【随想】 哲学とーちゃんの子育て 十五 まないの鴎(かもめ)とお船

[子育ての内容は少し前のものです。]


 (バシャバシャ、と顔を洗っていると。)

 「おとーちゃん、かもめ~。」

 「ん~ (バシャバシャ) 。」

 「こうくっ付けると、ふねだよ~。」

 「ん~~ 顔洗っているから後でね~。」

 「はーい。」

 (タッタッタ~、と奥の部屋に走っていく。)

 長女まない(四歳十カ月)が、朝食後に話しかけてきました。顔を洗っていたので、後としました。小さい声で、

 「・・・おかーちゃん、かもめー・・・こうすると、ふねー。」

 と聞こえてきました。洗い終わったので、

 「まな~ちゃ~~ん いいよ~みせて~。」

 「・・・はぁーいぃー。」

 と走ってきた。

 二つの切れ端を組み合わせて、鴎(かもめ)と船の形を見せてくれたのです。木の切れ端は、ナイフの形です。底辺が長く、上辺が短い四角形です。説治郎(とくじろう:六歳八カ月)が、小学校に入学したので、居間の長い木製の机に仕切り板を二枚付けました。そこに毎日、ランドセルや教科書を置くことにしました。その仕切り板の切れ端です。やすりをかけてスベスベにしました。会話の数分前に、

 「まなちゃん、この切れ端、チーズみたいじゃない? スベスベだし。」

 「そーだねー食べれそう~。」

 と言ったので渡しました。それから数分で自分で考え、鴎と船の形を見つけました。こういう時は、気をつけなければならない、と考えています。特に、四歳のまないでは、そう考えている所です。
 まないは、髪の毛を伸ばして結わえるようになってきました。これまでは、短い髪でもボサボサでも良かったのです。最近は、髪を二つで結わえるのではなく、後頭部で一か所で結びたい、と主張するようになっています。自らの身だしなみをきちんとしたい、という最初の時期になりました。今までは父(私)に結わえてもらえれば、どんな髪型でも嬉しい、時期でした。そういう時期に入ったまないだからこそ、自らの創意工夫を認めることが大切だと想うのです。

 「人は賢愚(けんぐ)にかかわらず、無欲の時には、みな善に向かい悪を捨てるべきだと承知している。平静な時には、みな禍福(かふく:不幸と幸福のこと)が何によって起こるかを承知している。好きな物を手に入れたいと思い、贅沢品に誘惑されて始めて心変わりし、混乱する。」
 『韓非子』 第六巻 解老 百十七頁

 韓非子の言葉です。老子を解説する章なので「解老」です。この巻には韓非子の示す人の生き方が書いてあります。
 
 韓非子は人の生き方において「人の知識の差によって賢い、愚かはあるけれども、善い悪いは全員に判別できる」としている点、「欲で誘惑されれば、どんな人でも悪くなる」としている点を挙げています。
 子育てに読み替えてみたいです。

 「人はどんな親でも、子供を愛する心で考えれば、善い教育ができるものです。けれども、子供を自分の好きなようにしたい、着飾って人様に子供を褒めてもらいたいという欲に誘惑されると、混乱してしまう。」

 韓非子の言うように、子供がどのような時期にあるのか、は無欲で子供を見ていれば、どんな親でも判ることでしょう。全員が子供時代があったからです。けれども、子供を親の気持ちに従わせたい、子供が褒められることを求めたい、という欲で混乱してしまうのです。私もそう言ってしまったことがありました。

 「まないさんは、二つに縛ったほうが似合うから、二つにしなさい。まなちゃんは二つに縛ったのが鏡で見えないでしょ。」

 言ってしまった後に、ハッとしました。まなちゃんの顔が暗くなってしまったからです。直感しました、私が善くないことを言ってしまったのです。私は、欲で混乱してしまったのです。
 
 混乱というのは、髪を二つに縛ってほしいのは私自身の願望なのに、似合う、という客観的な立場に言い換えたことを指します。子供時代、「大人はずるい」と想っていたのは、こういう言い換えです。

 「まなちゃんに似合うから、そうしなさい。」

 というのは、まないのためではないのです。なぜなら、似合わないで不利益をこうむるのは私ではなくまないだからです。それなのに、私は「子供のためだ」と言ってしまいました。
 今朝は、

 「まなちゃんは、二つの方が似合うと想うけれど、一つに結ぶのでいいんだね?」

 と聞きました。すると、

 「うん、いいよ。一つが好き。」

 と返してくれました。ちょっとした違いかもしれません。けれども、子供の立場からすれば、親の意見を反論しにくい客観的に見えるような意見を押し付けるのか、自分の意見を尊重してくれるのか、の大きな違いと受け止めます。
 今のまないは、自らの創意工夫を認めてもらいたい時期なのですから尚更です。
 ですから、顔を洗い終わってから丁寧に鴎の形を見ました。朝の一分は貴重な時間なのですが、それよりもまないの気持ちが貴重なのです。

 「これが鴎に見えるんだね。いいね~。よく気がついたね~。こうするとお船なんだね。そっか~気がつかなかったよ、おとーちゃんは。まなちゃんは、すごねぇ~。また教えてね~。」

 「うん(笑顔)。」

 「あ、そうだ、二つの切れ端をもう少し離すともっと鴎っぽくない?」

 「え~どうかなぁ~。」

 「じゃあ、夜に鴎の写真を見てみようね。」

 「う~ん!!」

 韓非子は引用箇所のまとめとして以下のように述べています。

 『人の子孫たる者が、この道を体して(大切にして)先祖の御霊屋(みたまや:霊廟やお墓のこと)を守れば、御霊屋は滅びない。これを「祭祀やまず」という。』
 同著 百十八頁

 続いての文章は、四書五経の『大学』と同じく、自らの肉体を正しくし(修め)、家、村、国、天下を治める順番を述べていきます。韓非子と儒家は互いに影響し合っているのです。
 冒頭からの流れに沿って、引用文を子育てに意訳してみます。

 「どんな人でも無欲の心で、子供の成長を見つめるのが大切です。そうすれば善い悪いを伝えられるますし、子供に伝えることば、その時期も判ります。結果として、親の愛と尊重を受け止められた子供はしっかりとした大人になります。すると、親と同じ立場に子供が立ち、先祖と親を敬ってくれるのです。」

 韓非子は続けて「こうして自らと家を正しく修めると、天下国家が治まる」と後述しています。

 韓非子は罰を与える法家として認識され、権力の扱い方を述べている思想家として有名です。本文を読んでみますと、孔子と見まがう程、道徳を守ることを説いています。今回は、韓非子に子育てを教えて頂きました。有り難う御座います。

引用書
○『韓非子』 本田濟(わたる)訳 筑摩書房 千九百八十二年 初版第十刷

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【随想】哲学とーちゃんの子育て 十八 -宰予晝寢(ひるい)ぬ- 



 「ふ~ん。」

 「え? ふ~ん、てどういうこと?」

 「知ってるってこと。」

 「・・・(怒り)・・・」

 朝の通学路での会話です。少々、頭に来てしまいました。
 ことの起こりは、毎朝の会話にあります。「今日の楽しみなことは?」と「今日のがんばることは?」を毎朝聞いています。そののち、私が切り出しました。

 「とっくんは、上手くなるよ。」

 「なんで?」

 「とっくんが尊敬する人(バスケットのコーチ)に教えてもらっているから。」

 「それだと上手くなるの?」

 「そうだよ。」

 と言いました。私の頭の中には、ご逝去された渡部昇一先生の、恩師佐藤順太(じゅんた)先生との想い出話がありました。
 渡部先生がご卒業の時、佐藤先生のご自宅に遊びに行かれ、その蔵書の数と読み込みに感動して、「私も、このように年を取りたい」と感動されたお話です。(このお話は、渡部昇一著『知的生活の方法』などに掲載されています。)

 「とーちゃんの尊敬する人が、素晴らしい生き方をしている、って思ってね。」

 「どんな生き方?」

 「お、いいね、本をたくさん読む生き方だよ。いい?」

 「うん。」

 「それである人のように本をたくさん読みたいな、って思ったんだって。」

 「うん。」

 「でも、一緒にいた三人の人は思わなかったんだって。だから、自分の尊敬する人を見つけて頑張るのが大切ってことだよ。」

 「ふ~ん。」

 「え? ふ~ん、てどういうこと?」

 「知ってるってこと。」

 「・・・(怒り)・・・」

 と冒頭に返ります。

 心の中で少し怒りました。けれども、何かがその怒りを言葉や行動に移すことを、止めてくれたのです。ハッとなりました。

 それはなんだろうか? と。

 朝の通学路は混んでいます。歩道の左側は、前からは一列になって高校生が自転車で十台ぐらい向かってきます。その内側に歩行者が数人います。右側は小学生が、七、八人が思い思いに進んでいます。ここで足を止めて、とっくんを叱りつけると、交通の邪魔になります。
 そうした混雑状況が、止めてくれたのでしょうか。それもあるかもしれません。スタスタと考える私の前に出で歩いていくとっくんの後ろ姿を見つつ、自転車を押していきました。

 「・・・(確かに、この状況では叱れないけれど。)・・・」

 大通りの赤信号で止まると、とっくんは同じ一年生の水色帽子をかぶった友達を見つけ、話し出しました。その後ろ姿についていき校門前で校長先生に「おはようございます。お願いします」とご挨拶をし、振り返って自転車に乗りました。下り坂で、駿府城公園の緑鮮やかな木々の姿が目に入って、頭がカラッポになりました。
 カラッポ、にある言葉が浮かんできました。

 「さいよ、ひるいぬ・・・」

 あ!! そうか!!

 とっくんが、とっくんの理解をすること、そのことに怒りを思ってしまってはいけない、という点を覚(さと)りました。

 「宰予(さいよ)、書寝(ひるい)ぬ。子曰(のたまわ)く、朽木(きゅうぼく)は雕(ほ)るべがらず、糞土(ふんど)の牆(しょう)は杇(ね)るべからず。予に於(おい)てか何ぞ誅(せ)めん。」
 公冶長第五 第十章 『仮名論語』 五十三、四頁

 伊與田覺先生訳

 「宰予がだらしなく昼寝をしていた。
 先師が言われた。
 『腐った木には彫刻することはできない。ぼろ土の垣根にはうわぬりをしても駄目だ。そのようなお前をどうして責めようか、責めても仕方のないことだ。』」

 カラッポの心に浮かんできたのは、昨年の平成二十八年三月のふじの友に書いた孔子の言葉でした。第三十七号の「【論語】 三つの翻訳を比べてみよう ―公冶長第五―」で、伊與田先生訳、五十沢先生訳、吉田先生訳の三つを比べています。私の結論を抜き出してみますと、

 「「朽木(きゅうぼく) 」とされた、宰予(さいよ:孔子の十哲:弁舌) 側の事情から、孔子の心の態度に視点を移します。「孔子は、優れた者からも劣った者からも学んだ」という態度です。とすると、孔子の強い口調で皮肉を述べるのは、孔子の十哲の宰予の成長を期待した言葉になります。つまり、突き放した言葉ではなく、どこまでも実利的な宰予を仁へと導こうとする言葉になります。」
 ふじの友 第三十七号 十二頁

 つまり、私は宰予のダメさ加減に注目するのではなく、ダメな態度ととる人をどのように導くか?という孔子に注目して読みました。言い換えれば、ダメな人ではなく、ダメな人を導く人に注目したのです。

 とっくんとのやり取りと同じです。
 とっくんの態度は、ダメな態度でした。そこで、導き手の求める態度を強制することは出来ます。けれども、それでは私の前だけで、私の求める態度をする人間になるでしょう。そして、私が見ていない時は、一切私の求める態度を投げ出す人間になるのです。
 それは宰予そのものです。孔子は宰予が、孔子がいる前では、立派な態度をしていて、裏では怠けているのを見抜いていたのでしょう。だからこそ、昼寝程度を大きく取り上げたのです。
 孔子の前での宰予はよほど、立派だったのでしょう。孔子の十哲に数えられる程なのですから。しかし、孔子の見ていない処では、怠け者だったと推測します。
 私が教えている学生でも同様です。テスト前だけ勉強を一生懸命して良い成績をとる学生がいます。けれども、本来勉強は、コツコツと地道に続けるものであります。学校の成績をよくするためのものでもなく、学校の成績を良くして、良い就職するためのものでもありません。自分の利益で考えるから、テスト前だけの勉強になるのです。まさに宰予の実利的態度そのものです。昼寝した宰予の態度は、二千年後の日本でも見られる態度なのです。
 その時、教師は、「学生がダメだからしょうがない」と諦めることもできます。けれども、孔子は導き手の責任として受け止めた、と私は解釈しました。

 「学生が、先生の望む態度を採らないのは、先生が悪い。」

 ということですし、

 「子供が、親の望む態度を採らないのは、親が悪い。」

 ということです。どうしても親は子供が親の望む態度を採らないと怒ってしまいます。そしてそれを子供のせいにして、怒りをぶつけてしまうのです。

 「どうして、あなたは言うことを聞かないの!!」
 「いっつも言っているでしょう! ダメ! 言うことを聞きなさい!」

 勤務先の自転車置き場に止める頃には、すっかり、怒りが収まっていました。怒りが反省に換わっていました。

〇「子供が腐った木だから怒るのでなく、腐った木であることを受け止めることから、導きを開始する。」

〇「朝の混雑時にするのは適切でなかった。」

〇「知っている、という本人の言葉を素直に私が受け止めること。」

〇「私の目の前だけの良い子を目指すのではなく、自分で考えて良い方向に進める子を目指すこと。」

 以上です。

 玄関の自動ドアを入りながら、もう一つ思い出しました。この勤務先の学生に授業をする指針を立てていました。その一つが、

 「卒業して五年後、十年後に『ああ、これを言っていたのか!』と気が付く内容を授業する。」

 です。

 二千年前に書かれた『論語』が、私の仕事と子育ての指針を明確にし、導いて下さいます。なんと味わい深いことでしょうか。また、ふじの友に書く機会を与えられたことが幸せに感じました。学恩と富士論語と楽しむ会に、感謝申し上げます。
 今後も考えながら、子育てをしていきたいです。

エッセイ「【歴史】 北条政子の成した偉業 ―日本らしい国家運営へ― 」


 北条政子の第四回目になります。これまで通り藤枝木鶏クラブでミニ講和をした内容を、少し整えて書き残します。
 今回でまとめになりますので、振り返ります。第一回は北条政子の大きな特徴として信仰心を挙げました。また、他の長期政権を打ち立てた権力者の三人の妻と比べました。特に、淀殿との違いを、政治権力の基盤から述べました。第二回は危機に立った時に政子が筋を通して、関東武士を守ったことを述べました。政子の優れた心の態度は、公平さに通じるものであり、宗教政策に大きく表れています。これが平氏との差を決定したと解釈しました。第三回は政子のトラブルは自分が乗り込んで解決する政治手法をいくつかの事件で述べました。
 以上のように、政子を優れた政治家として観て、その根拠を見てきました。政子を政治家ではなく、権力者のか弱き妻として、あるいは女性の自立として観られてきました内容とも比較してきました。最終回は、政子の全人生をかけた偉業を見ていきたいと思います。先にまとめを挙げます。

 まとめ:北条政子は、「皇室が権威を、民の代表が権力を」という日本らしい国家運営の基礎を築いた。
 
北条政子の家族は

 これまで述べてきませんでした、北条政子の家族について焦点を当てます。後に出てきますし、他の資料で家族のみの年表が見当たらなかったからです。

北条政子の親と兄弟について

 父:北条時政、三人の兄弟、長女の政子、姉妹四人の八人兄弟。

北条政子の家族年表

 二十一歳:頼朝と結婚。
 二十二歳:大姫誕生か?
 二十六歳:頼家(よりいえ)誕生。

 三十六歳:頼朝が征夷大将軍 実朝(さねとも)誕生。
 三十八歳:乙姫誕生か?

 四十一歳:大姫(二十歳)死す。木曽(源)義仲の子息と婚約したのを貫き通した。
 四十三歳:頼朝死す(五十三歳)。落馬と言われる。近年は脳出血とされる。
 四十三歳:長男頼家征夷大将軍。
 四十三歳:乙姫死す(十五歳?) 頼朝の死後、急速に悪化した。
 四十七歳:実朝征夷大将軍。
 四十七歳:父時政を追放。後妻におぼれたため。
 四十八歳:頼家修善寺で死す。

 六十三歳:実朝、頼家の遺児で実朝の猶子(ゆうし:義理の子供)公暁(くぎょう)に殺される。
 ――夫、実子、血縁は「竹御所」以外全て死亡――
 「竹御所」は藤原頼経(ふじわらのよりつね)と婚姻。
 六十三歳:征夷大将軍に公家を向かい入れることを決断。藤原頼経の後見となる。
 六十九歳:何度かの失神後、死す。

 政子は当時としては遅く二十一歳で結婚し、三十六歳、三十八歳の高齢出産をしています。父の力を背景にして長男を追放します。その様に、鎌倉政権の初期を安定に導くうえで父を頼りにしながらも、最後にはその父でさえ追い出してしまいます。その決断は、政治家として国家の安寧と家族の安心とを天秤にかけた上での決断でした。それでは家族の安心を引き換えに政子は何を成し遂げたのでしょうか。

北条政子の成した業績

これまで述べたこと
 鎌倉政権の宗教政策を担当する。
 :(伊勢の)神宮の内宮、外宮、園城寺、興福寺などの支援 → 平氏との差別化、優位を保持。

 公家の内紛争い=税金の奪い合いから、関東武士(農園主)の農地確保に。
 :合議制民主主義の確立。 → 長男頼家、次男実朝は公家化したので排斥。

 大都市鎌倉の建設
 :鶴岡八幡宮や伊豆山神社を政治の中心にする。 → 東国一の大都市に発展。

 鎌倉政権に順序と公平さを導入。
 :亀の前事件に見る正室と側室の区分け。 →  政権の安定(豊臣政権は不安定化して崩壊)。

今回述べること

鎌倉政権に公平な政治を導入 ―エコひいきなし―

 :征夷大将軍が頼家から実朝に代わるとき、領地を二分しようと決定しました。これに不満を持った反乱を父時政に知らせて鎮圧しました。頼家が心細くなり、エコひいきをしようとしても止めたのが政子なのです。さらに、その後、父時政は執権でしたが、後妻の愛におぼれて、後妻の子を征夷大将軍にしようとしました。これもエコひいきです。これを止めたのが政子でした。
 実朝が、頼家の息子で実朝の猶子であった公暁に殺された時も、権力を皇室に戻そうとする動きが出ました。承久(じょうきゅう)の乱です。承久の乱のきっかけは、上皇が愛人(側室)の領地の地頭を追い出すことを鎌倉幕府に求めたことがきっかけです。上皇は領地に地頭に置くことを認め勅許(ちょっきょ: 天皇の命令)を出していたのです。ですから、エコひいきをしたのは上皇だったのです。そこで承久の乱で、政子は以下のように言っています(意訳です)。

 「皆、最後の言葉をよく聞きなさい。頼朝公は朝敵を打ち、鎌倉幕府を創り、御家人たちを大切にしてきた。それに対する感謝の念が軽くていいのだろうか。けれども、今、逆臣の讒言(ざんげん:嘘と悪口)によって誤った勅許が下された。今こそ逆臣を討ちとり、恩を返す時である。ただし、上皇につくものは、今すぐ申し出なさい。」

 政子は、上皇の勅許を「誤っている」と言い切っています。エコひいきをしているからです。
 つまり、政子は「公平さ、公正さ」を基準に判断しました。それは、皇室への盲従を超える目を政子に与えたのです。「皇室の命令(勅許)ならばすべて正しい」という前提は、当時の日本を長い戦乱に陥れていたのです。政子の優れた点として、最愛の我が子頼家、実朝も、実の父時政も、上皇さえも政治を司(つかさど)るものとして許しませんでした。
 他方、家族内の母としては、それを求めませんでした。頼家の蹴鞠(けまり)遊びを見学しましたし、「竹御所」以外の血縁者がいなくなってから、恵まれない子供たちを養子にとるなどしていました。

初めての征夷大将軍、執権制度の確立 

 政子が存命中、

〇征夷大将軍が四代
 頼朝→頼家→実朝→頼経 
 
〇執権が三代
 父時政→弟義時(よしとき)→甥泰時(やすとき:義時の子) 

 の交代を経験しました。ほぼ全ての交代で大きな反乱がありました。なぜなら、それまでは公家の原理によって力あるものが権力を得る=正義、という時代だったからでした。そこに公平さを導入して征夷大将軍、執権制度を確立していったのです。特に、政子は自身の大きな軍事力(武家集団)を保持している訳ではありませんでした。ですから、普段から、その人物がどういう長所や欠点があるか、危機の時にどのような行動をするのかを読み切っていたのです。
 例えば、承久の乱後、鎌倉政権は対外上は盤石になりました。しかし、執権が義時から子泰時に移る時、反乱の気配がしました。義時には泰時と母が異なる政村(二十歳)がいたのです。この政村は母と共に北条氏に並ぶほどの三浦氏を巻き込んで政権を握ろうとします。
 そこで政子は、政村とその母伊賀の方の屋敷ではなく、三浦氏の屋敷を訪ねて言います。

 「もしかして泰時を除いて、反乱しようとしているのではないか? お前は政村とは親子同然だから相談に乗っているはずである。反乱を起こさないように忠告しなければならない」

 と。すると三浦義村は「何も知らない」と言い逃れをします。政子は義村の性格を見抜いて以下のようにいます。

 「政村について反乱の陰謀に加わるのか、泰時を助けて無事生き延びるのか、どちらか、今!ここで!はっきりせよ!!」

 三浦義村の「事なかれ主義」で「現状維持を第一とする考え方」を見抜いて、強く出るのです。もし、三浦義村が陰謀の主役であれば、政子は人質になってしまったはずです。ですから、政子は陰謀の主役が伊賀の方と政村であることも見抜いていたのでした。
 
鎌倉政権を全国政権に ―「皇室が権威を、民の代表が権力を」―

 承久の乱に勝ち、約三千か所の領地を没収しました。そして東日本だけでなく近畿、西日本を含めて全国に地頭を置くことになりました。鎌倉政権が全国政権になったのは頼朝の時代ではなく、政子の時代だったのです。そして、地頭は十町ごとに一町が免田として所領を得ることができました。これによって、日本全土の土地に鎌倉政権の行政権(裁判権、警察権、徴税権)が及んだのです。つまり、

 日本の歴史上初めて、土地の実質的な支配者が、皇室から民の代表に移ったのでした。それは政子が公平さを導入して成し遂げた偉業なのです。

北条政子の業績への評価

 北条政子の評価を、『吾妻鑑(あずまかがみ)』は以下のようにしています。

 「前漢の呂后(りょこう)と同じように天下の政治を行った。または、神功(じんこう)皇后の再来であり、我が国の皇基(こうき:皇室が国家を治める基礎)を擁護したのである。」

〇渡辺保先生の評価【よくわからない】:政子の業績は、大江広元(おおえのひろもと)のお陰であり、「(評価に喜んだかわからないが)政権を長続きさせたことを頼朝に報告できることをひたすらに喜んでこの世を去ったことと思う。」

〇田辺泰子先生の評価【否定】:「皇基の擁護」とは、政子の天皇家に対する一般的な尊敬の念をいっているのであると解釈したい。承久の乱の、院(上皇)と対戦したという事実経過からすれば、けっして「皇基の擁護」とはいえないからである。」ただし、天下の政治を行ったのは正しい評価と思う。

〇高木の評価【肯定】:政子の正当な評価だと考えます。以下図にします。

 「皇基の擁護」:「民は大宝である」と「平和を愛する」とが皇室が国家を治める基礎です。
 これは神武天皇の建国の詔(みことのり)と、仁徳天皇の「民のかまど」に沿います。

 承久の乱の原因は、上皇個人のエコひいきにあります。そのエコひいきで民は苦しみ、平和が何十年もの間失われ、戦乱が続いてきました。だからこそ、政子は「誤った」勅許と言い切ったのです。政子は自身の神格化や迷信によって民を苦しめることを嫌った話が残っています。「民は大宝である」と「平和を愛する」ことを政子は神仏に祈り、そして政治の場で実行したのです。政子は事あるごとに、鶴岡八幡宮などで祈祷、祈願を頻繁に行っています。以上の実績が認められて、鎌倉幕府の正式な歴史書『吾妻鑑』で評価されていると考えるに至りました。

 長きに渡りありがとう御座いました。

【随想】哲学とーちゃんの子育て 十六 -自分で決めること-

 「とーちゃん、ぼくね、明日のバスケの練習いきたい。」

 「そっか、じゃあ、サッカーの強いチームの練習は、やめるんだね。」

 「うん、ぼく、バスケしたい。」

 「わかった。じゃあ、明日はバスケに行こう。」

 「よっし!!」

 「じゃあ、とっくん、質問です。」

 「はい、なんですか?」

 「とっくんは、習いごとはバスケにするね?」

 「うん。バスケにする。」

 「わかったよ。自分で決めたんだね?」

 「うん。」

 「じゃあ、とっくんは苦しくなっても頑張るね?」

 「うん、がんばるよ。」

 「わかった。じゃあ、おとーちゃんは全力で応援するよ。」

 平成二十九年四月、説治郎(とくじろう)は小学校に入りました。習いごとを小学校のミニ・バスケットに決めました。

 時代なのでしょうか、保育園の同窓生で二つも三つも習いごとをしている子供もちらほらいました。習いごとをしていない方が少数なほどでした。
 私は五歳から水泳を始め、小学校一年生で東京の総武線に乗り四つ目の駅のプールまで通っていました。その後、サッカーや野球、小学校五年生頃から書道と公文数学と英語、少年野球と四つに増えました。私の時代は二つの習いごとでも多い位でした。ですから、保育園の時代からの習いごと、しかも二つ、三つというのは驚きだったのです。
 また、私は習いごとについて苦い思い出があります。私は自分で習いごと決めた、という記憶がないのです。私自身がはっきりと意見を言う子供ではなかったからでしょう、公文は母親が英語の先生になったので、半強制でした。最初の水泳も父親の友人がしているから、という理由でほぼ強制でした。小学校は団地にチームが出来たから、など親の想いで始めさせられた、と感じていました。ですから、どこか他人事でしたし、活躍しても褒められても、どうにも満足できるものではありませんでした。失敗すれば親の言うことが満たせない、という感覚を持ったのです。

 ですから、説治郎には自分自身で決めて欲しい、習いごとをしないなら、しないでも良い、と考えました。そこで、保育園では習いごとをしないで、自分で決められる小学校に入ってから、としました。また、数々の習いごとを実際に体験させた上で決めさせたい、と考えたのです。

 最初は、小学校校庭で放課後に行っているサッカーチームでした。五十歳でも現役サッカー選手カズなどが出た名門チームです。
 参加してみると、ちょこちょことボールを取るのが上手で周りに褒められていました。自転車に乗せて帰る時に聴いてみました。

 「どうだった? サッカーは面白かった?」

 「面白かったよ。それに褒められたし。」

 「そっか、それは良かったね~。」

 「うん、ぼく、サッカーチームに入りたい!」

 「え?そっか。でも、とっくん、バスケや一輪車、ソフトボールも見学してみよう。ドッヂボールもあるし。」

 「そっか~そだね~でも、サッカー楽しかった。あ、コーチは怖かった。」

 「うんうん。」

 次に参加したのは、ミニ・バスケットでした。
 ミニ・バスは土曜日の朝八時半から三時間の練習でした。しかも、筋力トレーニング、ステップ(足を器用に動かす練習)、ドリブル練習を二時間します。少々機嫌が悪くなりましたが、最後までついていきました。私はこんなに体力があることに驚きました。翌日は、練習三十分前に行き、広い体育館の雑巾がけにも参加しました。朝八時から雑巾がけ、八時半から十二時半まで練習、コーチや当番さん(親)からのコメントを貰う、などで一時終了です。計五時間です。さぞや疲れただろう、と想い自転車で聴いてみました。

 「とっくん、バスケット疲れたでしょう。」

 「うん、でも楽しかったよ。すっごく楽しかったよ。」

 「そっか~五時間、良く頑張ったよ。」

 「うん、でね、ぼく、ミニバスにするよ。ミニバス入る。」

 「?!ん そっか~でもソフトボールの練習も申し込んでるから行ってみよう。」

 「うーん。でも、コーチは優しかったよ。」

 次に参加したのは、ソフトボールでした。体験希望の小学生が十人も来ていました。野球をやっていた上手な三、四年生から五歳位の保育園児までいました。ゆる~い感じで練習をしていました。父兄の方にお話を聞くと、「監督はあまり来ないので、親が一緒に練習に参加できるのがいい」とのことでした。親同士も仲が良く、新しい人にも受け入れてくれる雰囲気でした。

 隣の小学校からの帰り道に聴いてみました。

 「とっくん、ソフトボールはどうだった? 上手に打っていたね。それに走るのも速かったよ。」

 「うん、楽しかった。」

 「何が楽しかった?」

 「ボールを打つのが楽しかった。」

 「そっかそっか~。」

 次に一輪車に申込み、その後テニスも体験しようと考えていました。すると、

 「おとーちゃん、次のバスケの練習はいつ?」

 「えーとね、土、日、月だから、後三日後だよ。」

 「バスケの練習行きたい。」

 「お~そうか、ソフトボールやサッカーよりもバスケ?」

 「うん、バスケ。だって楽しいんだもん。それに『とっくん入って~』って言われたし。コーチも優しいし。」

 「へ~そうか~良かったね『入って~』って言われて。幸せもんだよ。」

 「うん。」

 ここで最初の会話になります。説治郎は自分で決めました。ですから約束通り全力で応援するつもりでいます。五月十三日(土)には、他の小学校のチームと合同練習をしました。明日は吉田町立住吉小学校体育館に九チームが集まります。練習試合を四試合行います。説治郎はルールも判っていないので正式な試合には出られませんが、参加するのを楽しみにしています。

 『仮名論語』には以下のことばがあります。

 「曽子曰く、吾(われ)日に吾が身を三省す。
 人の為(ため)に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを傳(つた)うるか」
 學而第一 第四章 二頁

 伊與田覺先生訳

 「私は毎日、自分をたびたびかえりみて、よくないことははぶいている。人の為を思うて、真心からやったかどうか。友達と交わってうそいつわりはなかったか。また習得していないことを人に教えるようなことはなかったか。」

 子育てに意訳してみます。

 「私は毎日、親らしくあったかと反省をする。子供のためと言って、自分のエゴや欲を押し付けていないかどうか。子供と会話をしていて、都合よく逃げたり嘘をついたりしなかったかどうか。また、調べてもいないことを知ったかぶりをしたり、昔の自慢話をして話を大きくしたりがなかったかどうか。」

 バスケットは私が長く続けてきた習いごとです。ですから、親のエゴで子供を入れてしまったのではないか、と反省をしました。そこで説治郎に入る理由を聞きました。

 ①「入って」と言ってもらったこと。
 ②コーチが優しいこと。
 ③ドリブルが楽しいこと。
 ④シュートが入ると嬉しいこと。

 を聴きだしました。ですからミニ・バスに入ることを承諾しました。一輪車やテニスは本人に聴いて体験に行かないことにしました。
 加えて、私がミニ・バスの良さを挙げてみます。

 ⑤コーチに対する挨拶など礼儀が一番しっかりしていたこと。
 ⑥親同士の雰囲気が良かったこと。
 ⑦練習の理由と目的を唯一はっきりとコーチが語ったこと。

 つまり、説治郎は「バスケットがしたい」のではなく、「この小学校のバスケットのチームでバスケットがしたい」のでしょう。私はサッカー、野球、バスケットで三十を超えるチームに参加してきました。その中で実感しているのは、同じスポーツでも、コーチやチームメイトによって、「ただ苦しいだけ」にもなり、「いるだけで楽しい」にもなる、ということです。
 自分で選び取ったことで、「いるだけで楽しい」に近づいたと思うのです。

 今日はお昼ご飯を作って食べさせた後、兄弟三人で午後一時から午後四時まで昼寝をさせました。寝る前に、背中の後と腰回りをもみほぐしました。すると、ぐっすりと寝たのです。

 「こんなに小さな体で・・・」

 と想いながら。同じ一年生もいましたが、断トツに小さかったのです。それでも全力ダッシュをしていました。

【随想】物憂(ものう)いの弥生(やよい) 


 満ち満ちた桜が散り流れていく三月になりました。

 「は・・・ぁ。」

 と、私はため息にならない程小さいため息をつくようになります。

 花粉症になる前から大きな、小さなため息をつき、部屋から出たくなくなります。年中で最も部屋から出ない時期でした。

 「弥生(やよい)」は旧暦の三月のこと、「草や木の芽が、いよいよ(弥)出てくる」ので名付けられたそうです。桜の蕾(つぼみ)が膨らみ始め、満開となり散っていくこの時期は、卒業の季節でもあります。

物憂いの原因が分かる
 大学院を出てから高校講師になり、学生指導に熱心に取り組みました。自分でも不思議な程、学生から人の温かさを教えてもらい、また、教材づくりを率先し工夫を凝らしました。学生との濃い交流が深まれば深まるほど、その反動が物憂い、となって三月末に出てきたのでした。
 ただ、当初は原因が自覚できませんでした。

 「どうしてか分からないけれど、寂しい。」
 「なんでだろう、何を食べても美味しくない。」
 「気分転換に、古本屋に行っても、喫茶店に行っても楽しくない。」
 「思い切って東京に映画を見に行っても、手ごたえがなかった。内容は悪くないのに。」

 原因が分からずに、

 「どうしてか、この時期気分が落ち込んでしまって・・・部屋から出なくなるんだよね。下手すると一週間丸々でないこともあるんだよ。」

 友人は、

 「それって、学生がいなくなったからじゃない? 普通だよ。」

 と助言してくれました。私は個人と個人の関係ならあるけれど、顔の定まらない卒業生全員に対して物憂うことがあるのかな?と思っていました。けれども、どうもそうらしかったのです。
 部屋に帰り、本年度作ったテスト対策プリントや授業プリント数十枚の束と、本年度の予習用ノート(授業ごとのクラスの進度や質問等が細かく記してある)を、ひっそりと見直してみました。あろうことか、とても驚いたのですが、史上最高に感動した映画「王妃マルゴ」を見た時のような、心の疼(うず)きを感じたのでした。涙さえでそうになるほどでした。
 そのようなことがあるのか、と自分自身に驚きました。その前後から、お涙ちょうだい話を聴いて、お涙がでそうになってきました。

 「おれも年をとった。」
 「自分も人らしくなってきた。」

 と感じました。富士論語を楽しむ会のお一人お一人の皆様の笑顔とお人柄を決して忘れることはありません。ですから、お隠れになられても、思い出を何度も繰り返して思い出します。その点は変わらないと想います。
 対して、特定の顔や性格が思い出せない卒業生全員について想うとは・・・と感じたのです。結婚前で子供が生まれる前でした。
 卒業式のある三月初旬から約一カ月、家から出なくなってしまうようになりました。本や漫画さえ読まなくなり、旅行に行く気もなくなるのでした。何をしても楽しくないのです。バスケットの練習(当時はチームが大会に参加していました)や食料品の買い出しなど必要最低限の外出に止めてしまいました。

物憂いの理由を振り返る
 現在の私が思い返して、物憂いの原因を述べてみます。

①学生指導に集中していたこと

 研究者はゆるやかな義務として研究をしなければなりません。当時はそれを一時保留しても高校生指導に心血を注いでいました。私は本来、自分の存在意義を考えるのが好きです。ですから、自分の存在意義を学生指導にのみ見出すようになっていたのです。卒業とはその存在意義が失われてしまうことを意味していたのです。また、入試に関わっておらず、在校生も来年度担当するのか不透明だったのです。それゆえ、学生が見えなくなる唯一の時期だったのです。この点もあったでしょう。何よりも学生指導に集中し、熱心さのあまり己の存在意義を依存するようになっていたのでした。

②他の存在意義を持たなかったこと
 静岡産業大学に論文を提出しまして、掲載された論文集が先週送られてきました。現在はこのように存在意義を他にも見出せるようになりました。
 また、家族の夫としての役割、父親としての役割が私の存在意義となっています。体調が悪くなければ、毎週末、外出したいかみさんがいます。つい先週も、「哲学とーちゃんの子育て 六 ―親の楽しみと子育て― 」に書いた清水港と伊豆土肥(とい)港フェリーで往復しました。かみさんが「どこかにいきたい」というので幾つか提案をして、最終決定したのです。子供達も外出好きで、「公園行きたい」、「プール行きたい」などと言っていました。引きこもって物憂いになりがちな私には、多少抵抗を感じますが、外出はためになっています。特にこの三月はそうです。といいますのも、昨年の三月は、あまり物憂いではありませんでした。
 本日は平成二十九年の三月九日、国際ことば学院外国語専門学校の卒業式が終わったばかりです。本年度はどうなるでしょうか。
 
③物憂いが本来の私であること
 上記の二つは、気持の晴れやかな私が本来の私であり、三月だけの物憂いは本来の私ではない、という考え方でした。
 けれども、私の本質を見てみれば、物憂いの私が本来に見えるのです。理系を経て哲学や思想へと踏み込む私の根っこにあるのは、目の前の生活や現実や仕事を活き活きと生きたい、という願望ではありません。そうした生活や現実や仕事を遠くから離れて観てみたい、という願望が強いのです。離れて観るので、若い時は皮肉に染まったり、世間から見れば悪いことをしたり、一見自暴自棄と考えられることをしたりしました。そして、大阪時代から十五年以上、ひっそりと詩を書き続けています。流行り廃(すた)りや事件事故は対象にせず、時代を超越することを詩にしています。これも私の本質です。ですから、私は物憂いが本来の私である、と想うのです。
 時々、子育てをしていてもイライラします。それは日常生活を営むからこそ出てくる苛立(いらだ)ちと同時に、私自身の物憂いのが出てきている時、例えば詩を書いている時、本や漫画などで浸っている時だからこその、イライラもあります。

物憂いの弥生の意味
 『論語』を学ぶ意味は、大きくあります。日常生活に立脚して、より善い生活にしたい、より善い社会にするために政治をしたい、という意味が一つです。
 もう一つは先ほどの物憂いの私と、日常生活を営む私の二つを一つ上の段階で結合させる、という意味です。
 若い頃は、皮肉屋で世間を遠くから離れて観ているので、「どんな仕事をしても関係ない」、「仕事は一所懸命して恩返しをしたい」という二つの面がありました。そして、気分によってどちらか一方の面でしか考えられなかったのです。
 それが二つが同時にあるという想える手がかりを得ました。哲学でいえば、この思考方法を弁証法(べんしょうほう)と言います。有名なのはヘーゲルです。
 普段の生活が嘘、という訳ではなく、一つ上の段階で少しだけ結合できるようになり、

 「仕事は所詮人の作りだしたものに過ぎないし、しなくても善い。同時に、仕事によって私の生活は支えられ多くの人への恩返しができる手段でもある。」

 と想っています。
 物憂いの弥生は、学生指導で出てきた私の新しい一面かと思っていました。確かに全員を対象にするという新しい面がありました。けれども、本来の私に立ち返る行為でもありました。
 まとめてみますと、新しい対象(要素)を取り込み、自分を一つ上の段階へ進もうとしているのが、物憂いの弥生でした。その物憂いが軽くなってきた、ということは・・・次の新しい対象を取り込む時期に来ているのかもしれません。
 卒業式の翌々日、少し時間ができたので、じんわりと、考えをまとめてみました。
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    名前:高木健治郎

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