当たり前のことなのです。結婚や幸せな話より、不倫や不幸な話を好むのも、時代を超えた人の病のようなものです。勉強するにしても努力をするよりも、良いテストの点を取るのが目標になってしまい、楽をして点を取ろうとします。それが人間なのです。」

 と仁斎は言います。だからこそ、善を目指す真っ当な方法と正直さを明確に示した孔子を「最上至極宇宙第一の聖人」とするのです。人間には善悪、正しさと奇妙さが両方あります。その上で、善と悪があれば悪に、正と奇があれば奇を選びがちです。仁斎は善と悪の両方が人間の本質である、と言います。過去を理想化することなく、現在と過去を客観視しています。その上で、孔子に習い善を選びましょう、と明るく私達に語りかけるのです。それは、仁斎がひきこもりから脱した時に見た未来への希望の光のようです。同時に、徳川幕府の武威を高める朱子学を、もう一度、根本(皇室)へと戻そうとする明るさも見えてくるかのようです。民衆が覇者(江戸幕府)を好むのは奇を選びがちと言うのです。何とも大胆不敵な言動です。また、仁斎の京文化への現状把握がよく伝わってきます。次に、仁斎の仁に触れていきましょう。

仁斎と孔子
 仁斎は朱子学の観念論を否定します。先程の、「そもそも、立派とは何か? 人とは何か?」と考えてしまうのが朱子学です。それらを言葉で定義しようとします。
 しかし、仁斎は「仁とは徳行(行動)のみ」と言っています。そもそも、「言葉の理を大切にするのは仏教や老荘思想から来ていて、儒教ではない」と言います。
 ですから、仁斎は「おばちゃんたちの井戸端会議のような学問だ」と批判されても、講義の担当を決めて順番に報告しあい、行動が徳行に適っているか、を話し合ったのでしょう。まず、言葉の定義を習うのではなく、習いながら行動して、行動しつつ考えていく中に仁が育っていくと考えます。
 私自身、先生になり学生を教えています。その中で、一番労力が要らないのは、ひたすら問題集の解説をして、問題を暗記させることです。解説は他人(先人)が書いてくれていますし、暗記で学生の知識が増えるから感謝もされます。実際テストの点に最も結びつきやすいのです。学生は何年かすれば卒業しますから、何も知らない学生に同じことを毎年繰り返せばいいのです。先生として最も効果が出やすく、そして労力のいらない方法です。
 逆に、一番大変なのは学生の意見を発表させ、まとめることです。やる気のある学生程、間違いを起こしやすいですし、間違いの指摘にも気を使います。学生全員の意見をまとめるのも一苦労です。いちいち全ての意見を覚えていなければなりません。
 こう考えてみると、伊藤仁斎は一番大変な方法を取っています。なぜ、仁斎はわざわざ大変な方法を取ったのでしょうか。私には、先程挙げた「潔癖さ、誠実さ、原理の尊重」が答えのように想われます。一番苦労する方法であろうとも、仁斎の強い正義感が、講義の担当を決めて順番に報告しあい、行動が徳行に適っているかの話し合いを選ばせたのでしょう。
 仁斎における仁とは、具体的な行動として主体的に徳行を積むことです。それが「生きる(活物)」であり、誠(まこと)なのです。対して、言葉のやり取りに終始しているのを「死」であり「悪」と考えています。
 仁斎は「生」の世界は、どこまで滞りのない明るさに開かれていると考えました。その具体的手段が、「仁とは行動である」になります。それを最初に明確に示してくれたのが孔子なのです。それゆえ「最上至極宇宙第一の人」と評するのです。

仁斎の世界観
 仁斎の世界観は孔子の世界観に似ていて、日本古来の世界観とは異なります。「世界は人があるから生じるもので、人がないところに世界はない」という考えです。これは支那特有の「四海」の世界観と同じです。人の住む場所が世界であって、海のように人の住めない場所には見るべきものはない、と考えるのです。日本のように海には海の神がおり、人とは係わりなく自律し世界を営んでいる、という考えではありません。
 先程の仁斎の仁と仁斎の世界観と合わせると以下の意味が現れてきます。

 「人の外に道なく、道の外に人なし。」

 善と悪が根深く人にあり、それぞれの生き方(道)があります。同時に、そうした生き方以外に世界はないのですから、しっかりと受け止めましょう、という意味です。
 繰り返しますが、このしっかりと受け止めることを示したのが孔子なのです。
 朱子では尭・舜は理想とされていました。しかし、尭・舜の「行い」は素晴らしいけれども、「自覚」して多くの人々に示していない、と仁斎は考えるのです。「行い」よりも「自覚」を取った点に仁斎らしさがあります。それゆえ、尭・舜 ではなく、最上は孔子となるのです。
 善も悪も根源的に抱える人間だからこそ、善の道を選ぶように多くの人に示すことが最も重要となる訳です。
 仁斎の仁と世界観はこのように結びついています。

仁斎の思想の位置
 仁斎は、人は善と悪を揺れ動きながらも、徐々に善を目指していくという風に考えます。時に不安、過ちに捉われていても、それを受け止めるのです。恋や愛、季節の移り変わりや遊興までもが受け止められます。恋や愛、季節の移り変わりは、理想へと向かう寄り道になるのです。寄り道のない道は味気がない、という心の明るさがあります。これは、冒頭に述べた京の古い王朝文化、当時の富裕層や高い文化人達の生活を思い起こさせます。
 対して、理想的な善の実行される世界を目指していこうとする朱子学は、武威による統治の学問として最適です。犯罪や各大名の謀略や反乱の目を摘まなければならないからです。平安な時代に軍学を進歩させた山鹿素行などが目指したのは、こうした意識からでしょう。この意識からすれば、統治理論に縛られない恋や愛、季節の移り変わりなどは語る必要のないもの、あるいは統治を壊すべきものになるのです。
 このように較べてみると、仁斎の心が、京文化の中心である堀川通りに繋がっているのが判ります。

皇室と仁斎
 次は、皇室についてですが、仁斎自身の記述は少ないものです。しかし、後に大きな影響を与えました。
 仁斎は孔子を「最上至極宇宙第一の人」として絶賛します。それは徳行を善とし、思索を悪としたからです。この善悪の構図は荻生徂徠に受け継がれます。他方、徂徠は「政治的行動をしなかった孔子」よりも「政治的結果を出した尭・舜」を高く評価します。孔子を聖人と呼ぶのさえ躊躇(ちゅうちょ)します。徂徠は善悪がある人間の生み出す結果だけで判断します。ゆえに、善悪がある人間が善を目指すという仁斎の明るさが消え去ってしまいます。
 しかしながら、徂徠の書き換えによって仁はさらに日本化されます。つまり、人間の生み出す結果だけに注目することで、仁は、「では日本で徳行を積み重ねてきたのは?」へと変換されました。ここから皇室へと視点が繋がっていくのです。荻生徂徠から本居宣長へ、さらに国学につながり、皇室への崇敬が学問上で考察されるようになっていきます。その出発点に仁斎の世界観や思想の根本部分があったのです。仁斎は京文化という皇室中心の文化で育まれ、後代にその根底的価値を伝えたのです。それは恋愛や季節の移り変わりなどの美意識を含めて、日本の根本部分の継承にあったのです。

聖徳太子と仁斎
 ここまで書いてきて、聖徳太子の十七条憲法に似通っている点に気付かされました。
 太子も仁斎も、善を全員に授ける聖人君主を考えず、人間は善も悪も根源的に持つこと、さらには現状が理想的でないことを受け止めています。そこを出発点としその上で、人間の善なる面が上回ることを信じて、議論を重視し、行動を求めるのです。荀子、韓非子、仏教、朱子学、陽明学、山岳信仰等々とは全く異なっています。具体的に見ていきましょう。

 十七条憲法第一条を書き出してみます。

 「一に曰(い)わく、和(やわぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」

 「第一条です。柔軟であることを大切にしなさい。怒りにまかせて反対しないようにしなさい。人間は集団や派閥をつくるものです。また、賢く立派な人は少ないのです。ですから、偉い人や両親に従わず、隣近所や集団内でも争うものなのです。けれども、上の地位ある人が柔軟であることを大切にして、下の地位にある人が怒りにまかせて反対ばかりしないで仲良くし、大切な事を話し合えるなら、お互いに重要なことが理解し合えます。そうすれば成し遂げられないことはないでしょう。」高木訳

 仁斎は京都を中心に伝わってきた日本の古き良き伝統の根底を受け受け継いだ、と感じられてなりません。仁斎は儒教を日本化した、と言われます。仁斎の見事さは、儒教や朱子学を会得した上で、日本古来の思想と深く結びつけた点にあるでしょう。


参考図書
窪田高明著 「伊藤仁斎の「道」」 
(佐藤正英・野崎守英編 『日本倫理思想史研究』 ぺりかん社) 
石田一良著 『伊藤仁斎』 吉川弘文館
子安宣邦著 『伊藤仁斎の世界』 ぺりかん社
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