エッセイ「【歴史】北条政子が大都市を築く ―宗教政策を担当―」

「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した原稿です。
 読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。以下本文です。


 北条政子の三回目になります。初回は北条政子の優れた政治力、前回は北条政子の秀でた心性を書いて来ました。今回は、当時の史実に基づいて、実際に担った政治役割を挙げていきます。それは、これまでの研究者が目を向けていない宗教政策です。当時の史実『吾妻鏡(あずまかがみ)』を下調べしていて、「これはワクワクする!!」と感じました。

要約

 まず、冒頭に要約をつけます。

(1)政子が宗教政策を担当

 北条政子は初登場から神社(お寺)を人並み以上に敬う。
  ↓
 源頼朝と結婚後も神社を敬い、政策も担当する。
  ↓
 源家は神社を敬うので御家人たちが信用して鎌倉に移り住んだ。
  ↓
 鎌倉は東国一の都市に成長し、鎌倉政権の基盤となった。

(2)政子のトラブル解決方法

 北条政子はトラブルの時、自分で乗り込んで行って丁寧に話し合う。(初登場から:高木発見?)
  ↓
 話し合いの基準は宗教に基づく義理である。
  ↓
 その基準に反した時、長男頼家さえ権力から外す。
  ↓
 ただし、肉親の情は大切にし、母親として頼家を可愛がった。[頼家の遊び(蹴鞠:けまり)は参観している。]

北条政子とは

 最初の方もいらっしゃるかと思いますので、政子の経歴を挙げます。初回、前回と同じ内容です。

 北条政子(ほうじょうまさこ):保元(ほうげん)二年誕生、嘉禄(かろく)元年没す。六十九歳歿(ぼつ)、西暦千百五十七年~千二百二十五年。

 ○現在の静岡県出身(伊豆の国市韮山駅近辺の「北条」という地名の場所)で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。

 ○鎌倉幕府を安定した政治体制に導いた。他方、平氏は、兵庫県神戸市に政治体制(福原京)を開こうとしたが計画倒れとなる。

 ○「政子」は西暦千二百十八年に命名されたものであり、それ以前の名前は不明。

 ○通称は、鎌倉幕府樹立後「御台所(みだいどころ)」、夫の死後に尼になり「尼御台(あまみだい)」、藤原氏から将軍を迎えた実権を握ったので「尼将軍」と変わる。

 ○頼朝との恋愛話や嫉妬深い悪女、高い政治手腕など数々の評価がある。


北条政子は主婦であったのか? 頼朝の死以前

 今回の内容が始まります。まず、これまでの歴史研究を挙げます。「史実に基づく正確な伝記シリーズ」として有名な吉川弘文館の人物叢書(そうしょ)シリーズがあります。北条政子を担当される渡辺保先生は、頼朝の死前後の北条政子の政治役割について以下のように書かれています。

 「これ(頼朝の死)で頼朝の妻としての政子の生活は終わり、あとに十八歳の頼家(よりいえ)と十五歳の乙姫(おとひめ)と八歳の実朝(さねとも)とをかかえた政子の、母としての生活が始まるのである。」
 『北条政子』 渡辺保著 吉川弘文館 八十五頁

 渡辺先生は、北条政子に政治力という視点を当てておりません。頼朝を家庭で補佐する立場(妻)として政子を描き出し、頼朝の死によって、仕方がなく母の役割を担ったと解釈しています。
 同じく、同著百七十九から百八十頁の「あとがき」には以下のように書かれています。

 「これらの事情(政子が悪妻の評価を受ける事情)を考えながら、先入観を去って史実に当たると、やはり政子は普通の女性からあまり離れてはいない。時勢の流れに押されて波瀾ある生涯を送り、それも決して幸運とばかりは言えない一生だった。…(中略)…どれも不自然ではなく非人間的でもなく、その場にあたって当を得た態度だったことは、本文に書いた通りである。ただありきたりの凡愚な女性にはできなかったであろうことを、政子はなし得た、という結論になると思う。」

 北条政子は妻として幸せな生活に満足していたけれども、頼朝の死によって仕方がなく政治の表舞台に立たされ、最低限の政治役割を果たした女性である、と評価されています。積極的に政子に踏み込んで政治力から光を当てようという姿勢ではありません。
 確かに『吾妻鏡(あずまかがみ)』を読みますと、政子は初期に殆ど出てきません。例えば『現代語訳 吾妻鏡』 五味文彦・本郷和人[編]では、九十五頁の頼家懐妊までは四か所ほどです。一見すると妻として家庭内で満足していた、と読めます。

確実な歴史資料『吾妻鏡』に登場する政子
 初回に後世になって北条政子の悪妻の評価などが派生したことを渡辺保先生などが指摘されています。そこで政子と同時代の人物が書き残した確実な歴史資料『吾妻鏡』に登場する政子を引用します。まずその四か所を挙げて考えてみたいと思います。
 高木は北条政子が初期から政治力を持って鎌倉政権を支えていた、と観て解釈していきます。日付などから新しい発見がありました。

北条政子登場の四つの場面
 最初は場面説明、①~④が本文と西暦の日付、考察がつきます。

 一番目
 頼朝が毎日の勤行(ごんぎょう:毎日の読経や礼拝)が戦場に向かうので出来なくなってしまうと心配していた。

 ①「そうした時に伊豆山に法音と号する尼がいた。これは御台所(政子)の読経の師匠であり、一生不犯(ふぼん)の者だという。そこで毎日(頼朝が)行っていることをその尼に命じてはどうかと(政子が)申されたので、すぐに目録を遣わしたところ、尼は了承したという。」 
 千百八十年八月十八日

 考察:政子も頼朝も読経を行う習慣を持ち合わせていたこと、また、政子がより一生不犯の師を仰ぎ本心からであり、頼朝より熱心なことが判ります。

 二番目
 頼朝の御家人たちが行き来して狼藉(ろうぜき)が見られるので、走湯山(そうとうさん:現、走湯山権現。同、伊豆山神社 静岡県熱海市)の衆徒が訴えて来たので、世情が安定したら土地の寄進を約束した。

 ②「これによって衆徒はみなたちまちに怒りをおさめた。晩になって御台所(政子)が(走湯山の)文陽房覚淵(もんようぼうかくえん)の坊にお渡りになった。(藤原)邦通と(佐伯:さえき さいき)昌長らが御供をした。世情が落ち着くまで密かにここに寄宿されるという。」
 千百八十年八月十九日(翌日)

 考察:地元の大切な神社と頼朝の新しく来た御家人たちのトラブルは避けられないものです。そのトラブルは治め方が政治です。頼朝ではなく、政子自身が乗り込むことでそのトラブルを見事に納めています。後年、頼朝の死後、十八歳の若い頼家と大人(頼朝の重臣達)の御家人とのトラブルも同じく、政子が相手側に泊まり込むことで治めています。リーダー同士の腹を割った話し合いは、京都に直接乗り込むなど政子が生涯を通して続けていきます。その最初がさりげなく書いてあります。つまり、政子は己の政治の形を若い時代から身につけていた、という視点で捉えられるのです。

 三番目(状況説明は省きます。)

 ③「御台所(政子)が伊豆山から秋戸郷(場所不明 伊豆の国内)へとお移りになった。」
 千百八十年九月二日(約二週間後)

 考察:約二週間後に先ほどの紛争の場所から移動しています。つまり、事態収拾に約二週間をかけています。日付に注目することで政子がじっくりと腰を据えて解決したことが浮かび上がってきます。例えば、二、三日では人の気持ちが落ち着きません。後々、不満が噴出(ふきだ)して紛争が蒸し返されることは、よく見聞きします。逆に、二、三ヶ月も寺に滞在していては紛争当事者の片方とだけなれ合っているように取られてしまいます。この二週間と言う長さは政治家として見事だと思いますし、現代でも同様だと想います。政治力を見出そうとして浮かび上がったのは、この二週間という時間の掛け方でした。では、紛争は治まったのでしょうか。

 四番目

 ④「卯の刻(約早朝五時から七時)に御台所(政子)が鎌倉に入られ、(大庭:おおば)景義がお迎え申した。昨夜伊豆国阿岐戸(あきど:秋度)郷からすでに到着されていたものの、日柄が悪かったため、稲瀬川辺の民家にお泊りになっていたのだという。
 また、走湯山の住僧である専光坊良暹(せんこうぼうりょうせん)が、(頼朝の)兼ねてからの御約束により、鎌倉に到着した。良暹と武衛(ぶえい:源頼朝)は長年にわたり祈禱の師と檀那(だんな)の間柄である。」 
 千百八十年十月十一日(約一か月後)

 考察:本文に続けて、同日、走湯山の僧の到着が記されています。つまり、北条政子と一緒に鎌倉まで旅をしてきたのが推察されます。紛争が十分収拾して、伊豆山と良好な関係を築いたのが読み取れます。
 また、現代語訳の本文には「(頼朝の)兼ねてよりの御約束により、」とありますが、その根回しをしたのは政子でしょう。以上の二点から政子は事態の収拾だけでなく、地元の信仰篤い神社とも人間関係を築いたと判別できます。その期間僅かに一か月。けれども、「機を見るに敏」の諺通り、仲良くなって信頼を得て次の段階に進むのに一か月です。絶妙の時間というべきです。

 以上が、政子と同時代の人物が書き残した確実な歴史資料『吾妻鏡』に登場する政子です。

補足:『吾妻鏡』を読み面白かった点
 また、『吾妻鏡』に目を通しますと、以下のことが判って面白かったです。

 A) 源義経(よしつね)が幼い頃からわがままで筋を通さない人であったこと。 四十九頁
 つまり、頼朝が政権を握りたくて無実の義経を排斥したのではなく、義経の方にも筋を通さないという責任が浮かび上がってきました。

 B) 源頼朝が公平な裁定を行った例として、浅羽庄司宗信が挙げられていること。八十六頁
 静岡県の元浅羽町の由来になった浅羽さんのご先祖様でしょうか。

北条政子と宗教政策

 『吾妻鏡』に登場する北条政子は、全て宗教に関することで記録が残っていました。この線で『吾妻鏡』を読むと引っかかる場所が出てきます。

 「(頼朝は)走湯山の僧侶である禅睿(ぜんえい)を鶴岡八幡宮寺の供僧(ぐそう)ならびに大般若経衆(だいはんにゃきょうしゅう)に任命し、鶴岡の西谷の地に免田(めんでん:役目の替わりに年貢を免除する田)二町(だいたい百㍍×二百㍍位)を賜る旨の御下文(みくだしぶみ)を与えたという。」 九十二から九十三頁
 千百八十一年十月六日(ほぼ一年後)

 ④からほぼ一年後に地元の神社から鶴岡八幡宮に僧侶を迎えて重要な役割を担わせたのです。宗教勢力を引き入れるのに約一か月、その人物を信頼するのに約一年を掛けているのが判ります。伊豆山を取次(担当)したのが北条政子なのは、④で判っていますので、政子の人を見る目が正しいこと(慧眼)が察せられます。
 次に宗教そのものから観てみます。走湯山は「権現=日本の神は仏の仮の姿」と考えており、八幡神は起源については諸説ありますが、清和源氏の守り神でした。それぞれ別の神や仏なのです。このように考えると、上記の一文は、大和らしい「宗教宥和(ゆうわ)政策」と読むことができます。
 政子と宗教政策を追ってみると、さらに、幾つもの記述が浮かび上がってきます。それは北条政子も源頼朝も宗教=鶴岡八幡宮へ何度も何度も参拝し、何度も何度も寄進をしているのです。例えば、頼朝が後年、奥州藤原征伐の際、政子は鶴岡八幡宮にお百度参りをしています。

 また、頼朝は(伊勢の)神宮の内宮や外宮の所領安堵や治安維持、奈良の東大寺再建供養などなど数々の宗教勢力の保護を努めています。そもそも『吾妻鏡』の第一巻は、御家人の話と宗教政策で殆どの頁が占めています。

北条政子と宗教政策の持つ意味

 鶴岡八幡宮は海辺にありましたが、頼朝によって現在の山側に移されました。長子頼家の誕生の際にまっすぐな道に直しました。頼朝は、この鶴岡八幡宮を大切にすることで数々のことを成し遂げました。それは以下の通りです。

イ) 先祖と共に自ら関東の土地に根を下ろすという決意表明

 頼朝の父義朝(よしとも)は関東武士を引き連れて京都で権力争いを行い、敗れて部下に殺されました。関東武士からすれば自分達に寄り添ってくれる政治権力を欲しており、それを満たす意味があります。

ロ)神の前で政治の公平性を誓うこと

 権力者に近ければ優遇される政権(公家)は、前回述べたように全国から税金が入る京都ならば合理性があります。けれども、関東武士の求めるものは、政治の公平さによる安定です。それによって農作業に集中でき、豊かになるからです。ちなみに、発足して間もない鎌倉政権は、権力争いを繰り返す公家政権に、何度も助けられました。

ハ) 関東武士の求める土地の確保

 京都の公家政権(藤原氏、平氏)による土地の担保がなされていませんでした。特に関東平野では不明確で裁定者がいませんでした。その裁定者としての役割を担い、農作業に集中する必要が政治機構として求められていました。

ニ)東国一の都市へ発展
 イ)~ハ)を見た御家人たちは続々と鎌倉に屋敷を立てて、またたく間に東日本の中心地になりました。なぜなら、鎌倉政権の安定によって土地問題が解決し、結果として安心して豊かな生活を送れるからです。つまり、関東武士たちは鎌倉政権を「おのれの命を懸けて守る」という意気込みを持ったのです。「一所懸命」や「御恩と奉公」という言葉が残っています。その根源が宗教政策であり、神の前で誓う公平性なのです。「一所懸命」も「御恩と奉公」も権力者の依怙贔屓で左右されないことを含意しています。
 つまり、鶴岡八幡宮を大切にすることで、関東武士=支持基盤を確保することになるのです。宗教政策は鎌倉政権の根幹を支える要素となりました。それを率先して行ったのが北条政子なのです。また、先ほどの引用した二番目から四番目に挙げたように具体的な行動として調整を行ったのです。
 他にも数々ありますが、一つだけ別の例を挙げます。

 不行き届きがあり身柄を拘束されていた長尾新六定景という者が「法華経を大事にして、毎日転読(てんどく:見て読む、覚えて読む)して決して怠ることがなかった」として「すぐにお許しになられたという」(八十五頁)とあります。神仏への帰依を政権の判定基準に中心に据えていたことが判ります。

 対して平氏は、平清盛が頼朝に味方するだろうと考えて(実際には反乱していない)、園城寺(おんじょうじ:三井寺 滋賀県大津市)と興福寺(こうふくじ:奈良県奈良市)を攻めました。そして全ての建物が燃やされました。(五十九から六十四頁) 
 阿修羅像だけは持ち出せたのでしょう、奈良時代から現存していますが、それ以外は室町時代のものです。

宗教政策の持つ政治性

 渡辺保先生は源頼朝と北条政子の政治役割について以下のように書いています。

 「いわば貴族性と土豪性(どごうせい:土地の小豪族)とを調和させるところに、源頼朝の役割があった。そして彼自身は、どちらかと言えば前者の色彩が濃いし、またそれを好んだのであろうが、しかしあくまでも後者の性格を失わなかったところは、北条時政・政子の存在がその働きをつとめたと言えよう。」
 『北条政子』 二十四から二十五頁

 渡辺先生は歴史解釈の通例通りです。これに、高木は第三の要素を加えたいと考えます。つまり、貴族性(源氏の血塗られた歴史とスケールの大きさ)と土豪性(関東武士の家族愛と土地への執着)を調和(接合)する第三の要素としての宗教性です。その根拠は先程書いたイ)~ニ)の政治力です。同時に、平氏との対立を鮮明にして政権の正統性を確立するなどの役割も、鎌倉政権の宗教政策は果たしています。その宗教政策を当初から担い、表に裏に活躍したのが北条政子なのです。

貴族性としての頼家と宗教性としての政子
 頼朝は落馬で死にました(脳卒中とも)。十八歳で長男頼家が鎌倉政権の頭領になりました。しかし、イ)~ハ)に反して頼家は貴族性が強く出てしまいます。
 ①自分の側近五人だけしか会話をしない。(公平性に反する。)
 ②依怙贔屓(えこひいき)をする。(頼朝の重臣を軽く扱う=御恩と奉公に反する。)
 ③部下の側室(妾)を寝とっておいて疑心暗鬼になり殺害しようとする。(義に反する。)
 ④蹴鞠(けまり)遊びばかりする。(一所懸命に反する。)

 などです。

 当時、北条政子は、長女大姫、夫頼朝、次女三幡(さんまん)を失ったばかりでした。また、頼家自身も病弱であったと言われています。しかしながら、頼家が貴族性に浸り、公家政権のような政治をしようとした時、政子がそれを止める事件が起こります。
 言い換えれば鎌倉政権の支持基盤が関東武士にあることを無視して、頼家が現実逃避をするのを何とか止めようとするのです。③部下の側室を寝とっておいて疑心暗鬼になり殺害しようとする事件です。要約して簡潔に述べます。

 「安達景盛は自分の国である三河国(愛知県)へ事件解決に出立しました。その間に頼家は側近に命じて景盛の妾を強引に連れ出して寵愛しました。以前に何度も手紙を送って断られていました。頼家のある側近の家に置き、側近五人以外は接近禁止にしました。一か月ぶりに安達景盛が帰ってくると、『怨みを持っているに違いないと思い込み(実際には反乱していない:平氏の宗教政策と同じ)』、兵を動かして殺してしまう命令を出しました。鎌倉は合戦前の雰囲気になったのです。
 政子は、先ほどの側近が押し寄せていた景盛の父蓮西の家に自分が乗り込みました(冒頭の走湯山のトラブルと同じ解決方法)。そして頼家に手紙を出します。

 頼朝が亡くなり、次女三幡もなくなったばかりです。今戦闘を好まれるのは乱世の源です。頼朝は景盛を信頼し可愛がっておられた。彼に罪があるなら私(政子)が尋問して成敗しましょう。事実も確かめずに殺してしまうのはきっと後悔するでしょう。それでもなお彼を罰せようとするなら、まず私にその矢を向けなさい。

 翌日も父蓮西の家にいて、景盛に「後々野心はありませんと起請文を頼家に出しなさい」と政子は言います。その手紙を頼家に渡しながら、政子は頼家に手紙を書きます。

 昨日のことは乱暴の至りで、義理を欠きます。国内(日本か鎌倉か判りません)の防備は整っていないし、政治を嫌悪し民の苦しみを考えていない。他人の妾を楽しんで反省しなかったことに原因がある。また、側近達も賢い人とはいえない。源氏が政権を作り上げたのに北条の力が大きかった。それなのに北条を大切にしていない。周りの人を下に見て本名で呼んで馬鹿にしている(通常は官職名で呼ぶ)ので怨みを残すと言われている。それであっても今回のことを冷静に対処すれば、合戦は起こらないでしょう。」

 以上が、頼家が貴族性に傾いた事件の顛末です。政子は宗教の持つ公平さに立って、裁定を下しています。そして結局頼家は権力を奪い取られ、頼朝の重臣の合議制に権力が移るのです。

政治権力強化としての宗教性
 政治から考えれば、権力者が他人の妾に手を出すのは古今東西の権力者の常です。ですから、一般人の道徳ではなく、政治から観てみますと、以下の点が浮かび上がってきます。

 ア) 側近から公平な助言がない
 イ) 政権が権力者に近い人々で独断される
 ウ) 過去の実績が失われ信頼関係が不安定になる

 どれもが権力の融解(ゆうかい)の原因になります。北条政子はしっかり全ての点に釘をさしています。そして最後には、実子で数少ない長男頼家をお飾りの将軍としてしまいます。対して政権の権力を強固にするために、十三人の御家人の合議制を制度化するのです。そして権力を継続させます。
 もし、わが子が可愛いと母として政治を行ったとしましょう。すると、京都の公家政権と同じく不安定になってしまいます。現代では権力が融解している典型例はシリアです。十万人近くの虐殺、数百万人の移民、難民が発生しています。権力の融解が、悲惨なことを巻き起こすのです。政子が頼家から権力を奪い取らなければ、現在のシリアと同じく、関東平野では虐殺、移民、難民が発生していたでしょう。
 関東は公家政権の権力が強固ではないので、凄惨な殺し合いを続けてきた土地だったことが思い起こされます。北条政子は頼朝の父義朝(よしとも)が、関東に下ってきて混乱を引き起こしたのが頭にこびり付いていたのかもしれません。歴史はこの権力の融解と強固の繰り返しで、無益な人々が殺され続けてきたことを教えてくれています。

 同じ合議制を制度化した豊臣政権ではどうだったでしょうか。五大老と五奉行を持った豊臣政権は、淀の方が五奉行の石田三成だけを依怙贔屓して、権力を融解させてしまいます。つまり、合議制を制度化しても実行力が伴わなくなってしまったのです。鎌倉政権も、その後、数々の反乱がおこります。けれども、権力の融解は起こらず、約百五十年続きます。

まとめ
 今回は、『吾妻鏡』から北条政子の最初の四つの登場を引用しました。宗教政策にかかわり、自ら乗り込んで問題を解決する姿勢が明らかになりました。また、頼朝の貴族性と鎌倉武士の土豪性を鶴岡八幡宮の宗教性で結びつける大きな役割も担っていました。その結果として関東武士は安心して鎌倉に集まり大都市となったのです。その陰に、政子を含めた鎌倉政権の宗教の融和政策や宗教の公平性があったのです。政子は前回指摘したように支持基盤は殆どありませんでした。その意味で驚嘆すべき政治力です。二代目でつぶれる会社や政治権力の多い中、政子は継続させることができました。政子の政治力の大きさを一つ見ることができたと思います。


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エッセイ「【歷史】北条政子の秀でた心性 ―自分の弱さから広い視点へと― 」

「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した原稿です。
 読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。以下本文です。


 前回に引き続き、北条政子を取り上げます。まず、前回「亀の前事件」を「豊の前」と誤っておりました。訂正致します。
 前回は、北条政子の優れた政治力として、権力に必要な上下関係をつけた事件として、「亀の前事件」を考えました。
 今回は、その「優れた政治力」を生み出した北条政子の秀でた心性=心の態度、に迫りたいと思います。その事件として、義経の側室静御前が、頼朝と政子の前で義経を想う舞をまった事件を取り上げます。これまでは、政子は女性らしい感情から静御前をかばった、と考えられてきました。また、ある女性史研究家は「権力者に対して堂々と意見を言った姿」と考えました。私は、北条政子の支持基盤の弱さと源氏の過去の歴史から静をかばった、と考えます。
 そのためにまず、政子の支持基盤の弱さを述べます。つまり政治判断を問われた彼女の最初の危機を見ていきます。「危機に立った時、その人の本性が現れる」と思いますので、そこに政子の秀でた心性が現われていると思うのです。
 最初の方もいらっしゃるかと思いますので、前回の繰り返しになりますが政子の経歴を挙げます。

北条政子とは

 北条政子(ほうじょうまさこ):保元(ほうげん)二年誕生、嘉禄(かろく)元年没す。六十九歳歿(ぼつ) 西暦千百五十七年~千二百二十五年です。
 ○現在の静岡県出身(伊豆の国市韮山駅近辺の「北条」という地名の場所)で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。
 ○鎌倉幕府を安定した政治体制に導いた。他方、平氏は、兵庫県神戸市に政治体制(福原京)を開こうとしたが計画倒れとなる。
 ○「政子」は西暦千二百十八年に命名されたものであり、それ以前の名前は不明。
 ○通称は、鎌倉幕府樹立後「御台所(みだいどころ)」、夫の死後に尼になり「尼御台(あまみだい)」、藤原氏から将軍を迎えた実権を握ったので「尼将軍」と変わる。
 ○頼朝との恋愛話や嫉妬深い悪女、高い政治手腕など数々の評価がある。

危機に立たされた時、人間はどうするか?

 北条政子の秀でた心性を理解するために、そもそも危機に立たされた時、人間はどのような態度を取るのか、㋑から㊁の四つに分けてみます。

危機に立たされると

㋑自分で手一杯(感情のままにふるまう)
  :混乱、事実否認、一つの観念に凝り固まるなど。

㋺自分の外を見る(周りを見わたす、自分の小ささに気づく。)

 危機に陥るとその瞬間は、誰もが「㋑自分で手一杯」になります。そのまま㋑に留まっていると、状況の整理ができず、事実否認や事実誤認が起こります。原因の全否定や全責任を押し付ける、などです。日常世界でも政治の世界でも、自然科学者の世界でもよくあることです。
 そもそもこの世において、原因が己に一切なく相手にだけ悪があり否定される、ということはありません。私達が『論語』を学ぶのも、相手だけに責任を押し付けるのではなく、自らを反省することを勧めるからです。かみさんと喧嘩をすると甘えてしまって、相手にだけ責任を押しつけたくなってしまうのですが。
 話を戻しますと、事実の整理や責任追及をしない「有効な」対応策の検討に手をつけることで、㋺自分の外を見る段階に進みます。そうすると、自分の立ち位置や幾つかの重要な要素が浮かび上がってきます。そして何らかの対応策が見えてきてきます。こうして「㋑自分で手一杯」から抜け出せるのです。
 このままの状態を受け止めることもできますが、次の段階にも移れます。

㋩心細くなる
 :グループで固まる、あるいは特定の個人に依存する

 人は二歳頃からでしょうか、特定の個人と仲良くなっていきます。単純な喜怒哀楽のままに保育園で過ごしていた二女「おとは」は、二歳頃から特定の友達とだけ遊ぶようになったようです。小学校では男女の差こそあれ、グループで固まるようになります。特に思春期は不安定な時期ですから、グループを作ったり、特定の個人に依存したりという動きが強くなります。それは家族を含めると死ぬまで続きます。さらに、権力は孤独を要求しますから、権力者はより心細くなります。ですから、派閥を作り、その争いに終始することも起こってくるのです。洋の東西、時代、文化、民族を超えて、権力者、あるいは権力周辺は派閥争いが止まらないという歴史的事実があります。ですから、「㋩心細くなる」、そしてグループで固まるのは通常の心の動きなのです。しかし、人間はここで留まらない人も出てきます。その一人が北条政子です。

㊁より広さへと向かう
  :正義や公的規範、普遍的なルールに向かう

 『論語』の中には、しばしば孔子が苦しめられる場面が出てきます。けれども、孔子は正義や道徳などの普遍的なルールに沿うかどうかと考えます。目先の危機回避だけに捉われないという心の態度、つまり、秀でた心性に読者は感動するのではないでしょうか。北条政子も同じです。目先の危機回避だけに捉われず、普遍的なルール、頼朝の支持基盤の持っているルールへと向かいました。また、後年は、合議制を制度として採り入れるなど普遍的なルール作りを具体化し、実行するのです。カントは『実践理性批判』の第七で、

 「あなたの意思の格率が、常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しるうように行為せよ。」

 と述べています。「格率(かくりつ)」は「個人が決める習慣などのルール」です。例えば、朝起きたら直ぐに歯磨きをする、です。少し柔らかく訳してみます。

 「あなた一人が決める毎日の習慣があるでしょう。その習慣が、どんな時でも誰でも同じ習慣を行っても大丈夫なように決めて下さい。そしてその習慣を行いなさい。」

 カントが伝えたかったのは、自分の正義が全員に当てはまるかどうかを反省しながら、そして行動する、という点です。この一点において、カントは『論語』の孔子と共通していると思います。北条政子も同じ心性があったと思います。制度化は後年に実権を握ってからになりますが、頼朝が引き連れてきた千葉県や東京などの武士の心をつかんだのは、政子が有力な武士をえこひいきせずに、全員の武士に同じ

















ような公平さで接したからでしょう。

北条政子が「㋺自分の外を見てる」と気がついたこと

 以上の視点から北条政子の業績を見通すと、二点が見えてきます。

①権力基盤(兵士の数)が弱く、正室の座は危ない

 北条政子の出身母体である北条氏は、現在の韮山周辺の小さな土地しかありませんでした。つまり、同じ伊豆の豪族の中でも最大ではありませんでした。次に触れますが、北条氏は三百騎(歩兵である郎党は含まず)も集められませんでした。対して、千葉県(安房)などで頼朝は千騎、十倍以上の三千騎を集めた豪族をいくつも従えてきました。

 さらに悪いことに北条氏の兵士数はほぼ全滅してしまいます。源頼朝の初陣「石橋山(いしばしやま:小田原の少し南)の合戦」では、平家方三千騎に対して北条氏、とその他五氏を合わせて三百騎でした。ここで完全に敗北して兵を失ったのです。
 頼朝自身は命が終わろうとした時、敵方の梶原景時が裏切って助かります。兵士数壊滅によって伊豆の権力基盤を失った頼朝は、政子に連絡せずに千葉県に渡り兵を集めたのです。この千葉行きは頼朝の人気があった話として残っていますが、政子から見れば、権力基盤である兵士を殆ど失った、と観ることができます。そしてそれゆえに捨てられた話でもあるのです。
 同時代の風俗からすれば、権力のない家の正室は捨てられ、権力のある家から新しい正室を迎えることは、常にある時代でした。政子は最後まで正室として頼朝からも、頼朝の死後も御家人たちからも支持され続けました。それゆえ、この権力基盤の弱さは見落とされがちです。

②源氏は身内で殺し合ってきて、政権そのものが危ない

 次は頼朝も含めた武家政権の権力基盤の弱さの一つを観てみましょう。それは公家に使われてきた武士の本質の変化にも関わる点です。
 そもそも公家の使用人として勢力を拡大してきたのが源氏です。源氏は、公家の争いに巻き込まれ、身内が分裂して父と子、兄と弟が争い殺し合ってきました。例えば、源頼朝の父、源義朝(よしとも)は、家族の内紛で都から逃げました。頼朝と同じく、①東国に逃げて御家人を集め、②都に戻り、③父為義(ためよし)を倒しました。その後、また公家の争い(平治の乱)で平清盛に敗れます。そして尾張(愛知県)で家人(部下)に裏切られ殺されました。頼朝自身も弟義経(よしつね)を倒し、その赤子を処刑しました。また、親戚では源義仲(木曾義仲)を滅ぼしています。
 このように源氏は血で血を洗う凄惨(せいさん)な殺し合いを続けていたのです。なぜ、身内で血で血を洗う争いを続けるのでしょうか。中学時代に『まんが 日本の歴史』を読んで浮かんだ疑問が、今回の記事を書くことで消えました。
 血で血を洗う争いは、京都のように全国から税金が入ってくる場所だから成り立つのです。つまり、家族が憎いという感情が主な動機ではなく、全国から莫大な利益が入る京都の利権をより多く握るために争っている、という意味です。関東(鎌倉)の武士たちとの違いを箇条書きしてみます。

京都
○働かないで税金が入ってくる 
  ↓
 税金の権益を多く得るために家族でも争う

関東(鎌倉)
○家族で働いて自然の実りを頂く
 ↓
 食べていくためには家族仲良く

 京都を中心として考えている頼朝からすれば、家族で争うのは、結果として自分の利益になることでした。他方、関東の鎌倉政権を支える武士たちは自分達で畑を耕す農園主でした。武家政権を支える御家人(農園主)からすれば、家族で争うことには大いに抵抗があったのです。家族で争うのは結果として自分の利益に反するからです。この視点から観ると、「北条政子が家族を大切にする」=「武家政権の権力基盤を強固にする」の意味が出てきます。
 一つの事件を取り上げます。

頼朝の前で義経への思いを込めた舞う静御前

 文治二年(西暦千百八十六年)、義経は頼朝に追われており、義経の側室静(しずか)は捕えられて鎌倉にいました。鶴岡八幡宮に頼朝・政子夫妻が参詣し、静に舞を舞わせることにしました。そこで静は、

 「よし野山 みねしら雪ふみわけて いりにし人のあとそこいしき」

・吉野山の峰の白雪をふみわけて姿を消した義経の後ろ姿が恋しい。

 「しつやしつ しつのをたまきくり返し 昔を今になすよしもかな」

・しず(倭文)の布を織る麻糸を、まるくまいた「おだまき(糸を巻きつける木具:画像)」から糸がくり出されるように、絶えずくり返しながら、どうか昔を今にする方法があったなら(義経様に逢えるのに)。

 と舞いました。訳文は高木です。

 舞に対して頼朝は「八幡宮の前だから源氏を讃える歌を歌うべきだ」と不快感を表しました。
 政子は「私も最初は父に反対されても、夜道を迷いながら雨の中あなたの所へ行きました。あなたが何も言わずに千葉に行ってからは心淋しかったのです。今の静と同じです。ですから、彼女は貞女(ていじょ:夫を大切にする女性)です。」と誉めました。その後、頼朝は機嫌がよくなりました。

 この舞について三つの解釈があります。

 政子は嫉妬深いがこの時は、自分の身と同じだったので同情した ―従来の解釈―
 「それゆえ、頼朝の政治的な見識が素晴らしい。大勢の前で感情的な女性と争わないのは政治家として大物である。政子は感情的な性格である。」という解釈です。

 政子は頼朝よりもはるかに人間味を感じさせる ―田端泰子先生の解釈―

 「・・・頼朝批判の歌を歌い、堂々と舞を舞う、その勇気にも感心させられる。政子も静も情勢に屈せず積極的に自分の意志を表現できる人であったことがわかる。」
『幕府を背負った尼御台 北条政子』四十二頁

 「人間味=権力に屈しない」という意味であり、現代の女性史研究者らしい解釈です。田端先生は鎌倉政権前後の女性の地位の高さ、男女平等であったという視点から北条政子にせまっています。つまり、北条政子を通して当時の女性の地位を描き出すことが目的であり、北条政子個人の持つ資質に焦点があっていません。

 政子は頼朝よりもはるかに政治力を感じさせる ―高木健治郎の解釈―

 私は北条政子個人の資質に着目してみました。
 そもそも、政治力の根源はその支持基盤を確保することにあります。先ほど述べたように、鎌倉政権の支持基盤は農園主の御家人たちであり、家族仲良く、は動かしがたいほど強固にしみついていました。彼らの前で頼朝が鎌倉政権を褒めないからという理由で義経と権力争いをしたらどうでしょうか? もちろん、権力安定のために義経排除は必要です。しかし、正室ではない側室の静まで罰してしまっては・・・。単に「むかつくから近い立場の弱い者をいじめる」と受け取られるでしょう。それは鎌倉政権の支持基盤を弱くするものです。なぜなら、頼朝に近づいても「むかつくから近い立場の弱い者をいじめる」が、いつやってくるか判らないからです。言い換えれば、求心力の低下です。
 御家人たちは頼朝を冷酷な人物と断定し、信用しなくなります。そうなってしまうと、父義朝のように最後には裏切るかもしれないのです。政子は、そこを正確に見抜いていたのでしょう。だからこそ、自分の思い出を持ち出し温かい言葉を静御前にかけるのです。その後の静の母、静の赤子と静自身への手厚い心配りも一貫しています。
 まただからこそ、鎌倉政権の正式な歴史書『吾妻鏡』に政子の反論まできちんと載せているのでしょう。政子が静への手厚い心配りが御家人たちの心をつかみ権力基盤を強固にするという政治力を見ぬいたから書き残されたのでしょう。歴史書には、殆どの出来事や発言は書き残されないのです。ですから、歴史書に書き残された内容というのは、なぜ、書き残されたのか、に大いに理由があるのです。

北条政子の秀でた心性

 以上をまとめてみます。

 元々、政子の政治基盤(北条氏)は小さく、「石橋山の合戦」でほぼゼロになりました。
  ↓
 政子の秀でた心性は、自らの権力基盤(兵士数)の少なさを、自覚します。
  ↓
 危機に立った政子は、「㊁より広さへと向かう」を選びます。
  ↓
 権力基盤である御家人(農園主)たちと武家政権の断絶を認識する。
  ↓
 家族を大切にすること=御家人たちを大切にする、という政治的メッセージだと理解し、権力基盤を強固にする。

 同じく安定した長期武家政権を打ち立てた徳川家康と比較してみます。
 徳川家康も、家族の問題で苦悩しました。一度家を出た結城秀康は二男で優秀な君主でしたが徳川家を継がせていません。家を継ぐ公的ルールを確立するために、三男の徳川秀忠としたのです。家という考え方に公的ルールを入れ込んだのです。
 また、徳川家康は国内一の優秀な兵士を質と量で持ち、広大な領地も支配していました。この点、家康は安定した政権になりました。
 対して北条政子は少ない兵士数しか持たず、広い領地も持っていなかったのです。ですから、政子の死後、有力な御家人の足利氏などが内紛を何度も引き起こします。こうした歴史的事実は、北条氏の権力基盤が弱小であった証左です。そうなると北条政子が亡くなるまで御家人達の絶大な支持を受け続けるのは異例なことと考えられるのです。
 それゆえに、北条政子の権力基盤が土地や兵士数ではなく、その秀でた心性にあったことが判明します。

まとめ

 頼朝は静の舞の事件に見るように、「貴人に情なし」の面があります。それゆえ、関東の武士達の求めるものを受け止められない面がありました。もちろん、優れた面として、東北の藤原氏を滅ぼし全国を統治し、貴族の荘園制を廃止していくなどの視野の大きさをもっていました。しかし、それも権力基盤の関東武士を強固であればこそです。その関東の武士を受け止めたのが北条政子であり、そう考えると、夫婦相唱和していたのが頼朝・政子だったのです。静の舞で政子の忠告後、頼朝の機嫌が直ります。これは単に頼朝個人の問題でなく、夫婦で権力基盤である御家人達にメッセージを出したという政治の問題と読めるのです。
 この点を鋭く見抜き、分かりやすい恋愛話で語りかける北条政子の心の動きは、秀でている、と言って差し支えないと考えます。

《参考書》
 五味文彦・他編集 『現代語吾妻鏡⑴-⒃』 吉川弘文館
 田端泰子著 『幕府を背負った尼御台 北条政子』 人文書院
 渡辺保著 『北条政子』 吉川 弘文館

エッセイ「【歷史】北条政子の優れた政治力 「豊の前事件」 」

「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した原稿です。
 読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。以下本文です。


 明けましておめでとう御座います。本年も宜しくお願い致します。
 今回は北条政子の話になります。藤枝木鶏クラブで北条政子の希望を頂きました。年始に彼女の本を何冊か読んでいましたら、新しい解釈が想いつきました。そこで「北条政子と他の女性たち」と題して、政子と同じ地位に上った女性たちと比べつつ、迫りたいと思います。北条政子の政治力は夫源頼朝を超えていた、という少々強い結論になっています。

北条政子とは

 まず、彼女の経歴を簡単に述べます。

 北条政子(ほうじょうまさこ):保元(ほうげん)二年誕生、嘉禄(かろく)元年没す。六十九歳歿(ぼつ) 西暦千百五十七年~千二百二十五年です。
 ○現在の静岡県出身(伊豆の国市韮山駅近辺の「北条」という地名の場所)で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。
 ○鎌倉幕府を安定した政治体制に導いた。他方、平氏は、兵庫県神戸市に政治体制(福原京)を開こうとしたが計画倒れとなる。
 ○「政子」は西暦千二百十八年に命名されたものであり、それ以前の名前は不明。
 ○通称は、鎌倉幕府樹立後「御台所(みだいどころ)」、夫の死後に尼になり「尼御台(あまみだい)」、藤原氏から将軍を迎えた実権を握ったので「尼将軍」と変わる。
 ○頼朝との恋愛話や嫉妬深い悪女、高い政治手腕など数々の評価がある。

北条政子と他の女性

 北条政子は、日本の歴史(国史)で輝かしい人物です。一つには、長期政権を確立した武家の正室だからです。特に北条政子は鎌倉政権を安定化した人物として、室町時代まで高く政治手腕を評価されました。その後、単に嫉妬深い女、や、悪女という評価が江戸、昭和などに出てきます。現代では北条政子は、良い面と悪い面をもった人物としてイメージされます。今回は、当時の資料『吾妻鑑(あずまかがみ)』と『愚管抄(ぐかんしょう)』を基に、政子と他の女性たちを比較していきます。

 比較する女性は長期政権を確立した武家の正室三名です

①鎌倉幕府:源頼朝の正室:北条政子
 西暦千百五十七年~千二百二十五年 静岡県出身

②室町幕府:足利尊氏の正室:赤橋登子(あかはし とうし)
 西暦千三百六年~千三百六十五年 神奈川県(鎌倉)出身

③江戸幕府:徳川家康の正室:築山殿(駿河御前、瀬名姫、鶴姫とも)
 生年不詳~西暦千五百七十九年 静岡県出身

 驚くことに、三つの政権の正室二名は静岡県出身でした。言われてみれば・・・そうでしたという感じです。ではまず、築山殿と北条政子を比べてみましょう。共に後世、悪女と言われています。


 学者の中で一致している歴史的事実

築山殿:息子信康(のぶやす)と共に殺される。
   :家康の本拠岡崎では別居させられる。
   :家康の重臣たちと対立する。
   :政治権力に関われない。

    VS

北条政子:頼朝よりも長生きをする。
    :頼朝の本拠鎌倉で同居する。
    :頼朝の重臣たちとよく相談する。
    :政治権力を担う。

後世に出て来た通説(嘘?)

築山殿:側室おまんを裸でしまって放置した。本田重次が発見して保護した。
   :武田の家臣と不倫し内通した。
   :僧侶や踊り手、侍女の無益な殺害。

    VS

北条政子:妹の夢を買って頼朝と結ばれた。 
    :伊豆山権現に頼朝とのがれて強引に結婚した。

 もう1人、長期政権の正室となった赤橋登子(とうし)は、資料が少ないのでよくわかっていません。ただし、実は「よくわかってない」という点が重要で、登子が政治権力を持っていないかったことが判明します。

赤橋登子:夫の死に殉じて出家した(らしい)。
    :享年六十歳。
    :側室の子を虐待した冷酷な女性であったとの評価もある(通説?嘘)。

 以上から、「北条政子だけが長期政権を打ち立てた夫と同じ政治権力を握ったこと」が判ります。

北条政子の政治を表す話

 次に、北条政子が夫と同じ政治力を握っているのがよく伝わってくる話に移ります。この話には政子が、後に鎌倉幕府を永続させていく政治力の根本があると高木は考えます。

 「亀の前事件」

 「治承四(じしょう:千百八十)年、頼朝は千葉県で武士を集めつつ、本拠を鎌倉に定める。すると、北条政子は鎌倉に移った。頼朝が鎌倉に戻ると、病の床に臥(ふ)せてしまう。すると、新参の武士たちも政子の容体を心配して屋敷の集まったのであった。政子が武士たちに敬愛されていた御台所であったのが伝わってくる。病は妊娠のつわりと判る。後に長子頼家を出産する。政子の前に頼朝と結婚し子を儲けていた伊東祐親(すけちか)の娘があった。伊東祐親は娘を無理やり離婚させ、子供を松川に沈めて殺してしまった。その伊東祐親に恩赦を与えたが、自殺してしまう。彼は平家方としての意地を通した。また、政子と頼家のために、頼朝は鶴岡八幡宮の参詣道をまっすぐ通す工事などを行った。
 お産が近付いたので、別宅に移った。取り仕切るのは梶原景時であり、お産は武家政権の重要な公的政務だった。ちなみに梶原景時は頼朝の死後、政争に敗れて静岡市まで逃走して自害した(梶原山に名前が残る)。長女に続き頼家の妊娠で、夫頼朝は周りの女性にラブレターを送り、また、他の女性たちと「密通」をした。と鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』が記している。実際にはどれほど女性と遊んだかは判らない。
 政子の出産は八月十一日であったが、この時、屋敷のまわりに御家人が集まり、献上品があった。乳母なども定まった。政子は頼朝の側室「亀の前」を知り、彼女の住まう伏見広綱の屋敷を「破却(破壊)」させた。翌々日訪れた頼朝は、破却を実行した御家人・牧宗近の髻(もとどり:ちょんまげを束ねた部分)を切りった。頼朝は、

 「御台所を大切にするのは重要だが、このようなことは、どうして私に相談しなかったのか。」

 と言った。牧一族は、その後鎌倉を去り、伊豆に引き上げた。亀の前は元々の近くの屋敷に戻ってきて、頼朝はまた通うようになった。その後、頼朝は伏見広綱を静岡県の遠州に流す罰を与えて事件を終わらせた。」

 以上が、「亀の前事件」です。これまで、以下のように解釈されてきました。

「亀の前事件」の三つの解釈

 従来の解釈
 ㋑北条政子の嫉妬深い話=女性の嫉妬は悪である=政子は悪である=築山殿と同じ

 田端泰子氏の解釈
 ㋺北条政子の処分権の話=政子が頼朝と同じ処分権を持っている

 「もし、嫉妬ならば亀の前自身を処分したはずである。また、頼朝が『御台所を大切にするのは重要だが』というのは北条政子の処分権=頼朝と同じ権力を持っていることを認めている」とします。
 ただし、田端氏はまとめとして「この事件は政子が頼朝の多情さに対して憤(いきどお)りを爆発させ、さまざまな点で反省を求めようとする実力行使に出たと見るのが、本質を突いているように思う。(『幕府を背負った尼御台 北条政子』二十八頁)」としています。従来の解釈も「憤りを爆発させ」と引き継いでいます。

 高木健治郎の解釈
 ㋩北条政子の政治力の話=政子が持つ政治力が鎌倉政権を支えている

 何冊か本を読むことで私なりの解釈が立ちました。
 注目すべきは、側室亀の前が戻ってきた時、別人の屋敷を「破却」させていない点です。つまり、頼朝は二、三カ月我慢しただけだったのです。政子が嫉妬の、あるいは子供を守るという感情にとらわれるだけの女性ならば、別人の屋敷を「破却」させたでしょう。あるいは頼朝に嫌味を言い連ねて仲が悪くなり、築山殿のように別居させられてしまったことでしょう。しかし、そうはなりませんでした。つまり、政子は個人の感情から「破却」させたのではないと解釈できるのです。

 では、政子が「破却」させた理由とは何でしょうか?

 それは正室と側室の上下関係を明確につけることでしょう。武家政権にとって最も危険なことは、古今東西変わりません。それは後継者同士の争いによって武家政権が内乱になり、崩壊することです。それは、後継者同士争い=当主の子供たちの上下関係がついていないことによって生じるのです。鎌倉時代は江戸時代のように長子相続が確立していませんし、古代は末子(ばっし)相続でした。正室と側室の上下関係も明確ではありませんでした。同時代の藤原氏、平氏も同様でした。政子が意図したのは、側室である「亀の前」と正室である政子の上下を関係付けることなのです。頼朝の寵愛がいくら「亀の前」にあろうとも、政治権力としての上位の位置は政子にある、という決定打を「破却」によって示したのです。
 そのためには、頼朝の御家人である牧宗近によって行われなければなりません。もし、政子の家来によって行われれば、それは政子の単なる嫉妬に基づく私的制裁に過ぎなくなってしまうのです。同じ行為が公人によって行われるか、私人によって行われるかの決定的な違いについて、政子は熟知していたのです。現代で言えば、お隣のお家が汚いから、と言って壊してしまえば、財産権を侵害したとして警察に逮捕されてしまいます。それは私的制裁だからです。けれども、市役所立会いの下で、市役所からの委託された会社が壊したのなら、公的任務であり、社会から認められます。この違いを認識し、「破却」を行った政子は優れた政治力を持っていた、と解釈できるのです。

 同時に、頼朝も政治力の根源が、この上下関係による命令から生まれることを理解していたのでしょう。

 「御台所を大切にするのは重要だが、」

 と最初に言います。けれども、男女の愛に狂ってしまったのでしょう頼朝は、気持が治まらず、

 「このようなことは、どうして私に相談しなかったのか。」

 と政治力に欠けた発言をします。つまり、嫉妬に狂って取り乱しているのが政子ではなく頼朝の方なのです。それゆえ、重要な御家人である牧一族が離反してしまいます。この点で頼朝は政子よりも政治力が低いのです。

 つまり、高木は「亀の前事件」とは、

 「①政子の嫉妬深い話」ではなく「③政子の政治力」を表す事件であると考えます。
 この事件によらず、その政治力は主人である源頼朝をも超えていたのではないか、とさえ思える話がもう一つ、隠れていました。それは頼朝の集めて来た新参の御家人の心を直ぐにつかんでしまったことです。築山殿は重臣達の支持をえられず、また家康の生みの母親とも対立し、息子の嫁とも仲違いをしてしまいます。このように比較して観ますと、北条政子のカリスマ性が浮かび上がります。

正室と側室の上下が武家政権永続にとって重要な実例 豊臣秀吉

 政子の正室と側室の上下をきっちりとつけることが武家政権の永続に必要不可欠である例を挙げます。豊臣秀吉です。秀吉は織田信長の武家政権を受け継ぎ全国を統一して、形式上は貴族(太閤:たいこう)として全国を取りまとめました。彼のカリスマ性、外交力、内政力等々はここで述べるまでもありません。けれども、正室と側室の順序をつけることで大失敗し、結果、豊臣氏は政権を徳川氏に奪われてしまいました。

 正室:高台院(こうだいいん):別名 北政所(きたのまんどころ)、おね、ねね、ねい 
  VS
 側室 :淀(よど)の方:別名 浅井茶々(あさいちゃちゃ)、淀殿(よどどの 後世)

 正室北政所は、北条政子と三点が同じで、似ています。低い武士の生まれで、親の反対を押し切って恋愛結婚しています。また、政子と同じく、政治力があり豊臣政権の朝廷との交渉を一手に引き受け、人質として集められた諸大名の妻子を監視する、名古屋から大坂への通行の管理などの行政権も行使しました。また、小田原征伐の際の留守居役として政子が鎌倉を守ったのと同じ役目を果たしています。
 しかしながら、正室北政所は、嫡子である豊臣秀頼(大坂夏の陣で自刃)を手元で育成していません。秀吉は子育ては淀の方、政治は北政所と役割分担とし、二者の上下関係を明確にしなかったのです。秀吉の死後、豊臣政権の混乱の原因となり、崩壊に至ります。
 一般社会では「平等」や「対等」は理想とされますが、権力維持において現実の「平等」や「対等」は混乱の元になりやすいのです。では、豊臣政権が事実上崩壊した関ヶ原の陣の陣容を見てみましょう。

 豊臣政権の正室北政所派 :福島正則、黒田長政、小早川秀秋、池田輝政など。

 豊臣政権の側室淀の方派 :石田光成、毛利輝元、宇喜多秀家など。

 関ヶ原の戦いを決定づけたのは小早川秀秋ですが、彼は北政所を実母のように慕っていました。また、北政所は徳川家康と大変仲が良く、「家康を頼るように」と言われていました。ですから、関ヶ原の戦いは、いわゆる石田光成と家康との戦いではなく、実際には豊臣政権の北政所派と淀の方派の混乱が、言いかえれば豊臣政権の家臣はどちらに従うかの一本化がなされていなかったのが真の戦争の原因なのです。小早川秀秋は最後まで迷いますが、それは秀秋自身の優柔不断さではなく、「北政所と秀頼のどちらが豊臣政権なのか?」という問いなのです。これは秀秋以外の武将、福島、池田なども迷っています。豊臣政権が上下関係をつけていない混乱をうまく利用したのが徳川家康だったのです。関ヶ原の戦いはどちらが勝っても、豊臣政権の影響力が低下する戦いでした。
 実戦を見てみましょう。関ヶ原の戦いで、徳川家康の直属の部下たちは一切戦っておらず、豊臣政権の家臣の福島正則、黒田長政、小早川秀秋と同じく家臣の石田光成や宇喜多秀家などが激突して戦っているのです。
 正室と側室の上下関係を明確にしなかったことで、関ヶ原の戦いが生まれてしまい、どちらが勝っても豊臣政権崩壊に向かう道となりました。

北条政子の偉大さ

 源頼朝の血統は北条政子の生きている時代に絶えてしまいます。けれども、武家政権は永続しました。豊臣秀吉が執着した血統は秀頼につながりましたが、豊臣政権は途絶えてしまいます。これらは北条政子の政治力の大きさを示しています。このように歴史を高い視点から眺めてみると、「亀の前事件」は単に北条政子の嫉妬話ではなく、平和な国を作るために上下関係を明確にしなければならない、という政子の決意が伝わってくる話と読むことができます。
 
 さらに、合議制を制度化するなどによって北条政子が永続させた鎌倉政権は、元寇を見事に防ぎました。また、徳川家康が江戸に開府する際にも、明治天皇が江戸の皇居に行幸される際にも、大いに参考とされたのです。北条政子が鎌倉政権で政治権力と首都の分離を成し遂げなければ、現在の日本の形ができていないのです。世界の諸外国において、首都と政治権力が分離しているということを成し遂げた国は殆どないのです。この意味において、日本の歴史(国史)に与えた影響の大きさは計り知れないものがあります。また、女性という枠をつけるのがおこがましい程に、偉大な人物であると考えるに至りました。


引用書
 『幕府を背負った尼御台 北条政子』 田端泰子著 人文書院 二千三年 初版一刷

【時事】トランプ氏当確は日本の利益

(ご希望がありましたので、同人誌掲載より前に掲載致します。)


 アメリカ合衆(州)国大統領選挙でトランプ氏が当確を受けた。職場や学生から問われて答えた内容をまとめておきたい。なるべく簡素に、分かりやすくしたい。十一月八日に投票が行われ現在十一日午前中である。

トランプ氏当確のアメリカでの意味

 一つは希望である。アメリカの民主主義が選択を下せた、民主主義が機能した、という希望がある。
 一つは絶望である。アメリカのマスコミの偏向ぶりが変わらず、エリートと既得権益はそのことに気がつかなかった。

トランプ氏当確の日本での意味

 一つは希望である。アメリカの弱体化によって日本は真の平等な日米同盟へとつながり、領土解決へと近づく。
 一つは絶望である。アメリカ大統領選挙に介入しない中立性は、公平や潔白さを重視する大東亜戦争の日本の態度に似ている。中華人民共和国は大統領選挙に大いに介入していた。

大統領選挙の分析

 箇条書きで進めていく。

アメリカ国民は更なる「チェンジ(Change)」を選ぶ
 八年前、アメリカ国民はオバマ氏を大統領に選んだ。結果、大失敗であった。オバマ大統領の目標であった「イラクからの撤兵」と「医療改革」はどちらも大失敗。むしろオバマ大統領になり戦場は増加した。特殊部隊、空爆、戦闘用ドローンの活用で戦場増加を感じさせないようになっているだけである。アメリカ国内の白人と黒人の対立も五割以上増加している。
 世界に目を向ければ、オバマ時代に、中華人民共和国が、南シナ海、東シナ海へ軍船を出すようになり、ロシアがクリミアを占領し、シリアで大虐殺が起こり、「アラブの春」が大失敗し、ISISが出てきた。さらに、欧州で数々のテロ実行が起こった。これらの大きな原因はアメリカ政治にあり、大失敗と言える。つまり、「チェンジ」は悪い方へ起こってしまった。
 しかし、アメリカ国民はトランプという「チェンジ」を、さらに選んだ。アメリカ国民は、

 「現在のアメリカを何とかして変えなくては、たとえ、最悪な結果となったとしても。」

 という選択を下したのである。ここに独裁制にはない民主制の力強さがある。私はヒラリー氏がぎりぎりで勝利すると思っていた。しかし、勝ったのはトランプ氏であった。裏取りができていないので推測であるが、ブッシュ家のような政治集団が最後のひと押しをしたにしても、私は民主制の力強さを思い知らされた。
 裏を返せば、アメリカの子供の半数が貧困である、自己破産の半数が病気による多額の医療費である、などの悲惨な中産階級の生活が限界をむかえている、ということである。この一文に限らず、アメリカのマスコミ以外のアメリカ人による情報を基にしている。例えば、アメリカ軍の基地対外政策担当者などである。

トランプ氏は日本に利益か

 「ヒラリー氏ならこれまでのアメリカの政策が変わらない」という意見が日本のマスコミで散見された。しかし、事実に反する。夫ビル・クリントン時代に、中華人民共和国は極端な反日に走った。靖国問題の激化、南京大虐殺等々である。北朝鮮の核開発を容認した。アメリカ軍は制裁として空爆を提案したが、中止させたのはクリントンである。さらに、クリントン夫妻は、上院議員になる前から中華人民共和国から資金提供を受けている。数カ月にヒラリー氏が各国の首脳から賄賂を自分の財団で受け取り、見返りとしてアメリカの武器供与を数々行っていた、という本が出版された。トランプ氏支持者は「ヒラリーは嘘つきだ。トランプは正直ものだ」と強固に主張していたが、その一つの根拠がここにある。日本は国柄として賄賂を贈ることが出来ない。オリンピック誘致はその典型で、水泳など各種スポーツでは数々の弊害が出ている。歴史分野では、事実無根の従軍慰安婦や南京大虐殺がまかり通るのも、中国が反日資金をアメリカ国内で一兆円使っているからである。他方、日本は賄賂を贈れない。だから、ヒラリー氏当選は不利益になる。
 ただし、トランプ氏が必ず有益という訳ではない。ヒラリー氏ならば日本にとって不利益が確定しているが、トランプ氏は幅がある。だから、有益かもしれない、のである。

利益と利益の戦いでしかなかった

 アメリカのマスコミ報道は日本の偏向報道よりも酷かった。「ヒラリーは希望、トランプは絶望」というスタンスしかなかった。比較的中立だったのはFOXであるが、それでも偏っていた。これはヒラリー氏が利益を代表していたからである。図にしてみる。

 ヒラリー氏:主流派、お金持ち、マスコミ
  VS
 トランプ氏:貧しい白人


 トランプ氏がイスラム教徒やヒスパニック(メキシコ人)などを攻撃するのは、貧しい白人が彼らに職を奪われているからである。ヒラリー氏が自由、人権、平等などを訴えるのは、お金持ちや主流派が利益を挙げているからである。

 「あなたは自由に職業を選べる。(・・・だからアルバイトのように給料が低くても我慢しなさい。儲けはいただきますよ。)」

 日本で派遣が定着したのはアメリカが日米構造協議で押しつけてきた西暦千九百九十年である。そのことによって一気に貧困層が増えた。この貧困層がアメリカには大量にいる。現在の日本の状況で、中国人や東アジア各国の労働者が大量に入ってきたら、アルバイトや清掃などの仕事が奪われ、時給も下がってしまう。そういう実情がアメリカにある。そこをすくい上げたのがトランプ氏なのである。そして、その貧困層から搾取する側がヒラリー氏なのである。

 根本を見つめたい。
 アメリカの民主主義の凋落(ちょうらく)ぶりは目に余る。トランプ氏の勝利はレーガン氏の当選に比べられたりするが、レーガン氏は利益ではなく理念で当選した。

 「アメリカ国民よ、税金を納めなさい。その税金で核兵器などの軍備を拡大させ経済を発展させ、ソ連との戦いに勝利する。」

 と述べてレーガン氏は圧勝した。実際にソ連よりも優れた核兵器「パーシングⅡ」を開発し、西欧(NATO)にも導入してソ連崩壊へと導いた。西欧では百万、二百万人の「パーシングⅡ」導入反対デモが起こり、日本でもマスコミが「東京は焼け野原になる」と叫び続けた。しかし、アメリカの理念を支持したアメリカ国民の知性が、冷戦を終結させた。
 しかし、今回は、ヒラリー氏もトランプ氏も国民に犠牲を強いることなく、国民の耳当たりの良い利益だけを語った。他に大統領候補は二名いた。しかし、マスコミは理念を語る二候補を無視し続けた。トランプ氏と対比すればヒラリー氏が当選する、と考えたからである。それに流されたアメリカ国民は、大統領選挙がヒラリー氏かトランプ氏、あるいは支持しない、という考え方しかできなかった。もちろん、日本では「ヒラリー氏は希望、トランプ氏は絶望」というアメリカのマスコミの偏向報道が公平であるかのように勘違いしている人々もいる。公平な皮をかぶった狼に気をつけなければならない。

トランプ氏で大戦争はない

 ③から導き出せる。大戦争は正義と正義の戦争によって引き起こされる。利益と利益ならば事前に手打ち、あるいは紛争で終了する。これまでアメリカが南シナ海、東シナ海で事前に手打ちで済ませられたのも、アメリカが正義を持ち出さず、中国も正義を持ち出さないからである。トランプ氏は貧しい白人(アイルランド系、イタリア系など)の利益を代表して当選した。だから大戦争にはならない。ブッシュ氏がイラク侵攻をしたのは、クェートを救う、化学兵器使用を止めるという正義(神の命令)を持ち出したからである。そうなると経済観念(利益)は消え失せてしまう。それゆえ、トランプ氏で大戦争は起こらない。

当選よりも閣僚人事が大切

 マスコミ報道で最も気をつけなければならない点は、以下の誤りである。

 「トランプ氏が大統領になる」
  ↓
 「トランプ氏の主張が実際の政治となる」

 アメリカ各都市で「反トランプデモ」が起きているが、同じ誤りをしている。先ほどオバマ大統領の事例でも挙げたが、オバマ氏の主張はことごとく実際の政治とは「ならなかった」のである。日本国内でも同様の経験をしていない人はいない、と推測されるのに、多くの人が「トランプ氏の主張が実際の政治になる」と思い込んでいる。テレビでは識者がトランプ氏の公約を基にして今後の政治を語っている。
 オバマ氏を見てみよう。彼が就任当初に影響力を持っていたのは、その閣僚に優れた人材を採用したからである。さらに、オバマ氏の後見人として退役海軍軍人がついたからである。しかし、優れた閣僚は離れ、退役海軍軍人とも仲たがいをした。最後には主要閣僚のなり手がいなくて困り、オバマ氏の任期終了まで来てしまった。以上のように閣僚が動かないので、アメリカ政界での影響力を失い、その動きを注意深く観察しているロシアのプーチン氏や中国共産党の習氏に付け入るすきを与えてしまった。さらに、ヒラリー氏は数々の汚職を止められなかった。その結果、彼女は決定的にアメリカ軍と対立した。しかし、オバマ氏は大統領として調整できなかった。そもそも彼は一つの理想(世界像)を語れなかった。中東の和平とはどういう形が望ましいのか語れず、現在でも右往左往している。それゆえ、目の前の残虐行為だけで戦場を拡大してしまうのである。
 典型例は、エジプトのムバラク大統領側と民衆側に分れてアメリカの国防総省と国務省が分れて、応援したことである。両派ともアメリカの応援を取り付けたと思い、国内の反対派を弾圧した。現在も中東全体が不安定化し続けている。以上のように、いくらオバマ氏がイラクから撤兵したい、と主張しても閣僚に優れた人を得ないと軍と調整不可能になり、実行できないのである。
 トランプ氏の主張は過激である。なぜなら、貧しい白人の利益を代表しているからである。その政策を実行するための閣僚が決まっていない。その点を踏まえれば、「トランプ氏の主張が実際の政治になる」のは、優れた閣僚にかかっているのである。
 加えれば、先ほども述べた貧しい白人の、つまり特定の集団利益を代表する主張は、当選後によく無視、あるいは遅延することが多い。過激な主張は、過去の歴史的事実につき合わせて考えなければならない。

トランプ氏はヒラリー氏とほぼ変わらない

 アメリカのマスコミの偏向を真に受けるとヒラリー氏とトランプ氏は正反対のように思う。しかし事実は異なる。アメリカは二大政党制で政策を対立させる形を取りながら、この百年間一貫した政策を取りづけている。

 「世界に最も武器を輸出する」
  ↓
 「地域の不安定化」
  ↓
 「戦争の口実を得て開戦」
  ↓
 「当該地域の富をアメリカに集める」
  ↓
 「アメリカの金融の発展」
  ↓
 「アメリカの大統領選挙等の支配」
  ↓
 「世界に最も武器を輸出する」
  ↓
 (つづく)

 第一次世界大戦で世界の一角にのし上がったのは、連合国と枢軸国の両側に武器を輸出し、トラックなどの自動車を売りまくったからである。そうして得た資金を元に金融を支配し、その原資でアメリカ大統領選挙等を支配してきた。一見すると大統領選挙では国民が大統領を選んでいるように見える。本当に国民だけが大統領を選んでいれば、国の政策はコロコロと変わって一貫性がなくなってしまう。ギリシャのように一、二年で政権が入れ替われば国は疲弊する。アメリカ大統領が共和党と民主党で激しく入れ替わっても政策が一貫しているのは、大統領選挙等を上流層が支配してるからである。
 オバマ氏が当選するためには、少なくとも二百五十億を超える資金が必要であった。その内の五十億から八十億が国民の寄付等による。残りは上流層、つまり、銀行や軍需産業、食糧業界等々からの寄付による。トランプ氏当選も三百億前後の資金を要したであろう(まだ、数値が出ていない)。
 当初、トランプ氏が泡沫(ほうまつ)候補で全く当選しないと考えられていた時、

 「医療業界が一億円の寄付をしたいと言ってきた。けど、俺はことわったぜ。そういう汚い金を受けとるから、政治がおかしくなるんだ。俺は金持ちだから、選挙資金は全部自分で出す。」

 と言って国民から熱狂され、一気に有力候補になった。アメリカ国民が現在の医療費負担(例えば四人家族で月平均十一万円以上の保険料支払い)に苦しめられていることが伝わってくる。
 しかし、トランプ氏は選挙戦の途中で、

 「大企業などからの寄付も受け付ける。」

 と宣言した。そう宣言しても有力候補となっていたトランプ氏の人気は落ちなかった。他の有力候補が消え去っていたからである。そして「メキシコ国境に壁を作る」、「ISISを攻撃する」などの過激な主張を打ち出していった。
 つまり、トランプ氏はヒラリー氏のように腐敗していないにしても、大統領選挙を戦うために、多額の寄付を上流層から受けているのである。その結果、閣僚のポストを幾つか上流層が決めることになる。⑤で述べたように実際の政策は閣僚の力が大きいので、結果として、トランプ氏の実際の政策は、ここ百年のアメリカの政策の流れから大きく外れることはなくなると推測される。理念を語ったレーガン大統領ならば、大枠で規制ができたけれども、利益を語ったトランプ氏では、上流層の影響力を排除するのは難しいであろう。
 
アメリカのメディアが失墜

 今回の大統領選挙の最大の敗北者はアメリカのメディアである、と考えている。オバマ大統領の時は、オバマ大統領に味方した。例えば、オバマ氏の名前は「バラク・フセイン・オバマ」であるが、アメリカのメディアは「フセイン」と付けて報道すると人種差別になるから報道してはならない、と規制を敷いた。このような例は枚挙にいとまがない。アメリカのメディアは、これまで多くの大統領候補に味方し勝たせてきたのである。しかし、今回ほど片方の候補を善玉にして、片方の候補を悪玉にして、さらにその善玉が負けるということは過去になかったように想う。
 多くの識者は「ネットの発達」を指摘している。加えて私は、アメリカのメディア自身の自浄作用がなかったことを注目する。
 そもそも、どの国でもメディアは偏向する。日本でも従軍慰安婦や憲法九条問題などで偏向してきた。小川榮太郎氏は「放送法順守を求める会」を立ち上げ、メディア偏向を是正しようとした。NHKやTBSなどのテレビ放送で「安保法案の報道時間が、賛成派が反対派よりも少ないのは放送法第四条の中立性に反する」と主張した。報道ステーションは賛成派の報道時間五%に対して反対派は九十五%という時間の偏りがみられたのである。こうした指摘によって徐々に時間の公正さが、不十分ではあるが前進している。日本国内ではメディア偏向の浄化が国民自身によって確保されようとしている。
 対してアメリカのメディアは最後まで自浄作用が働かなかった。私は「どちらの候補が勝利するか」よりも「善玉と悪玉という偏向報道がどれほど自浄されるか」、「どこの階層の人が自浄作用に加担するか」という点を見ていた。

 アメリカの民主主義において民衆の愚かさを指摘したトクビルである。その愚かさは決して根絶できないにしても、メディアの偏向はなくす方向へ舵を切ることはできる。舵を切らなければ民主主義は衆愚に陥ってしまう。つまり、

 「民衆が自ら選んでおきながら、政治家は全て汚いだけだ。」

 という機能不全に落ちいることである。現在のブラジルは衆愚に陥っている典型例である。
 これを象徴するのが、ヒラリー氏とトランプ氏の公開討論会の第三回目に視聴者数が一割以上減ったという事実である。両候補に裏で質問が知らされている、という毎年の御約束が減少につながったのではない。メディアが国民が望む情報を提供できなくなった、という意味なのである。善玉と悪玉の対立構図というメディアの利益でしか報道しないから、飽きられてしまったのである。このまま進めば、アメリカ国民は自ら選んだ大統領を「汚いだけだ」と切り捨てて機能不全へと近づいていってしまう。そこに導きいれるのは、メディアの偏向なのである。メディアの自浄が今回の大統領選挙の焦点である、というのは以上の意味である。

トランプ氏当選は日本の利益

 まとめてみると七つにもなってしまった。数多くの分析の中で何か心に引っかかりがあれば幸いに思う。

 最後に、日本から見たトランプ氏当選についてまとめる。

 トランプ氏の当選は日本にとって利益になる。なぜなら、夫が反日政策を繰り返し、賄賂を取るヒラリー氏に、日本が賄賂を贈れないからである。また、アメリカ軍から極端に嫌われたヒラリー氏の元でアメリカの軍事力は弱体化するのが確実だからである。武器や総合的な火力だけが軍事力なのではなく、同盟国との協調関係や軍人の士気を含めて軍事力と言う。弱体化したアメリカ軍ならば南シナ海、東シナ海の日本の石油や輸送の生命線が脅かされる。
 対してトランプ氏は閣僚人事が不透明であるが、ヒラリー氏の手法に反対する圧力がかかると考えられる。つまり軍事力の増強である。
 また、トランプ氏の支持層である貧しい白人層は戦争が大好きで、熱狂的に対外戦争を支持する。それゆえ、この支持基盤を持つことで、ロシアや中国共産党などは、軍事作戦を控えるであろう。就任後、二、三か月は少なくとも。

 また、安倍首相支持者ならば喜ばしいことである。何をしでかすか分からない、と思われているトランプ氏(私は頭脳明晰と考えているが)という虎に鈴をつけられるのは、日本の安倍首相しかいない、と世界中が考えるからである。同じ同盟国のイギリスのメイ首相は就任四カ月であるが全く影が薄い。国際会議でメイ首相がどこにいるのか?と気にされない程である。また、EU離脱でイギリス自身の影響力が低下している。ドイツのメルケル首相もEU問題と国内支持率低下で揺れている。フランスのオランド大統領の支持率は五%である。欧州各国は弱体化している。ロシア、中国はアメリカの潜在的敵対国である。すると、トランプ氏と調整役を務められるのは、世界で一人しかいなくなる。
 その安倍首相は、トランプ氏当選を読み切っていたかのように、TPP法案成立を急いでいる。トランプ氏に飴と鞭を付けて法案を突きつけようと準備している。昨日、衆議院を通過した。この通過によってトランプ氏との交渉を有利に働かせようとしている。日本外交の中で、大統領選挙の結果を受ける前に圧力をかけようとする動きが過去にあったであろうか。貿易協定を日本が先導する形で進めてきたであろうか。浅学な私には思い当たらない。
 以上から、トランプ氏の当選は現状ならば、日本の利益になっている。

おわりに

 トランプ氏当選のニュースを聞いて、少しの驚きと少しの喜び、多くの平穏な気持ちでした。アメリカ大統領がどちらでもあまり変わらない、と思っていましたし、それでもアメリカ国民が「チェンジ」を選んだからでした。米ソ冷戦を終結させたのは、レーガン大統領の理念と、それを選んだアメリカ国民の知性があったからです。現在アメリカは、強大な敵が居らず休んでいるのでしょうか。危急存亡のときになれば、知性を発揮するのでしょうか。トランプ氏の当選のニュースを聞いて、未来の危機に備えたい、そのような感傷を持ちました。
 現在を見渡せば、オバマ氏の大失敗を終わらせることをトランプ氏に期待しています。

エッセイ 「 【随筆】哲学とーちゃんの子育て11 -「きびしい」子育てとパンセの名言- 」


二人一緒に
 朝六時半、日差しが熱い神社への道路で。

 「まなちゃん(四歳一か月)、明日は大浜プールいくよね。」

 「うん、ぃくー。」

 「おとーちゃんとまなちゃんと二人でいくかな?」

 「ううん、とっくん(六歳)も一緒にぃくー。だってね、ぐりんぱ(遊園地)にとっくんが連れてってくれたからぁー。」

 「そっかぁー。えらいなぁー、二人で助け合ってるね。」

 「うんー。」

「厳しい」子育て
 夏休みに入ってもお盆休み以外に保育園がある。しかし休ませてでも、長男とっくんと、長女まなちゃんの希望の場所へ連れて行こうとした。決意したのは、先月のある夜のことだった。

 「とっくーん。」

 「なーに。」

 「おとーちゃんは、きびしい?」

 「きびしい。とっても。」

 「そっかー。」

 「うん。」

 「じゃあ、なんできびしいか判る? なんできびしくするか判る?」

 「・・・わかんない。」

 「そうだったのか。まなちゃんは、おとーちゃん、きびしい?」

 「きびしいよ。でもいいよ。」

 「ありがと。でも、なんできびしいか判る?」

 「わかんなーぃ。」

 「そっかそっか。・・・じゃあ、説明するからちゃんと聴いてね。」

 「うん。」「うん。」

 「おばーちゃんのお家に行って皆でご飯を食べている時に、ご飯を投げて遊んだり、走り回ったらどうなる?」

 「だめだね。」「だめー。」

 「そうだね、そうしないようにきびしく怒らないといけないね。」

 「うん。」「うん。」

 「だから、きびしくするんだよ、わかった?」

 「うーん・・・」「わかんなーぃ。」

 「おばーちゃんのお家じゃなくて、お友達のお家だったらどうなるかな?」

 「うーん。」「・・・(首を横にする)」

 「お友達に嫌われちゃうね。」

 「うん。」「うん。」

 「だからね、お友達に嫌われないように、ちゃんと食べなさい、ってきびしく怒るんだよ。おとーちゃんは、とっくんやまなちゃんが、お友達に嫌われないように、きびしいんだよ。」

 「わかったー。」「わかったぁー。」

保育園の有り難さ
 私の子育ては「厳しい」と言われることがある。保育園に行くと自分でもよく解かる。私が保育園に子供三人を連れていくと、三人とも自分で支度をさせる。六歳のとっくんは当たり前、少し遊んでしまうけれど。四歳のまなちゃんは、全てしっかりできる。二歳のおとちゃんは、自分で荷物と靴を持つ。体半分以上のバッグを持ってよちよちと歩く。プールの用意などは出来ないが年齢で出来る最大限をさせている。
 しかし、他のお家では親が色々と世話を焼くことが多い。加えて私は、支度が遅れると「早くしなさい」と声を出す。私の子育てが「厳しい」と保育園で教えて下さる。保育園は子供を預かって下さると同時に、他の親御さんから子育てをこっそりお示し下さる場でもある。

 「きびしい」子育て、というのを心に留めた。もちろん、厳しくてよい。孔子は「性相近(せいあいちか)し、習い相遠し」と言う。

 「人は生まれた時は殆ど一緒ですよ。けれども、習慣で大きく変わりますよ。」

 との意味である。だから、厳しくてもよい。けれども、厳しくすればよい、という形だけの躾ではいけない、とも言う。最も大事なのは「仁」、つまり「子供への愛」だと言っているのである。
 厳しさは大事、でも、最も大事なのは「子供への愛」である。う~ん、どうしようか、と思い悩んだ。
 思い悩んだ結果が、

 「夏休みに、子供の希望する場所にどこでも連れて行く。」

 であった。もちろん、とっくん、まなちゃん、それぞれ、である。

 とっくんは、最初、映画「シン・ゴジラ」、プールなどを挙げていたが、「ぐりんぱ」に行きたい、ということになった。すると、まなちゃんも行きたい、という。私はとっくんに聴いた。なぜなら、とっくんの選択で行くのだから。言い換えれば、場所を選ぶ権利があるものが、人数を選ぶ権利もあり、同時にそこに生じる義務も負うことになる。その権利と義務を負えるようになるのが大人である。とっくんはあっさりと、

 「いいよ、まなちゃんも一緒にいこう」

 と言った。この時、一切とっくんの決断に口を挟(はさ)まなかった。大人扱いしたかったからである。
 「きびしい」子育ては、子供を子供として扱う。その厳しさは、権利と義務を負う大人へと徐々に置き換わっていく。親から強制される「きびしい」から、自分自身で責任を取らなければならない、別の権利と義務へと置き換わっていくのである。親(私)はいつの日にか死ぬ。せめて、大人への道筋が楽しめるように示してあげたいと想った。

 「ぐりんぱ」へ保育園を休み三人で行った。大いに楽しんだので、帰りの車を走らせると、二、三分で二人とも寝てしまった。

 そして、数日後、まなちゃんの希望した大浜プールへと三人で向かった。大浜プールは市営の無料プールで、長い円周の流れるプールなど五つ以上のプールがある。私も私の兄妹も小学校時代から遊んだ場所で、静岡市の子供たちの夏の定番の場所なのである。たっぷりと二時間遊び、まなちゃんが「さむいから、もう上がる」と炎天下で言う程、プールに浸かった。とっくんの唇はとっくに紫だった。帰るのを決める責任を負うのは、大浜プールを選んだまなちゃんだった。

パスカルの名言
 大学時代によく解からないうちに読み終わった本を読み返している。するとある文章が心に留まった。パスカル著『パンセ』の四百八十番目の断片は以下のように書かれている。

 「手足が幸福になるためには、それらが意志を持つこと、そうしてその意志を身体に適(かな)わしめることが必要である。」

 手足とは私達人間で、身体とは神(真理)をさしている。意訳してみたい。

 「人間が本当に幸福になるためには、まず、自分の意志をきちんと持つこと、次にその意志が真理に適うようにする努力が必要である。」

 子育ての最終目標として読むことが出来る。

 「子供が本当に幸福になるためには、まず、自分の意志をきちんと持つように育てること、次にその意志が真理に適うようにする努力させる必要がある。」


 とっくんとまなちゃんは、前半の、

 「子供が本当に幸福になるためには、まず自分の意志をきちんと持つように育てること。」

 を教えていく段階にある。その具体例が、夏休みに遊び場を子供自身に決めさせることと考えた。
 それにしても、洋の東西の知の巨人が、同じような意味を述べており、驚くばかりである。有り難い気づきだった。
プロフィール

    名前:高木健治郎

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