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高木メモ「なぜ、合理主義は拡大しないだろうか?2 -知とは何か-」

  高木がふと思い浮かんだ内容をメモします。

 「なぜ、中華人民共和国が台頭したのだろうか?」

 を前回まとめました。今回はそれに関わる本性について考えたいです。つまり、知とは何か?ということです。

 アリストテレスの三段論法を使います。一段目の事実は、客観的事実。二段目は、著者の考えを現わす論拠。三段目は結論です。よく知とは何か?で事実を指す議論が多く見られます。しかし、それは知「識」でしかないのではないでしょうか。元来の「識」の原義とは異なりますが、万人にとって共通のものを意味します。人間は男性と女性がある。世の中には質量がある。などです。これに、私がこうして生きていられるのは、周りに質量が存在し、エネルギーが太陽から降り注ぐからである、というものも含めても良いでしょう。なぜなら、「なぜ、中華人民共和国が台頭したのだろうか?」を考えたいからです。

 私が生きていられるのは、物質世界に支えられているからだ、という客観的事実。ここからどのように感情を結び付けるか、が知性である、という風に考えます。これが従来の、欧米の合理主義とは異なるものが、そのように考えないのです。世の中が支えてくれているという客観的事実、それに対する感謝が従来の合理主義。しかし、それに対する非合理主義、というものも含めたいのです。従来の合理主義には、利他主義、功利主義が含まれます。非合理主義とは人知主義等々の不可解な、不整合な、環境に強く依存する基準による主義です。

 そしてそこから出てくる、結論が一致することもあり、一致しないこともあります。

 中華人民共和国が欧米のルールで経済発展した。というのは結論です。よく誤読されているのは、中華人民共和国が経済発展したから、「中国人は欧米化した」や「中国人は素晴らしい合理的な考えを身に付けた」や「中国人は欧米社会に取り込める」という点です。それは結論と論拠を混乱した議論に過ぎません。その混乱の原因は、欧米の合理主義しか論拠として認めない、という狭い知の捉え方である、と私は考えるのです。

 ヘーゲルの弁証法は不完全でした。フランスとの弁証法を目指しましたが、欧米の合理主義しか根拠として認めないから、である、と私は予断しています。ましてやヘーゲルは合によって合理主義が1つにまとまるとさえ考えていたのではないでしょうか。私はヘーゲルの著作を通読していないので、あくまで予断でしかありませんが。

 私は西欧の没落は、この狭い合理主義が1つの原因があるのだろう、と推測しています。
 私達の祖国が、大東亜戦争で狭い合理主義を採用したのは言うまでもありません。戦争遂行においては狭い合理主義は必須ですが、それ以前の段階において、狭くなっていたのではないでしょうか。

 時間が来ましたので筆を置きます。
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高木メモ「なぜ、合理主義は拡大しないだろうか?」

 高木がふと思い浮かんだ内容をメモします。


 「なぜ、中華人民共和国が台頭したのだろうか?」

 という問いは、経済や経営、国際政治、国際金融、リアリズム、軍事、歴史から語られてきた。しかし、その問いは、中華人民共和国の経済的凋落で問われることは少なくなるだろう。しかしながら、問われ続ける問いがある。それは哲学からの問いである。「なぜ、中華人民共和国が台頭したのだろうか?」という問いに「合理主義を採用したからである」と哲学的に答えることは出来ない。彼ら中国人(漢人)は、哲学の浸透によって、あるいは合理主義によって変化したわけではないからである。

 別の視点で見てみたい。

 「なぜ、EUは移民問題で苦しむのだろうか?」

 同じ問い、と言える。哲学とは普遍、全ての事象を考える学問である。数学や物理学は哲学の基礎がないと成立しない。しかし、その基礎に馴染んでいる欧米人の共同体EUが、なぜ、哲学の馴染みの薄いアジア人などに圧倒されるのであろうか。欧米人の哲学に基づく合理主義には普遍性がないのであろうか? それともそもそも普遍性は脆弱なのであろうか?
 ヘーゲルの不完全な弁証法では、正と反が合一し、高い次元に移る、という。とするならば、高い次元の方が脆弱なのであろうか?

 普遍性を持つと欧米人が主張する合理主義(哲学)がない、中華人民共和国、イスラム教国などの、人口が爆発し、エネルギー消費を拡大させ、食糧を食べまくっている。欧米人は、環境問題などと言って節約、節約でしかない。

 「なぜ、欧米人では人口爆発がせず、エネルギー消費を拡大せず、食糧を消費しないのであろうか?」

 この問いは、孔子の言う、小人(普通の人)を君子(立派な人、政治家)にする道徳的な合理主義ではない。もう少し各国の文化や共同意識の深層に潜むものである。そういうものを合理主義、あるいは普遍性で開墾できない(文明化できない、到達しえない)のであろうか?という問いである。

 私が、東アジアからの留学生に接していると、彼らの合理化されてない素振りに驚く。欧米人の言う哲学では決して説得されない、決して生き方を変えられない、そういう深層にぶち当たる。教員の立場であるから、学校内ではしっかり合理主義に基づくことが出来る。しかし、卒業後はそういうことはない。あるいは、そういう深層の強い学生は自ら合理主義から離れていく。しかし、彼らが社会の中で不適合者になるか、といえば、そうではない。主に自国の仲間内で固まり、何がしかの生活の手段を得て社会適合者として過ごしていくのである。むしろ成功者さえ出てきている。

 「なぜ、合理主義は拡大しないのだろうか?」

 国際政治などの世界の推移を哲学で考えるならば、欧米人の合理主義がなぜ拡大しないのか?という視点が重要になってくる。

 そしてこの問いは、日本の生き方を考える時にも大切であろう。

高木の哲学的立場Ⅳ 絶対的自我の3種類の説明

 私の哲学上の立場を「高木の哲学的立場Ⅲ 基本事実と全体」に続き書きます。
 http://takagikenziro.blog.fc2.com/blog-entry-472.html

 私の哲学上の主題は「絶対的自己」です。

 3種類の説明です。


1) 分かりやすい説明

 人は自由な心があります。けれども、不自由な肉体によって心が左右されます。睡眠、疲労、究極は肉体の死です。死によって心が無くなります。心は無限でありながら、有限な条件によって縛られているのです。縛られているのがテーマです。「絶対的自我」と定義しましたが、自然科学の方法論から思いつきました。そこで私達の自我のあり様が観えてきました。


2) 簡素な説明

 私の哲学上のテーマが「絶対的自我」であることは述べてきた。科学哲学から出てきた。
「哲学の知識は1つにまとまらない。何故なら方法論が洗練されていないからである。」 自然科学の知識は、誤差や近似値などの方法論に基づき具体的事実を理論的事実に置き換え、帰納と演繹を両方あわせもち、かつ、その条件に再現性などを求める。それゆえ、当がない人文科学や社会科学と知識が異なる。同じ自然物(存在者)を対象としながら、自然科学が西暦19世紀以降に技術革命を起こせた。歴史や哲学を研究しても、携帯電話や自動車などを作り出せない所以である。
 その地点に立つと自然科学の知識の限界が観えてくる。量子力学の観測問題に類似している限界で、自然科学の知識を生み出す方法論に観測者が関わっている点である。人文科学や社会科学は人の心理的要素を排除できない。それゆえ、知識は拡散し収斂することはない。哲学では一応プラトンを唯一の哲学者としているが、プラトンの哲学に全ての哲学を包括することはできない。同時に、他の哲学でも同様である。この問題が自然科学でも起こる。知識の可知性の問題とも言える。方法論的洗練の限界で間の心理的要素が出てくる。
 この地点で問題が3つに分岐する。1つは、観測者に知識が依存する問題。これは以上述べてきた通りである。もう1つは、観測者に依存するのが限界を持つ問題。これは自然科学の方法論の洗練によってさらに深めていくことはできるが、最終的に1つの形にならない問題。哲学では客観性の問題に類似する。宇宙の全てを理解できる存在だけが想定されるが、その地点に人間が立てない、という問題である。『聖書』のいう無からの創造神、デカルトのいう世界の原理を理解しうる理性神、あるいは多数の神が持つ人格神とは異なる神の想定である。言うならば観測神であろう。自然科学の法則、つまり存在論的法則が蓋然的な扱いしかできない、と言い直せる。
最後の1点は、自然科学の方法論全体が私達の心理的要素の上に乗っている問題である。2点目から派生する問題で、私達が観測神の立場に立てないがゆえに生じうる。例えば別の宇宙人の心理的要素によって人間の知識とは異なる想定が可能になる。つまり、心理的要素によって自然科学の方法論全体が改変可能性を持つ、という意味を指す。何故ならば、自然科学の知識そのものは規約ではないが、方法論的要件、近似値の取り扱いや再現性などの基準は規約だからである。
「絶対的自我」とは以上のような認識の基づいた概念である。私達の知識の限界が、私達を人間の諸条件から突破することを許さない。自然科学の知識で私達は豊かを享受し、反映し、もしかしたら衰退するかもしれないが、その限界が常に与えられている、という概念である。それは人間が心理的要素によって幅広く知識全般を理解しつつ、その限界が定められている点に着目すれば、人間の生命全般も、その限界が定められているその表れに目が向くのである。言いかえれば、私達は如何に睡眠や疲労や肉体上の脆弱性や、その究極である肉体の停止によって心理的要素が規定されている、というその表れに目が向くのである。これらを「絶対的自我」と呼び、詩で表現している。


3) 引用を多用した哲学上の説明

 福沢諭吉は、孔子とニュートンを尊敬して大聖人とし、遠い未来に全員が大聖人になる、という遠大な理想(イデアであるが)を打ち立てた。江戸時代に孔子を最高の聖人とした伊藤仁斎との時代上の限界を感じる。その福沢諭吉の時代上の限界は、西暦20世紀の技術革命の考察で外すことができる。つまり、哲学を古代ギリシャのプラトンにのみ求めるのは、あるいは、ニュートン、伊藤仁斎にのみ求めるのは、時代上の限界に囚われる。その点で西暦19世紀に始まる技術革命を考察した科学哲学が未熟でありながらも、その意義は大きい。
 他方、時代上の限界に囚われない点もある。例えば、夏目漱石の『道草』は、主人公の男性が妻と養父のどこにでもある日常のごたごたに引きずられ、やらなければならない学問の道から道草を食っている内容である。一見すると社会的制約の囚われのようであるが、その制約を高所から眺めている「視点」が描かれている。時代上の限界が社会的制約としての現れを洗い流していく「視点」である。プラトンが『国家』で人間の諸条件として衆愚性を透徹しながら描きだす、その「視点」と酷似している。
 高い高い透徹した「視点」は、科学哲学者カール・ポパーに道縁として結ばれている。ポパー自身が述べるように古代ギリシャの哲学を引き継いでいるのである。ポパーは「反証可能性」を科学か非科学かの境界設定の基準として提示した。そして西暦20世紀に猖獗(しょうけつ)したマルクス・レーニン主義の歴史法則を根源から批判した。私は彼の「科学」は独自の定義で一般用語としての自然科学ではなかったが、加えて私は「反証可能性」自体が複雑ではあるが同語反復である点を論じた。また、トマス・クーンが米国の科学政策の申し子であり、特定の時代以前の自然科学について論じないように、ポパーもまた、時代的制約を抱えていた。自然科学は、方法論的要件として、近似値や誤差などによって具体的な事実(単称言明)を理論的事実に置き換え、帰納と演繹の相互の繰り返し、再現性などを必要とする。ポパーの境界設定を自然科学に寄せていくならば、少なくともこうした方法論的要件が必要になる。実際、こうした厳密な提示の多くは他の学者によって行われていた。
 そこで、将来提示されうるであろう厳密な提示の意義を考察することにした。高い高い透徹した「視点」によって、見通される意義は、知識の可知性であった。カントが大筋を示しポパーが受け継いだ境界設定を自然科学に洗練していくと、その限界に人間の知識の可知性が現れてくる。方法論的洗練の度合いによって人文科学、社会科学、自然科学のように異なる知識の蓋然性を持つ。デカルトの情念論のように、自然科学優位ではなく、知識と対象との関係においての蓋然さである。蓋然さ、とは人が心理的要素を排除して、宇宙全体を観測し全てを一元として理解する存在者(神)と比較した蓋然さである。自然科学の法則が数学的体系で現せるのかどうかを人間は可知できない。数学的体系で蓋然的に表記したのが自然科学の法則なのである。それはニュートン力学が量子力学等への厳密な定義に置き換えられている科学史から支持される。
 科学史は自然科学の発展を示すものであり、自然科学の法則には普遍性があることを明確に示している。見方を変えるならば、心理学的要素を限りなく排除の方向性を持っている。例えば、再現性とは時代、個人、社会、器具等に依存しないという要件であり、心理学的要素を限りなく排除する方向ゆえの方法論的要件なのである。あるいは、「人間とはどこまで知れるのだろか?」という可知の方向は、『道草』の道を示している。アリストテレスに始まると称される学問が目指す普遍性の果てに、心理学的要素が逆説的に現れてきた。量子力学の観測問題のように、観測者と対象との依存関係が立ちはだかっている。もちろん、この観測問題は計器の発達、理論の洗練によって昇華されうるが、自然科学の法則の蓋然性そのものは依然として残り続けることとなる。

 依然として残り続けるもの、はヴィトゲンシュタインと言語ゲーム論とは異なっている。それは方法論的洗練を経た後に初めて立ち現れる点である。日常経験の中に埋没していては決して現れえない、ポパーの言うような「白い烏」問題のように観測に何も方法論的要件を求めない日常経験では決して現れえない問題なのである。

 別の視点から述べると、自然科学法則を発展させてきたのは心理的要素である。その要素を極小まで追求可能であっても、絶無とは出来ない。なぜなら、自然科学の法則を観測する存在者が必須だからである。自然科学の法則の進歩も存在者の個別性にも依存している。時代の限界に囚われない計器の発展によって存在者の個別性がいくら少なくなろうとも、依存するのである。

 このように自然科学の方法論的洗練によって示された知識の可知性は、幾許かの逆説を含んでいる。この逆説を、福沢の透徹した「視点」で眺めてみると現れてくるのは、生命の成り立ちである。私達人間のみならず生命は、物質的諸要素によって有限に構成されている。他方、心理的要素は無限に近く構成されている。情念、理知、芸術、哲学、ゴシップ、情報等は時代の制約を課されながらも、生命そのものは奔放な創造性を持っている。その創造性を発揮して、赤子の状態から自然科学の法則まで至ることさえできる。その創造性によって人は個別性を獲得し多様な実態を持っている。それゆえ哲学が1つにまとまらず、また、自然科学の法則の多様な観測者を通して発展させるのである。

 物質的諸要素と心理的要素の関係は、対等あるいは公平などではない。物質的諸要素が絶対的優位である。空腹、睡眠、疲労、最終的に肉体の死によって心理的要素を破壊する。この絶対的優位な関係によって規定される生命の諸条件を「絶対的自我」と呼ぶ。この「絶対的自我」はデカルトの方法的懐疑のように全てを規約によって疑うという視座が必要である。また、物質的諸要素が心理的要素、特に抽象化された諸要素を破壊するという構図は、ニーチェを引き継ぐジョルジュ・バタイユの「聖なるもの」に類似している。バタイユはより人間の根源条件として提示したが、私は技術革命による物質的諸要素、それを根底から支える自然科学の法則から、生命のあり様を捉えたのである。

 繰り返したい。
 福沢諭吉が楽観主義に基づき大聖人を語った。その意図はプラトンのイデア論と同じで現実世界の改善にあり、現実化ではないとしても、その方向性の限界が、自然科学の哲学的考察によって現れて来たのである。自然科学の普遍性の内包する限界は、人間の知識の可知性に規定されている。こうした可知性から眺める世界の実相は、物質的諸要素が心理的要素に絶対的優位な規定を示している。
 抽象化された世界を奔放に逸脱する際の「聖なるもの」を取り上げたバタイユの如く、物質的諸要素の絶対的優位へと逸脱する際の何かしらのものの追求が、私の哲学的断片である。
 私の哲学的断片は、自然科学の包括的理論化を待つがゆえに、断片的な詩にまとめられている。

明けましておめでとう御座います


本年もよろしくお願い致します。

初日の出、静岡で拝見できました。

素晴らしい歳に出来るよう、一層頑張りたいです。

「哲学のススメ」の講演をします

 テーマは「日本女性の素晴らしさを知ろう」です。

 大学の「哲学」の講義よりも、分りやすく、です。

 中学生や高校生を対象としていて、聞いて分かるように、します。

 参加費1000円です。

 誰でもご参加できます。

詳しく

日時 3月24日 月曜日
   午後8時から9時半

場所 静岡市中町近辺 静岡の伊勢丹から徒歩5分

定員 15名

テーマ 「日本人の素晴らしさを知ろう第2回 日本女性の素晴らしさを知ろう」

 参加ご希望の方は、コメントを下さい(匿名コメントでも可)。返信致します。

 哲学の講義録で日本の真・善・美についてお話ししました。

 講義では時間が無くて言えなかった話ばかりです。日本には本当に素晴らしい人がいました。紫式部以外にも素晴らしい女性が沢山いました。本を読んでいる時に感動してしまいました。良ければ知っていただきたいです。

 
プロフィール
哲学(平成28年度)
科学技術者の倫理(平成28年度)
書いたもの(平成28年)
科学技術者の倫理(平成27年度)
哲学(平成27年度)
書いたもの(平成27年)
哲学(平成26年度)
「科学技術者の倫理(平成26年度)
講義録「哲学」
書いたもの(平成26年)
書いたもの(平成25年)
論文(高木健治郎の)
講義録「科学技術者の倫理」(平成25年度)
高木ゼミ『銃・病原菌・鉄』
高木ゼミ全6回『ぼくらの祖国』
教養講座6回分(平成24年度)   講義録21~
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石上国語教室で行われた講演のレジュメです。哲学が足りなかったのが、福島原発事故の原因の1つではないか、と考えています。

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