【随想】哲学とーちゃんの子育て 十六 -自分で決めること-

 「とーちゃん、ぼくね、明日のバスケの練習いきたい。」

 「そっか、じゃあ、サッカーの強いチームの練習は、やめるんだね。」

 「うん、ぼく、バスケしたい。」

 「わかった。じゃあ、明日はバスケに行こう。」

 「よっし!!」

 「じゃあ、とっくん、質問です。」

 「はい、なんですか?」

 「とっくんは、習いごとはバスケにするね?」

 「うん。バスケにする。」

 「わかったよ。自分で決めたんだね?」

 「うん。」

 「じゃあ、とっくんは苦しくなっても頑張るね?」

 「うん、がんばるよ。」

 「わかった。じゃあ、おとーちゃんは全力で応援するよ。」

 平成二十九年四月、説治郎(とくじろう)は小学校に入りました。習いごとを小学校のミニ・バスケットに決めました。

 時代なのでしょうか、保育園の同窓生で二つも三つも習いごとをしている子供もちらほらいました。習いごとをしていない方が少数なほどでした。
 私は五歳から水泳を始め、小学校一年生で東京の総武線に乗り四つ目の駅のプールまで通っていました。その後、サッカーや野球、小学校五年生頃から書道と公文数学と英語、少年野球と四つに増えました。私の時代は二つの習いごとでも多い位でした。ですから、保育園の時代からの習いごと、しかも二つ、三つというのは驚きだったのです。
 また、私は習いごとについて苦い思い出があります。私は自分で習いごと決めた、という記憶がないのです。私自身がはっきりと意見を言う子供ではなかったからでしょう、公文は母親が英語の先生になったので、半強制でした。最初の水泳も父親の友人がしているから、という理由でほぼ強制でした。小学校は団地にチームが出来たから、など親の想いで始めさせられた、と感じていました。ですから、どこか他人事でしたし、活躍しても褒められても、どうにも満足できるものではありませんでした。失敗すれば親の言うことが満たせない、という感覚を持ったのです。

 ですから、説治郎には自分自身で決めて欲しい、習いごとをしないなら、しないでも良い、と考えました。そこで、保育園では習いごとをしないで、自分で決められる小学校に入ってから、としました。また、数々の習いごとを実際に体験させた上で決めさせたい、と考えたのです。

 最初は、小学校校庭で放課後に行っているサッカーチームでした。五十歳でも現役サッカー選手カズなどが出た名門チームです。
 参加してみると、ちょこちょことボールを取るのが上手で周りに褒められていました。自転車に乗せて帰る時に聴いてみました。

 「どうだった? サッカーは面白かった?」

 「面白かったよ。それに褒められたし。」

 「そっか、それは良かったね~。」

 「うん、ぼく、サッカーチームに入りたい!」

 「え?そっか。でも、とっくん、バスケや一輪車、ソフトボールも見学してみよう。ドッヂボールもあるし。」

 「そっか~そだね~でも、サッカー楽しかった。あ、コーチは怖かった。」

 「うんうん。」

 次に参加したのは、ミニ・バスケットでした。
 ミニ・バスは土曜日の朝八時半から三時間の練習でした。しかも、筋力トレーニング、ステップ(足を器用に動かす練習)、ドリブル練習を二時間します。少々機嫌が悪くなりましたが、最後までついていきました。私はこんなに体力があることに驚きました。翌日は、練習三十分前に行き、広い体育館の雑巾がけにも参加しました。朝八時から雑巾がけ、八時半から十二時半まで練習、コーチや当番さん(親)からのコメントを貰う、などで一時終了です。計五時間です。さぞや疲れただろう、と想い自転車で聴いてみました。

 「とっくん、バスケット疲れたでしょう。」

 「うん、でも楽しかったよ。すっごく楽しかったよ。」

 「そっか~五時間、良く頑張ったよ。」

 「うん、でね、ぼく、ミニバスにするよ。ミニバス入る。」

 「?!ん そっか~でもソフトボールの練習も申し込んでるから行ってみよう。」

 「うーん。でも、コーチは優しかったよ。」

 次に参加したのは、ソフトボールでした。体験希望の小学生が十人も来ていました。野球をやっていた上手な三、四年生から五歳位の保育園児までいました。ゆる~い感じで練習をしていました。父兄の方にお話を聞くと、「監督はあまり来ないので、親が一緒に練習に参加できるのがいい」とのことでした。親同士も仲が良く、新しい人にも受け入れてくれる雰囲気でした。

 隣の小学校からの帰り道に聴いてみました。

 「とっくん、ソフトボールはどうだった? 上手に打っていたね。それに走るのも速かったよ。」

 「うん、楽しかった。」

 「何が楽しかった?」

 「ボールを打つのが楽しかった。」

 「そっかそっか~。」

 次に一輪車に申込み、その後テニスも体験しようと考えていました。すると、

 「おとーちゃん、次のバスケの練習はいつ?」

 「えーとね、土、日、月だから、後三日後だよ。」

 「バスケの練習行きたい。」

 「お~そうか、ソフトボールやサッカーよりもバスケ?」

 「うん、バスケ。だって楽しいんだもん。それに『とっくん入って~』って言われたし。コーチも優しいし。」

 「へ~そうか~良かったね『入って~』って言われて。幸せもんだよ。」

 「うん。」

 ここで最初の会話になります。説治郎は自分で決めました。ですから約束通り全力で応援するつもりでいます。五月十三日(土)には、他の小学校のチームと合同練習をしました。明日は吉田町立住吉小学校体育館に九チームが集まります。練習試合を四試合行います。説治郎はルールも判っていないので正式な試合には出られませんが、参加するのを楽しみにしています。

 『仮名論語』には以下のことばがあります。

 「曽子曰く、吾(われ)日に吾が身を三省す。
 人の為(ため)に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを傳(つた)うるか」
 學而第一 第四章 二頁

 伊與田覺先生訳

 「私は毎日、自分をたびたびかえりみて、よくないことははぶいている。人の為を思うて、真心からやったかどうか。友達と交わってうそいつわりはなかったか。また習得していないことを人に教えるようなことはなかったか。」

 子育てに意訳してみます。

 「私は毎日、親らしくあったかと反省をする。子供のためと言って、自分のエゴや欲を押し付けていないかどうか。子供と会話をしていて、都合よく逃げたり嘘をついたりしなかったかどうか。また、調べてもいないことを知ったかぶりをしたり、昔の自慢話をして話を大きくしたりがなかったかどうか。」

 バスケットは私が長く続けてきた習いごとです。ですから、親のエゴで子供を入れてしまったのではないか、と反省をしました。そこで説治郎に入る理由を聞きました。

 ①「入って」と言ってもらったこと。
 ②コーチが優しいこと。
 ③ドリブルが楽しいこと。
 ④シュートが入ると嬉しいこと。

 を聴きだしました。ですからミニ・バスに入ることを承諾しました。一輪車やテニスは本人に聴いて体験に行かないことにしました。
 加えて、私がミニ・バスの良さを挙げてみます。

 ⑤コーチに対する挨拶など礼儀が一番しっかりしていたこと。
 ⑥親同士の雰囲気が良かったこと。
 ⑦練習の理由と目的を唯一はっきりとコーチが語ったこと。

 つまり、説治郎は「バスケットがしたい」のではなく、「この小学校のバスケットのチームでバスケットがしたい」のでしょう。私はサッカー、野球、バスケットで三十を超えるチームに参加してきました。その中で実感しているのは、同じスポーツでも、コーチやチームメイトによって、「ただ苦しいだけ」にもなり、「いるだけで楽しい」にもなる、ということです。
 自分で選び取ったことで、「いるだけで楽しい」に近づいたと思うのです。

 今日はお昼ご飯を作って食べさせた後、兄弟三人で午後一時から午後四時まで昼寝をさせました。寝る前に、背中の後と腰回りをもみほぐしました。すると、ぐっすりと寝たのです。

 「こんなに小さな体で・・・」

 と想いながら。同じ一年生もいましたが、断トツに小さかったのです。それでも全力ダッシュをしていました。
スポンサーサイト

【随想】物憂(ものう)いの弥生(やよい) 


 満ち満ちた桜が散り流れていく三月になりました。

 「は・・・ぁ。」

 と、私はため息にならない程小さいため息をつくようになります。

 花粉症になる前から大きな、小さなため息をつき、部屋から出たくなくなります。年中で最も部屋から出ない時期でした。

 「弥生(やよい)」は旧暦の三月のこと、「草や木の芽が、いよいよ(弥)出てくる」ので名付けられたそうです。桜の蕾(つぼみ)が膨らみ始め、満開となり散っていくこの時期は、卒業の季節でもあります。

物憂いの原因が分かる
 大学院を出てから高校講師になり、学生指導に熱心に取り組みました。自分でも不思議な程、学生から人の温かさを教えてもらい、また、教材づくりを率先し工夫を凝らしました。学生との濃い交流が深まれば深まるほど、その反動が物憂い、となって三月末に出てきたのでした。
 ただ、当初は原因が自覚できませんでした。

 「どうしてか分からないけれど、寂しい。」
 「なんでだろう、何を食べても美味しくない。」
 「気分転換に、古本屋に行っても、喫茶店に行っても楽しくない。」
 「思い切って東京に映画を見に行っても、手ごたえがなかった。内容は悪くないのに。」

 原因が分からずに、

 「どうしてか、この時期気分が落ち込んでしまって・・・部屋から出なくなるんだよね。下手すると一週間丸々でないこともあるんだよ。」

 友人は、

 「それって、学生がいなくなったからじゃない? 普通だよ。」

 と助言してくれました。私は個人と個人の関係ならあるけれど、顔の定まらない卒業生全員に対して物憂うことがあるのかな?と思っていました。けれども、どうもそうらしかったのです。
 部屋に帰り、本年度作ったテスト対策プリントや授業プリント数十枚の束と、本年度の予習用ノート(授業ごとのクラスの進度や質問等が細かく記してある)を、ひっそりと見直してみました。あろうことか、とても驚いたのですが、史上最高に感動した映画「王妃マルゴ」を見た時のような、心の疼(うず)きを感じたのでした。涙さえでそうになるほどでした。
 そのようなことがあるのか、と自分自身に驚きました。その前後から、お涙ちょうだい話を聴いて、お涙がでそうになってきました。

 「おれも年をとった。」
 「自分も人らしくなってきた。」

 と感じました。富士論語を楽しむ会のお一人お一人の皆様の笑顔とお人柄を決して忘れることはありません。ですから、お隠れになられても、思い出を何度も繰り返して思い出します。その点は変わらないと想います。
 対して、特定の顔や性格が思い出せない卒業生全員について想うとは・・・と感じたのです。結婚前で子供が生まれる前でした。
 卒業式のある三月初旬から約一カ月、家から出なくなってしまうようになりました。本や漫画さえ読まなくなり、旅行に行く気もなくなるのでした。何をしても楽しくないのです。バスケットの練習(当時はチームが大会に参加していました)や食料品の買い出しなど必要最低限の外出に止めてしまいました。

物憂いの理由を振り返る
 現在の私が思い返して、物憂いの原因を述べてみます。

①学生指導に集中していたこと

 研究者はゆるやかな義務として研究をしなければなりません。当時はそれを一時保留しても高校生指導に心血を注いでいました。私は本来、自分の存在意義を考えるのが好きです。ですから、自分の存在意義を学生指導にのみ見出すようになっていたのです。卒業とはその存在意義が失われてしまうことを意味していたのです。また、入試に関わっておらず、在校生も来年度担当するのか不透明だったのです。それゆえ、学生が見えなくなる唯一の時期だったのです。この点もあったでしょう。何よりも学生指導に集中し、熱心さのあまり己の存在意義を依存するようになっていたのでした。

②他の存在意義を持たなかったこと
 静岡産業大学に論文を提出しまして、掲載された論文集が先週送られてきました。現在はこのように存在意義を他にも見出せるようになりました。
 また、家族の夫としての役割、父親としての役割が私の存在意義となっています。体調が悪くなければ、毎週末、外出したいかみさんがいます。つい先週も、「哲学とーちゃんの子育て 六 ―親の楽しみと子育て― 」に書いた清水港と伊豆土肥(とい)港フェリーで往復しました。かみさんが「どこかにいきたい」というので幾つか提案をして、最終決定したのです。子供達も外出好きで、「公園行きたい」、「プール行きたい」などと言っていました。引きこもって物憂いになりがちな私には、多少抵抗を感じますが、外出はためになっています。特にこの三月はそうです。といいますのも、昨年の三月は、あまり物憂いではありませんでした。
 本日は平成二十九年の三月九日、国際ことば学院外国語専門学校の卒業式が終わったばかりです。本年度はどうなるでしょうか。
 
③物憂いが本来の私であること
 上記の二つは、気持の晴れやかな私が本来の私であり、三月だけの物憂いは本来の私ではない、という考え方でした。
 けれども、私の本質を見てみれば、物憂いの私が本来に見えるのです。理系を経て哲学や思想へと踏み込む私の根っこにあるのは、目の前の生活や現実や仕事を活き活きと生きたい、という願望ではありません。そうした生活や現実や仕事を遠くから離れて観てみたい、という願望が強いのです。離れて観るので、若い時は皮肉に染まったり、世間から見れば悪いことをしたり、一見自暴自棄と考えられることをしたりしました。そして、大阪時代から十五年以上、ひっそりと詩を書き続けています。流行り廃(すた)りや事件事故は対象にせず、時代を超越することを詩にしています。これも私の本質です。ですから、私は物憂いが本来の私である、と想うのです。
 時々、子育てをしていてもイライラします。それは日常生活を営むからこそ出てくる苛立(いらだ)ちと同時に、私自身の物憂いのが出てきている時、例えば詩を書いている時、本や漫画などで浸っている時だからこその、イライラもあります。

物憂いの弥生の意味
 『論語』を学ぶ意味は、大きくあります。日常生活に立脚して、より善い生活にしたい、より善い社会にするために政治をしたい、という意味が一つです。
 もう一つは先ほどの物憂いの私と、日常生活を営む私の二つを一つ上の段階で結合させる、という意味です。
 若い頃は、皮肉屋で世間を遠くから離れて観ているので、「どんな仕事をしても関係ない」、「仕事は一所懸命して恩返しをしたい」という二つの面がありました。そして、気分によってどちらか一方の面でしか考えられなかったのです。
 それが二つが同時にあるという想える手がかりを得ました。哲学でいえば、この思考方法を弁証法(べんしょうほう)と言います。有名なのはヘーゲルです。
 普段の生活が嘘、という訳ではなく、一つ上の段階で少しだけ結合できるようになり、

 「仕事は所詮人の作りだしたものに過ぎないし、しなくても善い。同時に、仕事によって私の生活は支えられ多くの人への恩返しができる手段でもある。」

 と想っています。
 物憂いの弥生は、学生指導で出てきた私の新しい一面かと思っていました。確かに全員を対象にするという新しい面がありました。けれども、本来の私に立ち返る行為でもありました。
 まとめてみますと、新しい対象(要素)を取り込み、自分を一つ上の段階へ進もうとしているのが、物憂いの弥生でした。その物憂いが軽くなってきた、ということは・・・次の新しい対象を取り込む時期に来ているのかもしれません。
 卒業式の翌々日、少し時間ができたので、じんわりと、考えをまとめてみました。

【随想】哲学とーちゃんの子育て 十四 ―お菓子と韓非子―


 三月十日(金曜日) 朝八時、自動車の中での会話。

 「とっくん、シートベルトしていない。」

 「ごめんなさい…(小さい声で)。」

 下唇をプーッと出して、ふてくされた。
 少し言わなければならない、と直感した。

 「とっくん、今日は普段より遅い時間だよね。」

 「…」

 「どうして遅れたかわかる?」

 「…ん…」

 「今日はとっくんとまなちゃんの最後の遠足の日でしょ。だから、おかーちゃんは一所懸命お弁当を作ってくれた。だから遅れたんだよ。」

 「…うん…」

 「それなのに、とっくんがいっつもやっているおとちゃんのシートベルトをしないで、とっくんも自分のシートベルトをしなかったら、遅れちゃうよ。」

 「うん。」

 「おかーちゃんが頑張ってくれたんだから、きちんと、とっくんも頑張ろう。」

 「うん、はい。」

 「おとーちゃんも、今日はお仕事あるんだよ。でも、遅いからお手伝いで自動車に乗っているでしょう。」

 「そうだね。お仕事大丈夫?」

 「大丈夫だよ、ありがとう。」

 「そっかよかった。」

 「とっくん、次はきちんとお手伝いできるようになろうね。朝、神社に行く換わりに、おかーちゃんのお手伝いできて偉かったよ。頑張ることを増やしていこうね。」

 「わかった。」

 今日は保育園最後の遠足です。三キロ弱を四歳から六歳が合同で歩いて、森下公園に行きます。森下公園は静岡駅南口から徒歩七分の巨大な遊具のある公園です。
 一週間前からワクワクしていました。説治郎(とくじろう:六歳七か月)とまない(:四歳九か月)が手をつなぐ二人組にしてもらいました。一昨日は、「お菓子二百円まで」で、問屋さんなら安くて沢山買いに行きました。
 とっくんは、十円のお菓子(二十円のも十円で売っていることもある)を大量に買い、金貨のようなチョコレートを幾つか買っていました。全体がバラバラでした。
 まないは、最初二十円のプリキュアのガムを十個買おうとしました。三個入っているので合計三十個ガムを買うことになります。「そんなに食べれないよ」というと、「そっか」と素直に聴いて、いちごのジュース(ビニール入り)や、ちっちゃな苺味風のソフトクリームコーンなどを買っていました。全体が桃色でした。
 昨日も寝る時に「明日は遠足楽しみだね~」と言って寝ていました。
 今朝は「おとーちゃんん、だっこ」と言って抱き着いてきて抱っこをして階段を下りていた時、

 「まなちゃん、今日は何の日だっけ?」

 とまだ寝息が聴こえそうな力が抜けていた体に、キュッと力が入った後、

 「遠足だー!!」

 と元気な声を出すほどでした。
 心底、楽しみにしていたのです。

 朝御飯の時、とっくんに聴いてみました。

 「とっくん、お菓子は先生とお友達とどっちにあげるの?今日は。」

 何故聞くんだろう、と不思議そうな表情をして、

 「お友達・・・○○くんと、○○くんに…。」

 「とっくん、先生だよ。」

 「…?」

 「先生にあげるんだよ。なぜかわかる?」

 「…わかんない。」

 「今日の遠足は最後の遠足でしょ。だから、Y先生とM先生と過ごす最後の遠足だよね。だからお礼をきちんとして下さいね。普段の遠足はお友達でいいんだよ。でも今日は最後だから、『ありがとう御座いました』ってね、お礼をしてくださいね。」

 表情が、パッパァーと明るくなって、

 「うん、そうだね、とーちゃん。」

 と答えました。

 子供は判断力があります。けれども、経験や知識がないので客観視が難しいのです。春秋戦国時代(支那)の諸子百家の一人、韓非子は以下のように述べています。

 「人主(じんしゅ:君主のこと)は、人々をして公(おおや)けのことに力を尽くさせることを楽しみとし、臣(しん、おみ)が私欲を以(もっ)て君の権威(刑と賞)を奪うことを苦しみとする。」
 『韓非子』 第八巻 用人 六章

 場合に合うように意訳します。

 「保育園の先生は、園児たちが公平さや健全さを身につける姿を楽しみにしています。園児たちが自分やその限られた友達だけで我儘になること、そして園児全員がルールを守らず、喧嘩ばかりして先生の言うことを聴かなくなるのを嫌だと思うのです。」

 韓非子は韓という国の王子の一人でしたが、生まれつき吃音障碍(きつおんしょうがい:口がきけないこと)で文章を書くのが上手でした。生まれ故郷の国が自分やその限られた仲間だけで利益を独占して、弱くなっていくことを嘆(なげ)いて本を書いたのです。

 韓非子は公平さのために、

①自分ではなく広い視点から見なさい。
②ルールを守ることが大切です。

 と言っています。幼児の時には①と②がなく、お菓子は自分や自分と仲の良い友達だけで食べようとします。もちろん、それはそれで大切です。けれども、今回は最後の遠足です。①の広い視点から見れば、「先生のお礼を申し上げる最後の機会」となるのです。

 同じ章で続けて以下のように書いています。

 「…つねづね人を侮(あなど)ってはひそかに痛快とし、しばしば盗人に追い銭のようなことをする。これはおのが手を切り落として玉(ぎょく:宝石のこと)を代わりに継ぐようなものである。…」

 場合に合うように意訳します。

 「毎日、保育園の先生の悪口を、裏で言っている。そうやって先生を軽蔑していると、お菓子を買っても保育園の先生に差し上げなさい、と言わなくなってしまう。
 子供が『○○くんにお菓子をあげるんだ』というと『そうか、ならもっとお菓子を買ってあげよう』と買ってあげてしまう。これは子供が自分の利益だけを考えても良いんだよ、と教育していることになる。そうすると、親子関係は体と手が切り落とされるように、血が同じでもバラバラになってしまう。何故なら、親子関係が宝石のように金銭の授受でしか成立していないからである(公平さがないからである)。」

 韓非子は二千二百年前の人ですが、見事に子育ての本質を描き出しています。結局韓非子の韓の国は、始皇帝の秦に滅ぼされてしまいます。韓非子の思想は法家としてその後、世界に絶大な影響力を与えました。

 私自身、息子が「お友達とお菓子を分けるんだ」と言った時に、それを聞き落さなくて良かった、と胸をなでおろしています。他方、百回の躾の機会があれば、二、三回言えれば伝わる内容だとも思います。

 朝食で会話をして、バタバタと朝の支度をして自動車に乗り込み、冒頭の会話がありました。会話の後にもう一度、聞きました。

 「とっくん、お菓子はどうするんだっけ?」

 「まず、Y先生とM先生にあげるよ、二個ずつね。」

 「そっか~えらいなぁ。でも一個でいいんじゃない?」

 「ううん、二個ずつにするよ。」

 まないやおとはにも、何時か伝えたいと思います。そしてその内容を私自身の道徳にしたいと思います。


引用書
 本田濟(わたる)著 『韓非子』 筑摩書房 千九百八十二年五月三十日 初版第十版

エッセイ「【歴史】北条政子が大都市を築く ―宗教政策を担当―」

「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した原稿です。
 読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。以下本文です。


 北条政子の三回目になります。初回は北条政子の優れた政治力、前回は北条政子の秀でた心性を書いて来ました。今回は、当時の史実に基づいて、実際に担った政治役割を挙げていきます。それは、これまでの研究者が目を向けていない宗教政策です。当時の史実『吾妻鏡(あずまかがみ)』を下調べしていて、「これはワクワクする!!」と感じました。

要約

 まず、冒頭に要約をつけます。

(1)政子が宗教政策を担当

 北条政子は初登場から神社(お寺)を人並み以上に敬う。
  ↓
 源頼朝と結婚後も神社を敬い、政策も担当する。
  ↓
 源家は神社を敬うので御家人たちが信用して鎌倉に移り住んだ。
  ↓
 鎌倉は東国一の都市に成長し、鎌倉政権の基盤となった。

(2)政子のトラブル解決方法

 北条政子はトラブルの時、自分で乗り込んで行って丁寧に話し合う。(初登場から:高木発見?)
  ↓
 話し合いの基準は宗教に基づく義理である。
  ↓
 その基準に反した時、長男頼家さえ権力から外す。
  ↓
 ただし、肉親の情は大切にし、母親として頼家を可愛がった。[頼家の遊び(蹴鞠:けまり)は参観している。]

北条政子とは

 最初の方もいらっしゃるかと思いますので、政子の経歴を挙げます。初回、前回と同じ内容です。

 北条政子(ほうじょうまさこ):保元(ほうげん)二年誕生、嘉禄(かろく)元年没す。六十九歳歿(ぼつ)、西暦千百五十七年~千二百二十五年。

 ○現在の静岡県出身(伊豆の国市韮山駅近辺の「北条」という地名の場所)で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。

 ○鎌倉幕府を安定した政治体制に導いた。他方、平氏は、兵庫県神戸市に政治体制(福原京)を開こうとしたが計画倒れとなる。

 ○「政子」は西暦千二百十八年に命名されたものであり、それ以前の名前は不明。

 ○通称は、鎌倉幕府樹立後「御台所(みだいどころ)」、夫の死後に尼になり「尼御台(あまみだい)」、藤原氏から将軍を迎えた実権を握ったので「尼将軍」と変わる。

 ○頼朝との恋愛話や嫉妬深い悪女、高い政治手腕など数々の評価がある。


北条政子は主婦であったのか? 頼朝の死以前

 今回の内容が始まります。まず、これまでの歴史研究を挙げます。「史実に基づく正確な伝記シリーズ」として有名な吉川弘文館の人物叢書(そうしょ)シリーズがあります。北条政子を担当される渡辺保先生は、頼朝の死前後の北条政子の政治役割について以下のように書かれています。

 「これ(頼朝の死)で頼朝の妻としての政子の生活は終わり、あとに十八歳の頼家(よりいえ)と十五歳の乙姫(おとひめ)と八歳の実朝(さねとも)とをかかえた政子の、母としての生活が始まるのである。」
 『北条政子』 渡辺保著 吉川弘文館 八十五頁

 渡辺先生は、北条政子に政治力という視点を当てておりません。頼朝を家庭で補佐する立場(妻)として政子を描き出し、頼朝の死によって、仕方がなく母の役割を担ったと解釈しています。
 同じく、同著百七十九から百八十頁の「あとがき」には以下のように書かれています。

 「これらの事情(政子が悪妻の評価を受ける事情)を考えながら、先入観を去って史実に当たると、やはり政子は普通の女性からあまり離れてはいない。時勢の流れに押されて波瀾ある生涯を送り、それも決して幸運とばかりは言えない一生だった。…(中略)…どれも不自然ではなく非人間的でもなく、その場にあたって当を得た態度だったことは、本文に書いた通りである。ただありきたりの凡愚な女性にはできなかったであろうことを、政子はなし得た、という結論になると思う。」

 北条政子は妻として幸せな生活に満足していたけれども、頼朝の死によって仕方がなく政治の表舞台に立たされ、最低限の政治役割を果たした女性である、と評価されています。積極的に政子に踏み込んで政治力から光を当てようという姿勢ではありません。
 確かに『吾妻鏡(あずまかがみ)』を読みますと、政子は初期に殆ど出てきません。例えば『現代語訳 吾妻鏡』 五味文彦・本郷和人[編]では、九十五頁の頼家懐妊までは四か所ほどです。一見すると妻として家庭内で満足していた、と読めます。

確実な歴史資料『吾妻鏡』に登場する政子
 初回に後世になって北条政子の悪妻の評価などが派生したことを渡辺保先生などが指摘されています。そこで政子と同時代の人物が書き残した確実な歴史資料『吾妻鏡』に登場する政子を引用します。まずその四か所を挙げて考えてみたいと思います。
 高木は北条政子が初期から政治力を持って鎌倉政権を支えていた、と観て解釈していきます。日付などから新しい発見がありました。

北条政子登場の四つの場面
 最初は場面説明、①~④が本文と西暦の日付、考察がつきます。

 一番目
 頼朝が毎日の勤行(ごんぎょう:毎日の読経や礼拝)が戦場に向かうので出来なくなってしまうと心配していた。

 ①「そうした時に伊豆山に法音と号する尼がいた。これは御台所(政子)の読経の師匠であり、一生不犯(ふぼん)の者だという。そこで毎日(頼朝が)行っていることをその尼に命じてはどうかと(政子が)申されたので、すぐに目録を遣わしたところ、尼は了承したという。」 
 千百八十年八月十八日

 考察:政子も頼朝も読経を行う習慣を持ち合わせていたこと、また、政子がより一生不犯の師を仰ぎ本心からであり、頼朝より熱心なことが判ります。

 二番目
 頼朝の御家人たちが行き来して狼藉(ろうぜき)が見られるので、走湯山(そうとうさん:現、走湯山権現。同、伊豆山神社 静岡県熱海市)の衆徒が訴えて来たので、世情が安定したら土地の寄進を約束した。

 ②「これによって衆徒はみなたちまちに怒りをおさめた。晩になって御台所(政子)が(走湯山の)文陽房覚淵(もんようぼうかくえん)の坊にお渡りになった。(藤原)邦通と(佐伯:さえき さいき)昌長らが御供をした。世情が落ち着くまで密かにここに寄宿されるという。」
 千百八十年八月十九日(翌日)

 考察:地元の大切な神社と頼朝の新しく来た御家人たちのトラブルは避けられないものです。そのトラブルは治め方が政治です。頼朝ではなく、政子自身が乗り込むことでそのトラブルを見事に納めています。後年、頼朝の死後、十八歳の若い頼家と大人(頼朝の重臣達)の御家人とのトラブルも同じく、政子が相手側に泊まり込むことで治めています。リーダー同士の腹を割った話し合いは、京都に直接乗り込むなど政子が生涯を通して続けていきます。その最初がさりげなく書いてあります。つまり、政子は己の政治の形を若い時代から身につけていた、という視点で捉えられるのです。

 三番目(状況説明は省きます。)

 ③「御台所(政子)が伊豆山から秋戸郷(場所不明 伊豆の国内)へとお移りになった。」
 千百八十年九月二日(約二週間後)

 考察:約二週間後に先ほどの紛争の場所から移動しています。つまり、事態収拾に約二週間をかけています。日付に注目することで政子がじっくりと腰を据えて解決したことが浮かび上がってきます。例えば、二、三日では人の気持ちが落ち着きません。後々、不満が噴出(ふきだ)して紛争が蒸し返されることは、よく見聞きします。逆に、二、三ヶ月も寺に滞在していては紛争当事者の片方とだけなれ合っているように取られてしまいます。この二週間と言う長さは政治家として見事だと思いますし、現代でも同様だと想います。政治力を見出そうとして浮かび上がったのは、この二週間という時間の掛け方でした。では、紛争は治まったのでしょうか。

 四番目

 ④「卯の刻(約早朝五時から七時)に御台所(政子)が鎌倉に入られ、(大庭:おおば)景義がお迎え申した。昨夜伊豆国阿岐戸(あきど:秋度)郷からすでに到着されていたものの、日柄が悪かったため、稲瀬川辺の民家にお泊りになっていたのだという。
 また、走湯山の住僧である専光坊良暹(せんこうぼうりょうせん)が、(頼朝の)兼ねてからの御約束により、鎌倉に到着した。良暹と武衛(ぶえい:源頼朝)は長年にわたり祈禱の師と檀那(だんな)の間柄である。」 
 千百八十年十月十一日(約一か月後)

 考察:本文に続けて、同日、走湯山の僧の到着が記されています。つまり、北条政子と一緒に鎌倉まで旅をしてきたのが推察されます。紛争が十分収拾して、伊豆山と良好な関係を築いたのが読み取れます。
 また、現代語訳の本文には「(頼朝の)兼ねてよりの御約束により、」とありますが、その根回しをしたのは政子でしょう。以上の二点から政子は事態の収拾だけでなく、地元の信仰篤い神社とも人間関係を築いたと判別できます。その期間僅かに一か月。けれども、「機を見るに敏」の諺通り、仲良くなって信頼を得て次の段階に進むのに一か月です。絶妙の時間というべきです。

 以上が、政子と同時代の人物が書き残した確実な歴史資料『吾妻鏡』に登場する政子です。

補足:『吾妻鏡』を読み面白かった点
 また、『吾妻鏡』に目を通しますと、以下のことが判って面白かったです。

 A) 源義経(よしつね)が幼い頃からわがままで筋を通さない人であったこと。 四十九頁
 つまり、頼朝が政権を握りたくて無実の義経を排斥したのではなく、義経の方にも筋を通さないという責任が浮かび上がってきました。

 B) 源頼朝が公平な裁定を行った例として、浅羽庄司宗信が挙げられていること。八十六頁
 静岡県の元浅羽町の由来になった浅羽さんのご先祖様でしょうか。

北条政子と宗教政策

 『吾妻鏡』に登場する北条政子は、全て宗教に関することで記録が残っていました。この線で『吾妻鏡』を読むと引っかかる場所が出てきます。

 「(頼朝は)走湯山の僧侶である禅睿(ぜんえい)を鶴岡八幡宮寺の供僧(ぐそう)ならびに大般若経衆(だいはんにゃきょうしゅう)に任命し、鶴岡の西谷の地に免田(めんでん:役目の替わりに年貢を免除する田)二町(だいたい百㍍×二百㍍位)を賜る旨の御下文(みくだしぶみ)を与えたという。」 九十二から九十三頁
 千百八十一年十月六日(ほぼ一年後)

 ④からほぼ一年後に地元の神社から鶴岡八幡宮に僧侶を迎えて重要な役割を担わせたのです。宗教勢力を引き入れるのに約一か月、その人物を信頼するのに約一年を掛けているのが判ります。伊豆山を取次(担当)したのが北条政子なのは、④で判っていますので、政子の人を見る目が正しいこと(慧眼)が察せられます。
 次に宗教そのものから観てみます。走湯山は「権現=日本の神は仏の仮の姿」と考えており、八幡神は起源については諸説ありますが、清和源氏の守り神でした。それぞれ別の神や仏なのです。このように考えると、上記の一文は、大和らしい「宗教宥和(ゆうわ)政策」と読むことができます。
 政子と宗教政策を追ってみると、さらに、幾つもの記述が浮かび上がってきます。それは北条政子も源頼朝も宗教=鶴岡八幡宮へ何度も何度も参拝し、何度も何度も寄進をしているのです。例えば、頼朝が後年、奥州藤原征伐の際、政子は鶴岡八幡宮にお百度参りをしています。

 また、頼朝は(伊勢の)神宮の内宮や外宮の所領安堵や治安維持、奈良の東大寺再建供養などなど数々の宗教勢力の保護を努めています。そもそも『吾妻鏡』の第一巻は、御家人の話と宗教政策で殆どの頁が占めています。

北条政子と宗教政策の持つ意味

 鶴岡八幡宮は海辺にありましたが、頼朝によって現在の山側に移されました。長子頼家の誕生の際にまっすぐな道に直しました。頼朝は、この鶴岡八幡宮を大切にすることで数々のことを成し遂げました。それは以下の通りです。

イ) 先祖と共に自ら関東の土地に根を下ろすという決意表明

 頼朝の父義朝(よしとも)は関東武士を引き連れて京都で権力争いを行い、敗れて部下に殺されました。関東武士からすれば自分達に寄り添ってくれる政治権力を欲しており、それを満たす意味があります。

ロ)神の前で政治の公平性を誓うこと

 権力者に近ければ優遇される政権(公家)は、前回述べたように全国から税金が入る京都ならば合理性があります。けれども、関東武士の求めるものは、政治の公平さによる安定です。それによって農作業に集中でき、豊かになるからです。ちなみに、発足して間もない鎌倉政権は、権力争いを繰り返す公家政権に、何度も助けられました。

ハ) 関東武士の求める土地の確保

 京都の公家政権(藤原氏、平氏)による土地の担保がなされていませんでした。特に関東平野では不明確で裁定者がいませんでした。その裁定者としての役割を担い、農作業に集中する必要が政治機構として求められていました。

ニ)東国一の都市へ発展
 イ)~ハ)を見た御家人たちは続々と鎌倉に屋敷を立てて、またたく間に東日本の中心地になりました。なぜなら、鎌倉政権の安定によって土地問題が解決し、結果として安心して豊かな生活を送れるからです。つまり、関東武士たちは鎌倉政権を「おのれの命を懸けて守る」という意気込みを持ったのです。「一所懸命」や「御恩と奉公」という言葉が残っています。その根源が宗教政策であり、神の前で誓う公平性なのです。「一所懸命」も「御恩と奉公」も権力者の依怙贔屓で左右されないことを含意しています。
 つまり、鶴岡八幡宮を大切にすることで、関東武士=支持基盤を確保することになるのです。宗教政策は鎌倉政権の根幹を支える要素となりました。それを率先して行ったのが北条政子なのです。また、先ほどの引用した二番目から四番目に挙げたように具体的な行動として調整を行ったのです。
 他にも数々ありますが、一つだけ別の例を挙げます。

 不行き届きがあり身柄を拘束されていた長尾新六定景という者が「法華経を大事にして、毎日転読(てんどく:見て読む、覚えて読む)して決して怠ることがなかった」として「すぐにお許しになられたという」(八十五頁)とあります。神仏への帰依を政権の判定基準に中心に据えていたことが判ります。

 対して平氏は、平清盛が頼朝に味方するだろうと考えて(実際には反乱していない)、園城寺(おんじょうじ:三井寺 滋賀県大津市)と興福寺(こうふくじ:奈良県奈良市)を攻めました。そして全ての建物が燃やされました。(五十九から六十四頁) 
 阿修羅像だけは持ち出せたのでしょう、奈良時代から現存していますが、それ以外は室町時代のものです。

宗教政策の持つ政治性

 渡辺保先生は源頼朝と北条政子の政治役割について以下のように書いています。

 「いわば貴族性と土豪性(どごうせい:土地の小豪族)とを調和させるところに、源頼朝の役割があった。そして彼自身は、どちらかと言えば前者の色彩が濃いし、またそれを好んだのであろうが、しかしあくまでも後者の性格を失わなかったところは、北条時政・政子の存在がその働きをつとめたと言えよう。」
 『北条政子』 二十四から二十五頁

 渡辺先生は歴史解釈の通例通りです。これに、高木は第三の要素を加えたいと考えます。つまり、貴族性(源氏の血塗られた歴史とスケールの大きさ)と土豪性(関東武士の家族愛と土地への執着)を調和(接合)する第三の要素としての宗教性です。その根拠は先程書いたイ)~ニ)の政治力です。同時に、平氏との対立を鮮明にして政権の正統性を確立するなどの役割も、鎌倉政権の宗教政策は果たしています。その宗教政策を当初から担い、表に裏に活躍したのが北条政子なのです。

貴族性としての頼家と宗教性としての政子
 頼朝は落馬で死にました(脳卒中とも)。十八歳で長男頼家が鎌倉政権の頭領になりました。しかし、イ)~ハ)に反して頼家は貴族性が強く出てしまいます。
 ①自分の側近五人だけしか会話をしない。(公平性に反する。)
 ②依怙贔屓(えこひいき)をする。(頼朝の重臣を軽く扱う=御恩と奉公に反する。)
 ③部下の側室(妾)を寝とっておいて疑心暗鬼になり殺害しようとする。(義に反する。)
 ④蹴鞠(けまり)遊びばかりする。(一所懸命に反する。)

 などです。

 当時、北条政子は、長女大姫、夫頼朝、次女三幡(さんまん)を失ったばかりでした。また、頼家自身も病弱であったと言われています。しかしながら、頼家が貴族性に浸り、公家政権のような政治をしようとした時、政子がそれを止める事件が起こります。
 言い換えれば鎌倉政権の支持基盤が関東武士にあることを無視して、頼家が現実逃避をするのを何とか止めようとするのです。③部下の側室を寝とっておいて疑心暗鬼になり殺害しようとする事件です。要約して簡潔に述べます。

 「安達景盛は自分の国である三河国(愛知県)へ事件解決に出立しました。その間に頼家は側近に命じて景盛の妾を強引に連れ出して寵愛しました。以前に何度も手紙を送って断られていました。頼家のある側近の家に置き、側近五人以外は接近禁止にしました。一か月ぶりに安達景盛が帰ってくると、『怨みを持っているに違いないと思い込み(実際には反乱していない:平氏の宗教政策と同じ)』、兵を動かして殺してしまう命令を出しました。鎌倉は合戦前の雰囲気になったのです。
 政子は、先ほどの側近が押し寄せていた景盛の父蓮西の家に自分が乗り込みました(冒頭の走湯山のトラブルと同じ解決方法)。そして頼家に手紙を出します。

 頼朝が亡くなり、次女三幡もなくなったばかりです。今戦闘を好まれるのは乱世の源です。頼朝は景盛を信頼し可愛がっておられた。彼に罪があるなら私(政子)が尋問して成敗しましょう。事実も確かめずに殺してしまうのはきっと後悔するでしょう。それでもなお彼を罰せようとするなら、まず私にその矢を向けなさい。

 翌日も父蓮西の家にいて、景盛に「後々野心はありませんと起請文を頼家に出しなさい」と政子は言います。その手紙を頼家に渡しながら、政子は頼家に手紙を書きます。

 昨日のことは乱暴の至りで、義理を欠きます。国内(日本か鎌倉か判りません)の防備は整っていないし、政治を嫌悪し民の苦しみを考えていない。他人の妾を楽しんで反省しなかったことに原因がある。また、側近達も賢い人とはいえない。源氏が政権を作り上げたのに北条の力が大きかった。それなのに北条を大切にしていない。周りの人を下に見て本名で呼んで馬鹿にしている(通常は官職名で呼ぶ)ので怨みを残すと言われている。それであっても今回のことを冷静に対処すれば、合戦は起こらないでしょう。」

 以上が、頼家が貴族性に傾いた事件の顛末です。政子は宗教の持つ公平さに立って、裁定を下しています。そして結局頼家は権力を奪い取られ、頼朝の重臣の合議制に権力が移るのです。

政治権力強化としての宗教性
 政治から考えれば、権力者が他人の妾に手を出すのは古今東西の権力者の常です。ですから、一般人の道徳ではなく、政治から観てみますと、以下の点が浮かび上がってきます。

 ア) 側近から公平な助言がない
 イ) 政権が権力者に近い人々で独断される
 ウ) 過去の実績が失われ信頼関係が不安定になる

 どれもが権力の融解(ゆうかい)の原因になります。北条政子はしっかり全ての点に釘をさしています。そして最後には、実子で数少ない長男頼家をお飾りの将軍としてしまいます。対して政権の権力を強固にするために、十三人の御家人の合議制を制度化するのです。そして権力を継続させます。
 もし、わが子が可愛いと母として政治を行ったとしましょう。すると、京都の公家政権と同じく不安定になってしまいます。現代では権力が融解している典型例はシリアです。十万人近くの虐殺、数百万人の移民、難民が発生しています。権力の融解が、悲惨なことを巻き起こすのです。政子が頼家から権力を奪い取らなければ、現在のシリアと同じく、関東平野では虐殺、移民、難民が発生していたでしょう。
 関東は公家政権の権力が強固ではないので、凄惨な殺し合いを続けてきた土地だったことが思い起こされます。北条政子は頼朝の父義朝(よしとも)が、関東に下ってきて混乱を引き起こしたのが頭にこびり付いていたのかもしれません。歴史はこの権力の融解と強固の繰り返しで、無益な人々が殺され続けてきたことを教えてくれています。

 同じ合議制を制度化した豊臣政権ではどうだったでしょうか。五大老と五奉行を持った豊臣政権は、淀の方が五奉行の石田三成だけを依怙贔屓して、権力を融解させてしまいます。つまり、合議制を制度化しても実行力が伴わなくなってしまったのです。鎌倉政権も、その後、数々の反乱がおこります。けれども、権力の融解は起こらず、約百五十年続きます。

まとめ
 今回は、『吾妻鏡』から北条政子の最初の四つの登場を引用しました。宗教政策にかかわり、自ら乗り込んで問題を解決する姿勢が明らかになりました。また、頼朝の貴族性と鎌倉武士の土豪性を鶴岡八幡宮の宗教性で結びつける大きな役割も担っていました。その結果として関東武士は安心して鎌倉に集まり大都市となったのです。その陰に、政子を含めた鎌倉政権の宗教の融和政策や宗教の公平性があったのです。政子は前回指摘したように支持基盤は殆どありませんでした。その意味で驚嘆すべき政治力です。二代目でつぶれる会社や政治権力の多い中、政子は継続させることができました。政子の政治力の大きさを一つ見ることができたと思います。


エッセイ「【歷史】北条政子の秀でた心性 ―自分の弱さから広い視点へと― 」

「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した原稿です。
 読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。以下本文です。


 前回に引き続き、北条政子を取り上げます。まず、前回「亀の前事件」を「豊の前」と誤っておりました。訂正致します。
 前回は、北条政子の優れた政治力として、権力に必要な上下関係をつけた事件として、「亀の前事件」を考えました。
 今回は、その「優れた政治力」を生み出した北条政子の秀でた心性=心の態度、に迫りたいと思います。その事件として、義経の側室静御前が、頼朝と政子の前で義経を想う舞をまった事件を取り上げます。これまでは、政子は女性らしい感情から静御前をかばった、と考えられてきました。また、ある女性史研究家は「権力者に対して堂々と意見を言った姿」と考えました。私は、北条政子の支持基盤の弱さと源氏の過去の歴史から静をかばった、と考えます。
 そのためにまず、政子の支持基盤の弱さを述べます。つまり政治判断を問われた彼女の最初の危機を見ていきます。「危機に立った時、その人の本性が現れる」と思いますので、そこに政子の秀でた心性が現われていると思うのです。
 最初の方もいらっしゃるかと思いますので、前回の繰り返しになりますが政子の経歴を挙げます。

北条政子とは

 北条政子(ほうじょうまさこ):保元(ほうげん)二年誕生、嘉禄(かろく)元年没す。六十九歳歿(ぼつ) 西暦千百五十七年~千二百二十五年です。
 ○現在の静岡県出身(伊豆の国市韮山駅近辺の「北条」という地名の場所)で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。
 ○鎌倉幕府を安定した政治体制に導いた。他方、平氏は、兵庫県神戸市に政治体制(福原京)を開こうとしたが計画倒れとなる。
 ○「政子」は西暦千二百十八年に命名されたものであり、それ以前の名前は不明。
 ○通称は、鎌倉幕府樹立後「御台所(みだいどころ)」、夫の死後に尼になり「尼御台(あまみだい)」、藤原氏から将軍を迎えた実権を握ったので「尼将軍」と変わる。
 ○頼朝との恋愛話や嫉妬深い悪女、高い政治手腕など数々の評価がある。

危機に立たされた時、人間はどうするか?

 北条政子の秀でた心性を理解するために、そもそも危機に立たされた時、人間はどのような態度を取るのか、㋑から㊁の四つに分けてみます。

危機に立たされると

㋑自分で手一杯(感情のままにふるまう)
  :混乱、事実否認、一つの観念に凝り固まるなど。

㋺自分の外を見る(周りを見わたす、自分の小ささに気づく。)

 危機に陥るとその瞬間は、誰もが「㋑自分で手一杯」になります。そのまま㋑に留まっていると、状況の整理ができず、事実否認や事実誤認が起こります。原因の全否定や全責任を押し付ける、などです。日常世界でも政治の世界でも、自然科学者の世界でもよくあることです。
 そもそもこの世において、原因が己に一切なく相手にだけ悪があり否定される、ということはありません。私達が『論語』を学ぶのも、相手だけに責任を押し付けるのではなく、自らを反省することを勧めるからです。かみさんと喧嘩をすると甘えてしまって、相手にだけ責任を押しつけたくなってしまうのですが。
 話を戻しますと、事実の整理や責任追及をしない「有効な」対応策の検討に手をつけることで、㋺自分の外を見る段階に進みます。そうすると、自分の立ち位置や幾つかの重要な要素が浮かび上がってきます。そして何らかの対応策が見えてきてきます。こうして「㋑自分で手一杯」から抜け出せるのです。
 このままの状態を受け止めることもできますが、次の段階にも移れます。

㋩心細くなる
 :グループで固まる、あるいは特定の個人に依存する

 人は二歳頃からでしょうか、特定の個人と仲良くなっていきます。単純な喜怒哀楽のままに保育園で過ごしていた二女「おとは」は、二歳頃から特定の友達とだけ遊ぶようになったようです。小学校では男女の差こそあれ、グループで固まるようになります。特に思春期は不安定な時期ですから、グループを作ったり、特定の個人に依存したりという動きが強くなります。それは家族を含めると死ぬまで続きます。さらに、権力は孤独を要求しますから、権力者はより心細くなります。ですから、派閥を作り、その争いに終始することも起こってくるのです。洋の東西、時代、文化、民族を超えて、権力者、あるいは権力周辺は派閥争いが止まらないという歴史的事実があります。ですから、「㋩心細くなる」、そしてグループで固まるのは通常の心の動きなのです。しかし、人間はここで留まらない人も出てきます。その一人が北条政子です。

㊁より広さへと向かう
  :正義や公的規範、普遍的なルールに向かう

 『論語』の中には、しばしば孔子が苦しめられる場面が出てきます。けれども、孔子は正義や道徳などの普遍的なルールに沿うかどうかと考えます。目先の危機回避だけに捉われないという心の態度、つまり、秀でた心性に読者は感動するのではないでしょうか。北条政子も同じです。目先の危機回避だけに捉われず、普遍的なルール、頼朝の支持基盤の持っているルールへと向かいました。また、後年は、合議制を制度として採り入れるなど普遍的なルール作りを具体化し、実行するのです。カントは『実践理性批判』の第七で、

 「あなたの意思の格率が、常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しるうように行為せよ。」

 と述べています。「格率(かくりつ)」は「個人が決める習慣などのルール」です。例えば、朝起きたら直ぐに歯磨きをする、です。少し柔らかく訳してみます。

 「あなた一人が決める毎日の習慣があるでしょう。その習慣が、どんな時でも誰でも同じ習慣を行っても大丈夫なように決めて下さい。そしてその習慣を行いなさい。」

 カントが伝えたかったのは、自分の正義が全員に当てはまるかどうかを反省しながら、そして行動する、という点です。この一点において、カントは『論語』の孔子と共通していると思います。北条政子も同じ心性があったと思います。制度化は後年に実権を握ってからになりますが、頼朝が引き連れてきた千葉県や東京などの武士の心をつかんだのは、政子が有力な武士をえこひいきせずに、全員の武士に同じ

















ような公平さで接したからでしょう。

北条政子が「㋺自分の外を見てる」と気がついたこと

 以上の視点から北条政子の業績を見通すと、二点が見えてきます。

①権力基盤(兵士の数)が弱く、正室の座は危ない

 北条政子の出身母体である北条氏は、現在の韮山周辺の小さな土地しかありませんでした。つまり、同じ伊豆の豪族の中でも最大ではありませんでした。次に触れますが、北条氏は三百騎(歩兵である郎党は含まず)も集められませんでした。対して、千葉県(安房)などで頼朝は千騎、十倍以上の三千騎を集めた豪族をいくつも従えてきました。

 さらに悪いことに北条氏の兵士数はほぼ全滅してしまいます。源頼朝の初陣「石橋山(いしばしやま:小田原の少し南)の合戦」では、平家方三千騎に対して北条氏、とその他五氏を合わせて三百騎でした。ここで完全に敗北して兵を失ったのです。
 頼朝自身は命が終わろうとした時、敵方の梶原景時が裏切って助かります。兵士数壊滅によって伊豆の権力基盤を失った頼朝は、政子に連絡せずに千葉県に渡り兵を集めたのです。この千葉行きは頼朝の人気があった話として残っていますが、政子から見れば、権力基盤である兵士を殆ど失った、と観ることができます。そしてそれゆえに捨てられた話でもあるのです。
 同時代の風俗からすれば、権力のない家の正室は捨てられ、権力のある家から新しい正室を迎えることは、常にある時代でした。政子は最後まで正室として頼朝からも、頼朝の死後も御家人たちからも支持され続けました。それゆえ、この権力基盤の弱さは見落とされがちです。

②源氏は身内で殺し合ってきて、政権そのものが危ない

 次は頼朝も含めた武家政権の権力基盤の弱さの一つを観てみましょう。それは公家に使われてきた武士の本質の変化にも関わる点です。
 そもそも公家の使用人として勢力を拡大してきたのが源氏です。源氏は、公家の争いに巻き込まれ、身内が分裂して父と子、兄と弟が争い殺し合ってきました。例えば、源頼朝の父、源義朝(よしとも)は、家族の内紛で都から逃げました。頼朝と同じく、①東国に逃げて御家人を集め、②都に戻り、③父為義(ためよし)を倒しました。その後、また公家の争い(平治の乱)で平清盛に敗れます。そして尾張(愛知県)で家人(部下)に裏切られ殺されました。頼朝自身も弟義経(よしつね)を倒し、その赤子を処刑しました。また、親戚では源義仲(木曾義仲)を滅ぼしています。
 このように源氏は血で血を洗う凄惨(せいさん)な殺し合いを続けていたのです。なぜ、身内で血で血を洗う争いを続けるのでしょうか。中学時代に『まんが 日本の歴史』を読んで浮かんだ疑問が、今回の記事を書くことで消えました。
 血で血を洗う争いは、京都のように全国から税金が入ってくる場所だから成り立つのです。つまり、家族が憎いという感情が主な動機ではなく、全国から莫大な利益が入る京都の利権をより多く握るために争っている、という意味です。関東(鎌倉)の武士たちとの違いを箇条書きしてみます。

京都
○働かないで税金が入ってくる 
  ↓
 税金の権益を多く得るために家族でも争う

関東(鎌倉)
○家族で働いて自然の実りを頂く
 ↓
 食べていくためには家族仲良く

 京都を中心として考えている頼朝からすれば、家族で争うのは、結果として自分の利益になることでした。他方、関東の鎌倉政権を支える武士たちは自分達で畑を耕す農園主でした。武家政権を支える御家人(農園主)からすれば、家族で争うことには大いに抵抗があったのです。家族で争うのは結果として自分の利益に反するからです。この視点から観ると、「北条政子が家族を大切にする」=「武家政権の権力基盤を強固にする」の意味が出てきます。
 一つの事件を取り上げます。

頼朝の前で義経への思いを込めた舞う静御前

 文治二年(西暦千百八十六年)、義経は頼朝に追われており、義経の側室静(しずか)は捕えられて鎌倉にいました。鶴岡八幡宮に頼朝・政子夫妻が参詣し、静に舞を舞わせることにしました。そこで静は、

 「よし野山 みねしら雪ふみわけて いりにし人のあとそこいしき」

・吉野山の峰の白雪をふみわけて姿を消した義経の後ろ姿が恋しい。

 「しつやしつ しつのをたまきくり返し 昔を今になすよしもかな」

・しず(倭文)の布を織る麻糸を、まるくまいた「おだまき(糸を巻きつける木具:画像)」から糸がくり出されるように、絶えずくり返しながら、どうか昔を今にする方法があったなら(義経様に逢えるのに)。

 と舞いました。訳文は高木です。

 舞に対して頼朝は「八幡宮の前だから源氏を讃える歌を歌うべきだ」と不快感を表しました。
 政子は「私も最初は父に反対されても、夜道を迷いながら雨の中あなたの所へ行きました。あなたが何も言わずに千葉に行ってからは心淋しかったのです。今の静と同じです。ですから、彼女は貞女(ていじょ:夫を大切にする女性)です。」と誉めました。その後、頼朝は機嫌がよくなりました。

 この舞について三つの解釈があります。

 政子は嫉妬深いがこの時は、自分の身と同じだったので同情した ―従来の解釈―
 「それゆえ、頼朝の政治的な見識が素晴らしい。大勢の前で感情的な女性と争わないのは政治家として大物である。政子は感情的な性格である。」という解釈です。

 政子は頼朝よりもはるかに人間味を感じさせる ―田端泰子先生の解釈―

 「・・・頼朝批判の歌を歌い、堂々と舞を舞う、その勇気にも感心させられる。政子も静も情勢に屈せず積極的に自分の意志を表現できる人であったことがわかる。」
『幕府を背負った尼御台 北条政子』四十二頁

 「人間味=権力に屈しない」という意味であり、現代の女性史研究者らしい解釈です。田端先生は鎌倉政権前後の女性の地位の高さ、男女平等であったという視点から北条政子にせまっています。つまり、北条政子を通して当時の女性の地位を描き出すことが目的であり、北条政子個人の持つ資質に焦点があっていません。

 政子は頼朝よりもはるかに政治力を感じさせる ―高木健治郎の解釈―

 私は北条政子個人の資質に着目してみました。
 そもそも、政治力の根源はその支持基盤を確保することにあります。先ほど述べたように、鎌倉政権の支持基盤は農園主の御家人たちであり、家族仲良く、は動かしがたいほど強固にしみついていました。彼らの前で頼朝が鎌倉政権を褒めないからという理由で義経と権力争いをしたらどうでしょうか? もちろん、権力安定のために義経排除は必要です。しかし、正室ではない側室の静まで罰してしまっては・・・。単に「むかつくから近い立場の弱い者をいじめる」と受け取られるでしょう。それは鎌倉政権の支持基盤を弱くするものです。なぜなら、頼朝に近づいても「むかつくから近い立場の弱い者をいじめる」が、いつやってくるか判らないからです。言い換えれば、求心力の低下です。
 御家人たちは頼朝を冷酷な人物と断定し、信用しなくなります。そうなってしまうと、父義朝のように最後には裏切るかもしれないのです。政子は、そこを正確に見抜いていたのでしょう。だからこそ、自分の思い出を持ち出し温かい言葉を静御前にかけるのです。その後の静の母、静の赤子と静自身への手厚い心配りも一貫しています。
 まただからこそ、鎌倉政権の正式な歴史書『吾妻鏡』に政子の反論まできちんと載せているのでしょう。政子が静への手厚い心配りが御家人たちの心をつかみ権力基盤を強固にするという政治力を見ぬいたから書き残されたのでしょう。歴史書には、殆どの出来事や発言は書き残されないのです。ですから、歴史書に書き残された内容というのは、なぜ、書き残されたのか、に大いに理由があるのです。

北条政子の秀でた心性

 以上をまとめてみます。

 元々、政子の政治基盤(北条氏)は小さく、「石橋山の合戦」でほぼゼロになりました。
  ↓
 政子の秀でた心性は、自らの権力基盤(兵士数)の少なさを、自覚します。
  ↓
 危機に立った政子は、「㊁より広さへと向かう」を選びます。
  ↓
 権力基盤である御家人(農園主)たちと武家政権の断絶を認識する。
  ↓
 家族を大切にすること=御家人たちを大切にする、という政治的メッセージだと理解し、権力基盤を強固にする。

 同じく安定した長期武家政権を打ち立てた徳川家康と比較してみます。
 徳川家康も、家族の問題で苦悩しました。一度家を出た結城秀康は二男で優秀な君主でしたが徳川家を継がせていません。家を継ぐ公的ルールを確立するために、三男の徳川秀忠としたのです。家という考え方に公的ルールを入れ込んだのです。
 また、徳川家康は国内一の優秀な兵士を質と量で持ち、広大な領地も支配していました。この点、家康は安定した政権になりました。
 対して北条政子は少ない兵士数しか持たず、広い領地も持っていなかったのです。ですから、政子の死後、有力な御家人の足利氏などが内紛を何度も引き起こします。こうした歴史的事実は、北条氏の権力基盤が弱小であった証左です。そうなると北条政子が亡くなるまで御家人達の絶大な支持を受け続けるのは異例なことと考えられるのです。
 それゆえに、北条政子の権力基盤が土地や兵士数ではなく、その秀でた心性にあったことが判明します。

まとめ

 頼朝は静の舞の事件に見るように、「貴人に情なし」の面があります。それゆえ、関東の武士達の求めるものを受け止められない面がありました。もちろん、優れた面として、東北の藤原氏を滅ぼし全国を統治し、貴族の荘園制を廃止していくなどの視野の大きさをもっていました。しかし、それも権力基盤の関東武士を強固であればこそです。その関東の武士を受け止めたのが北条政子であり、そう考えると、夫婦相唱和していたのが頼朝・政子だったのです。静の舞で政子の忠告後、頼朝の機嫌が直ります。これは単に頼朝個人の問題でなく、夫婦で権力基盤である御家人達にメッセージを出したという政治の問題と読めるのです。
 この点を鋭く見抜き、分かりやすい恋愛話で語りかける北条政子の心の動きは、秀でている、と言って差し支えないと考えます。

《参考書》
 五味文彦・他編集 『現代語吾妻鏡⑴-⒃』 吉川弘文館
 田端泰子著 『幕府を背負った尼御台 北条政子』 人文書院
 渡辺保著 『北条政子』 吉川 弘文館
プロフィール

    名前:高木健治郎

書いたもの(平成29年度)
哲学(平成28年度)
科学技術者の倫理(平成28年度)
書いたもの(平成28年)
科学技術者の倫理(平成27年度)
哲学(平成27年度)
書いたもの(平成27年)
哲学(平成26年度)
「科学技術者の倫理(平成26年度)
講義録「哲学」
書いたもの(平成26年)
書いたもの(平成25年)
論文(高木健治郎の)
講義録「科学技術者の倫理」(平成25年度)
高木ゼミ『銃・病原菌・鉄』
高木ゼミ全6回『ぼくらの祖国』
教養講座6回分(平成24年度)   講義録21~
講義録「科学技術者の倫理」(平成24年度)     講義録1~15
最新記事
講義録「科学技術者の倫理」(平成23年度)
石上国語教室で行われた講演のレジュメです。哲学が足りなかったのが、福島原発事故の原因の1つではないか、と考えています。

「哲学のススメ2」レジュメ

最新コメント
カテゴリ