【随筆】朝の小旅行と絵本 ―哲学とーちゃんの子育て― 


 梅雨入りの、シトシトとした雨があがる。
朝の六時五十分、朝食が始まる。

 テーブル横のガラス戸を全開にして、五人で

 「いただきます。」
 「今日は二十度らしいよ。寒いね。」
 「そうなんだ、さむいね。」

 と、かみさんが返してくれる。

 「おとーちゃん、ちょっとあたまが痛いよ。」

 と、まなちゃん(五歳十一カ月)が眉をひそめるので、コップを持ってお茶入りのお水を飲ませる。

 ごく。

 何気なく朝食を食べていると、ガラス戸の外から・・・。

 「ゲコ ゲコ・・・ゲコ。」

 と聞こえてきた。

 「おちょーちゃん、なにぃ・・・」

 と、まなちゃんは、ちょっとおびえた声を出した。

 「鳥だよ、まなちゃん!」

 と、とっくん(七歳九カ月)が言う。

 「かえぅちゃんだよ! かえぅちゃん!」

 と、おとちゃん(三歳十一カ月)が続ける。

 「おかーちゃん、なにー?」ととっくんが聞く。

 私は黙っている。こういう時に黙るようになった。というのも、子供が自分たちで課題を見つけ、答えを探そうとする力を育てたいと思うからである。そしてそれができる年齢になってきた、と感じるから。

 「とりかなぁ? とりっぽいね。」

 と、おかーちゃんが答える。すぐに、

 「おとーちゃん、とり?かえる?」

 と、とっくんが聞いてくる。最近多いパターン。
 おかーちゃんに聞いて答えた後に、おとーちゃんに同じ質問をする。「じゃあ、おかーちゃんに聞く意味がないんじゃない?」と、とっくんに言うと、「聞きたいんだよ」と返してくる。二人の答えを聞くことが、真実を聞くことよりも大切なのかもしれない。

 「・・・。」

 私は答えないでいる。

 「おとーちゃん、おちぇてー。」

 と、おっちゃん。まなちゃんはまだ、私の左腕を両手で抱えている。声の主が不明で怖いのだろう。

 「まなちゃん、怖いかな?」
 「・・・うん。」
 「まなちゃんは、声は何だと想う?」
 「んん・・・とり?」
 「なんで?とりなの?」
 「とりさんは可愛いから。」
 「かえるさんは怖いの?」
 「うん、怖い。だからとりさん。」

 この恐怖で判断を歪ませてしまうのは、まないの特性なのできちんと受け止めたいと思った。私は最近、こうした疑問を投げかけられた時、疑問で返すようにしている。

 「まなちゃん、何だか分からないよね?」
 「うん。」
 「じゃあ、ご飯を早く食べ終わったら、お家の外に見に行ってみよう。」
 「(顔を明るくして)うん!」

 とっくんも、おっちゃんもうなずいていた。

 「じゃあ、七時までに食べ終えたら外に行こうね。今日の準備も終わらせよう。できるかな?」
 「うん!食べる。」

 急いで食べだした。

 「じゃあ、優子さん、お弁当セットお願いします。」
 「まなちゃん、やるよ。お弁当セット。」
 「おお、じゃあまなちゃんお願いします。」
 「とっくんは今日の体操着を用意してね。」
 「はーい。」
 「おっちゃんはーおっちゃんはー。」
 「おっちゃんは、ご飯を頑張って食べて下さい。」
 「はぁーぃ。」

 結局、七時十五分まで用意は掛ったけれども、小学校、保育園に出る七時三十分まで時間がある。玄関を開けた。雨上がりでも草が濡れている家の横の道に出た。
 朝に、外に出るのは珍しいからだろう、楽しくそうに顔を輝かせている。

 「たんぽぽだねー。もうフワフワついてないねー。」
 と、おっちゃん。
 「とりさん、とりさん」
とまなちゃん。
 「・・・(小石を蹴っている。)」
 とっくん。

 うれしくてたまらなそうである。

 怖がっていたまなちゃんが、水たまりに入って、靴がビショビショになった。怒ろうかと思ったけれど、やめた。無粋(ぶすい)なのである。

 「おとーちゃん、いないよー。」
 「そうだねぇ~じゃあ、神社のほうも行ってみようか?」
 「うん。」

 子供三人と神社への道に歩みを向けた。
 水たまりに入りながらのまなちゃん。小石を蹴りながらのとっくん。おっちゃんの両手がいつの間にか、私の手にひっついていた。

 三十メートルも来ただろうか、

 「おとーちゃん、とりさんは神社にいるんじゃないかな。神社いきたぃー。」
 「うーん、まなちゃん、神社からはとりさんの声、家まで聞こえないね。じゃあ、帰ろうっか。」
 「はーい。」

 聞き分けがよく、三人で水たまりに入りながら、飛び越えながら帰った。
 朝の小旅行は終了となった。

 喜びや楽しさは成長の種になるのは知られている。同時に、怒りや哀しみ、不安や恐怖も実は成長の種になると思うようになった。そのためには、最初の手助けをし、その後に一人一人の発育を観察するのが必要だと思うようになった。一つのきっかけが、『仮名論語』八十八頁にある。

 「子曰わく、我は生まれながらにして之を知る者に非(あら)ず。古(いにしえ)を好み、敏(びん)にして之を求めたる者なり。」
            述而第七 第十九章

 伊與田覺先生訳
 「○先師が言われた。
 私は、生まれながらに道を知る者ではない。古聖の教を好み進んで道を求めた者である。」

 「好み進んで」の語が心に残っている。子供に「好み進んで」取り組める態度を教えるにはどのようにしたらよいのか、と悩んだ。私は「正解を与え続けること」が適しているとは思えなかった。私は「疑問には疑問で返して、一緒に答えを探すこと」だと思った。
 また、「古聖の教」の語も心に残っている。子供に「古聖の教」を伝えるにはどのようにしたらよいのか、と疑問を持った。私は「まずは、リラックスして読む時間、環境を整えること」だと思われた。「親も気合を入れた時間を増やすこと」だけだとは思えなかった。それは年齢が上がってきたからだと思う。

 その日(平成三十年六月六日)の夜、八時四十五分ごろ。寝る前、歯磨きが終わった。歯磨きは父と母が三人交互で行っている。歯磨きが終わった子供は自由にしてよい。終わると絵本をそれぞれが読んだり、寝転んだりしている。我が家の就寝目標は九時、まだ十五分あった。

 絵本の読み聞かせは、かみさんが子供たちに繰り返してきた。かみさんの母親は絵本作家であり、実家には絵本があふれている。そして、寝る部屋には絵本棚しかない。だから、自然と寝る前に絵本を読むようになってくれた。最初の手助けを、親の方が仕掛けている。
 子供が本を読むようになるためには、読み聞かせも大切、そして手軽に読む環境も必要、そしてそうした時間も必要だと感じた。その時間とは、

 「さあ、二時間あります。絵本を読みましょう」

 と、気合を入れる時間ではなく、

 「寝る前のちょっとブラブラとした時間。じゃあ、絵本でも読むかなぁ・・・。」

 という気の抜けた時間である。気の抜けた時間に、ちょっと手に取れる、というのが習慣になりやすいと感じたのである。

 とっくんは『ゲゲゲの鬼太郎の妖怪図鑑』を読んでいる。怖い絵である。

 「怖い絵だから止めなさい。」

 というのは朝の散歩で水たまりに入るのを止めなさいと強く叱るのと同じで、無粋である。子供が読みたいものを、そしてブラブラと気の抜けた時間で読めるようにしてあげるのが大切だと思う。

 まなちゃんは『きょだいな きょだいな』という本、書いてあるひらがなを声に出している。

 「あったとさ あったとさ
 ひろい のっぱら どまんなか
 きょだいな ピアノが あったとさ

 こどもが 100にん やってきて
 ピアノの うえで おにごっこ
 ・・・なんだっけ?おとーちゃん。」

 カタカナが読めないので、その続きの

 「キラリラ グヮーン
 コキーン ゴガーン」

 が読めないのである。「きらきら ぐわーん こきーん ごがーん」だよ。というと、なんとか音をまねようとする。

 「こきーん、こがーん ごごーん
 ・・・あれ?なんだっけ。」

 できないよね、とは言わない。無粋である。

 「まなちゃんは、ひらがな習ってないのに読めてすごいね~。カタカナはお風呂に表がはってあるからね。すごいよ~。」

 と、ほめる。寝る前はみんな、いい気分でいたいものである。

 おとちゃんは、読んでもらった絵本をもちながら、読んでいる。ひらがなは読めないので、思いだした文を声にしている。内容がかなり簡単になっているけれど、話の筋はあっている。

 「かえるさんがげこげこ
 いけがありました。
 ぴょんぴょんうたいました。」

 頑張って思いだしている風ではなく楽しそうにしている。

 「おとーちゃん、きいてー。おっちゃん、よむょー。
 かえるさんが、ごこごこ。
 いけがあります。
 ぴんぴょこぴんぴょこうたいます。」

 さっきとは違っても楽しそうである。

 「おっちゃん、すごいね~ありがとね~。」
 「うん、おっちゃん、よめるんだぉ。」

 同じ絵本でも発育段階で楽しみ方が違うのである。今後も手軽に読める時間の中で、一人一人が楽しめる環境を提供したいと思った。
 個別の直接体験の大切さは、仏教でよく説かれる。

「水が冷たい。というのは文字では伝わらない。分からない。冷たい水を飲んでみて真に冷たいの意味がわかる。」

 冷暖自知(れいだんじち)と言い、禅の臨済宗で特に取り上げられる。子供一人一人が直接体験して本の楽しさを知って欲しいと思っている。

 「さー、九時になりました。寝ますよ~。」
 「はーい。」
 「あ、まなちゃんだけお返事した。とっくんと、おっちゃんは?」
 「はい。」
 「ぁーい。」

 部屋の電気を消して(小さな電球はつけておく)、兄弟三人だけで寝る。

 「おやすみなさい。」
 「おやすみーおかーちゃん、早く寝てねー。」
 「おやすみー。」
 「おやちゅみーおかーちゃん、はやくねぇー。」

 寝る時はおかあちゃんと一緒にいたい、と毎夜くりかえしている。


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【随筆】『中学生棋士』に学ぶ勉強の方法3


 「どうでしたか?」

 「おもしろかったです。」

 「そうですか、良かったです。面白かったのを伝えるいい方法は、最も心に残った一文を挙げることです。どこが心に残った一文ですか?」

 「あ、それは、
 『お母さんは翔さんに「どんな試験でも突破できる奥義」を伝授した。
 その奥義とは「うそを言うな、弱いものいじめをするな、五感を鍛えろ、そして早く寝ろ」だった。』
 です。」

 「どうして?」

 「ええと、どんな試験でも突破できるのは、勉強することだと思うので、これって本当ですか? 」

 「はい、だって、大川翔さんは中学校二年生の年齢で、つまり、あなたの年齢で東京大学と同じレベルの大学に合格しているので、本当です。」

 「・・・」

 「試験の突破する方法が、勉強方法でなくて、つながらないのでよく分からないのでしょうか?」

 「はい、そうです。」

 数学を中学生二人に教えている。昨日(平成三十年一月十日)、その二人に谷川浩司著『中学生棋士』の一節を読んでもらって、同じ反応だった。前々号(第五十七号)で「【随筆】『中学生棋士』に学ぶ子育て」を書き、当の一節を深めようと考えていた。今回、中学生に語りながら、形にできたので書き残しておきたい。加えて、努力を積み重ねる根本である、とも推察した。勉強のみならず、スポーツやあらゆる努力の根底に共通すると感じている。

前号での記述
 加えて、前々号では簡素な記述に留まったことも書き残したい理由の一つである。前々号での記述を振り返りたい。

 「お母さんの言葉が印象に残った。試験を突破する奥義が修身(道徳)なのである。目先の利益を求めやすくなる試験の心構えを一段上げる点に感服した。(中略)
 お母さんの言葉がご本人に沁(し)み込んだように感じられる。」(ふじの友 第五十七号 八頁三段十五から二十行目)

 「道徳がある学生がテストの成績が良くなる」

 というのは十年を超える教師生活で体感している。中学生から大学生、日本人から東アジア各国の学生の全てで、分け隔てない。道徳を奨める『論語』の偉大さを実感している。
 他方、この私自身の体感を、そのまま、社会経験や勉強の苦労が少ない中学生に語っても、言葉が空を飛ぶように、どこかに行ってしまうであろう。分解して説明する機会となった。

 「うそを言うな」が「どんな試験でも突破できる」勉強の方法である。

 前括弧と後ろ括弧をつなぐのは、「勉強の質と量の確保」にある。「弱いものいじめをするな」、「五感を鍛えろ」、「そして早く寝ろ」と「「どんな試験でも突破できる」をつなぐものも「勉強の質と量の確保」にある。

「うそを言うな」は「勉強の質と量の確保」につながる
 では、どうして「うそを言うな」と「勉強の質と量の確保」がつながるのであろうか。それを説明するために、まず、日本の小学校から大学までの一般の勉強の状況から述べていきたい。

 学校の勉強では授業とテストがある。授業の定着や理解を測るのがテストとされている。であるから、「テストが良くできる者が勉強ができる」となっている。

 もしテストの点が良かった場合はどうなるであろうか。
 普通の人(私も)は、テストの結果が良ければ嬉しくなって安心する。なぜなら、テスト勉強の方法が良かった、と判断するからである。
 さらに、テストの点が三回連続良い点数であったのなら、慢心してしまう。「この勉強方法でいいのだ」と思い込む。専門学校や大学の入学当初は、授業を一所懸命になっていた普通の学生が、テストや成績評価を得て、

 「な~んだ、この程度でいい成績ができるなら、あまり勉強しなくてもいいや。」

 と考えてしまうことも多い。テストの点数だけで自分の勉強方法を測っているとこのような結果になってしまうのが、普通の学生なのである。つまり、普通の学生はテストの結果が連続して良いと慢心して「勉強の質と量を確保すること」ができなくなる。

 もしテストの点が悪かった場合はどうなるであろうか。
 普通の人は、テストの結果が悪ければ落ち込んだり焦ったりする。なぜなら、テスト勉強の方法が悪かった、と判断するからである。
 そもそも完璧なテスト勉強を、毎回行える学生は普通の学生ではない。反省材料を探そうを思えば幾らでも出てくる。

 「私はそもそも勉強に向いていないのかもしれない。」
 「勉強ってつまらない。なんでこんなことをしなければならないの。」
 「テストって無くなればいいのに。」

 という悩みを持つ人が多い。それが普通の人である。しかし、こうした悩みを持つことは無駄である。人生の進路を決める上では有意義かもしれないが、「勉強の質と量の確保」の上では無駄としか言いようがない。年末の押し迫った時期になると、毎年のように同じことを言う学生が出てくる。

 「先生、医者になりたいって言ってた気持が無くなってきました。」
 「勉強に集中できないんですけど、夜も良く寝れなくて・・・。」
 「親がテストの結果が悪いからって、進路を考えたらどうだって言ってくるんですけど、どうしたらいいですか?」

 全ての迷いが「勉強の質と量の確保」を奪っているのである。本人は真剣に勉強したい、という気持ちはある。けれども、その努力の方法が違うのである。全ての迷いはどれだけ迷っても「勉強の質と量の確保」にはつながらない。

 「迷いを断って机の前に座って手と頭を動かせ。」

 と強く言い切りたい。そのようなことは出来ずに言葉を柔らかくして、いくつもの言い方を考えながら、伝えている。苦しみ悩む普通の人に、真実が薬にもなる場合もわずかにあるが、多くの場合毒薬にしかならないからである。

 以上のように、テストが良い場合でも悪い場合でも、「勉強の質と量の確保」が出来なくなってしまうことは私の教師体験で、よくよく見られた。

 解決方法である。「テストの結果」と「勉強の質と量の確保」を切り離すことが大切である。それが道徳によって心構えを一つ上げる点につながる。

 「うそを言うな」は、「うそを言わないこと」によって自身の正しさを自分で肯定できることが大きい。「うそを言わないことで他人に認められるようになりなさい」ではない。「うそを言わないことで自分自身に自信を持ちなさい」ということである。つまり、揺らがない自分への信頼を獲得しうるのである。このことによってテストの点が悪い場合、迷いを直ぐに吹っ切ることができる。迷い迷うのは自分の自信がないからである。自分の行いを正しい、と自分が肯定できないからである。
 「うそを言う者は他人もうそを言うのではないか」と疑心暗鬼におちいる。そして他人の目や評価を気にするようになる。他人の目や評価を気にすることで「勉強の質と量の確保」が出来なくなるのである。テストの結果が良ければ、他人の評価も上がると考えるが、慢心につながりやすい。結果が悪ければ、他人からの評価が下がってしまう、と恐怖さえ感じてしまう。
 けれども、自分自身を肯定できる者は、テストの点が良かろうが悪かろうが、自分の価値とは関係ないと切り離すことができる。だからこそ、自分自身の正しいこと=「勉強の質と量の確保」に集中できる。
 以上のように書いてきたことを三、四歳の子供は理解できない。だから、「うそを言うな」と単純明快にする。
 補足すると、「うそを言うな」は、「言われたことはする」に通じる。私が教師をしていて実感するのは、普段から明るく話せる学生は、課題の提出率が良い。同時に成績の伸びが良いように感じている。「うそを言わない」人を「素直な心の持ち主」と言い、「言われたことをする人」を「素直な人」とも言う。「素直な人」はテストの結果が良い時、「慢心してはいけないよ」と言われて、素直に聞けるであろう。テストの点が悪い時、「悩まないでとにかく勉強に集中して」と言われて、素直に聞けるであろう。けれども、素直でない人は、慢心し続けるであろうし、悩みにとらわれ続けるのである。花咲か爺さんのような昔話で出てくる性悪じいさんは、この素直でない人そのものである。
 最後にまとめてみたい。学生の最大のうそとは何であろうか。学生の本分は勉強である。勉強しないことが嘘となる。
 「うそを言うな」が「勉強の質と量の確保」につながるというのは以上の意味である。

「弱いものいじめをするな」は「勉強の質と量の確保」につながる
 弱いものいじめをする者は、正常な人間関係を結べない者である。正常でない人間関係は、案外と手間と時間が掛ってしまう。学校生活は当然ながら正常な人間関係を前提にしている。だから、最も心安らかに送ることができる。しかし、弱いものいじめをする者は、「誰かをいじめたい」や「誰かにいじめられないだろうか」ということを常に気にしている。教室で授業を受けていても、いじめの対象となる相手を気にしている。あるいはいじめられている者でそれに囚われているものも同様である。周りから見れば「いじめられている」と思われる本人が、全く気にしていない場合がある。
 周りの人と人間関係をうまく結べない者は、学校が終わった後も同じように周りの人の関係を常に気にしているように思われる。

 「今度は、どうやってあいつをいじめてやろうか。」
 「明日は学校に行ったら、またいじめられるかな。」

 と。このように周りの人の関係を気にしている者は、授業に集中し、帰宅後、一所懸命勉強して、質と量を確保できる訳がない。周りの人の関係を気にする他の例としては、恋愛があるが、こちらは禁止しても禁止できるものではない。しかし、「弱いものいじめ」は禁止できるのである。勉強は、独りで行うものだ。周りの人の関係を気にして出来るものではない。
 これはスポーツでも同様である。あるサッカーチームの選手の関係が良くないとする。けれども、そうした選手全員を嫌ってチームを出てしまっては、集団競技であるサッカー選手として向上することではきない。他方、そのサッカーチームは年齢が上がれば必ず全員が卒業して、解散となる。そのチームの人間関係を良くしてもいつかは離れてしまうものなのである。自らのサッカー選手としての技能を高めるためには、正常な人間関係を結んで、自主トレーニングをしながらチーム練習に参加することに尽きる。そのトレーニングの質と量の確保が、優れた選手になるための唯一の道なのである。幾らチームの人間関係を良くしても、プロのサッカー選手にはなれない。

「五感を鍛えろ」は「勉強の質と量の確保」につながる
 「勉強の質と量の確保」に「うそを言うな」と「弱いものいじめをするな」は、直感しやすいのではないだろうか。「五感を鍛えろ」は少々難しく感じるかもしれない。しかしながら、私には「五感を鍛えろ」が重要である、と感じている。
 一人の中学生はゲームを将来作りたい、と数学を学んでいる。ゲームと数学は比較的つながりやすい。そこで、教室の外にある、静岡市の青葉通公園の夜のイルミネーション(LED照明による木々のライトアップ)を指差した。

 「木々の青や紫のライトアップを見てどう思う?」

 「きれいですね。ピンクや赤があればいいな、と思います。」

 「じゃあ、将来ゲームを作りたいんだよね。そういう人はどう考えると思う?」

 「・・・えっと・・・」

 「うんうん。ゲームを作る人ならね、この綺麗なライトアップを見て、こんな場面をゲームの中で表現したいな、と思うんじゃないかな。ゲームのプログラマなら、どういうプログラミング言語なら表現しやすいか、などを考えるんじゃないかな。」

 「あぁ・・・。」

 「つまりね、「五感を鍛えろ」というのは、目の前にある素敵なことや美しいことと、勉強とを結びつける力を持ちなさい、という意味だと思うんだよね。数学の勉強も、やらされている、ではなくて、数学が分かればゲームを書けるようになる。つまり、数学は自分の夢につながる大切なもの。だから頑張ろう、という気持ちが出てくる、ということ。「五感を鍛えろ」というのは、「感性を豊かにする」、「色んなことに興味を持つ」とも言われるけど、自分の夢を具体的な行動にする時に、どうしても必要なことなんですよ。」

 感性のない人はロボットのようなものです。言われたことをただただこなすだけです。けれども、人間はロボットのように一度覚えたことは忘れない訳ではありません。集中して覚えたことは定着しますが、やる気のない、やらされているだけで覚えたことは、直ぐに忘れてしまいます。イチローの高校時代の監督が、

 「やらされている百本より本気の一本」

 と言ってしました。やる気が質を高めるという意味です。このやる気を起こさせるのが「五感」なのです。イチローは小学校の作文で、

 「将来プロになってお世話になった監督や先生や仲間、や親を球場に呼んで感謝したい。」

 と書いています。まだ見ぬ未来を思い描いて具体的な行動=一本の素振りを大切にする、が出来たのです。そしてそういう未来は、イチローが一年間三百六十日以上の練習をすることを可能にしたのです。
 以上ように「五感を鍛えろ」とは「勉強の質と量の確保」に大いに関係があるのです。また、このまだ見ぬ未来を思い描く、というのは、修身(道徳)では古来より言われてきたことです。
 富士論語を楽しむ会で最初に読み上げる「聞学起請文(もんがくきしょうもん)」から引用します。

 「(佐藤)一齋(いっさい)先生曰(のたまわ)く、
 少(わか)くして学べば壮(そう)にして為(な)すあり。
 壮(そう)にして学べば老(お)いて衰へず。老いて学べば死して朽(く)ちず。」

 若輩の時に壮年を想い、壮年には老年を想い、老年は死後というまだ見ぬ未来を思い描いてやる気をだしましょう、というのが佐藤一齊先生の文意です。この文意を「五感を鍛えろ」に凝縮した点は、見事という他ありません。

「そして早く寝ろ」は「勉強の質と量の確保」につながる
 前文の「五感を鍛えろ」が精神上のやる気向上策だとすれば、「そして早く寝ろ」は肉体上のやる気向上です。色々な言われ方はしますが、朝の一時間の勉強は夜の二時間の勉強時間に匹敵する、と言われたりします。実例は、ふじの友 第五十号「【随想】勉強するために朝を活用」をご覧ください。そこで述べたのは、

 「夜は日中の色々な雑事、雑念、疲労が入って集中しにくいが、朝はそれらが一切ない。だから朝学習が効率が良い。」

 ということです。

まとめ
 以上のように、「うそを言うな、弱いものいじめをするな、五感を鍛えろ、そして早く寝ろ」とは、「勉強の質と量の確保」が本意である、と解釈しました。それゆえ、「うそを言うな」が「どんな試験でも突破できる」勉強の方法である、と考えます。

 カナダのトップ大学に合格した大川翔さんが十八歳で出版した著書の中に、

 「GIFTED(天才)という言葉の語源にあるGIFTについて、贈り物なのだから、開花した才能を「社会のために還元しなさい」という含意がある。」

 と書いてあるそうです。この言葉は、先ほどのお母様の言葉が凝縮しているように感じられました。つまり、うそを言わないことで、行いの正しさを自分で確信し、弱いものをいじめをせずに周りとの正常な人間関係を結んできて、五感を鍛えて感性が豊かになって広い視野と感謝を持ち、早く寝て穏やかな気持ちを持っている、という意味です。自分に不安があるものは社会への還元まで想いが及びません。私の人生において、特にそうでした。
 同じ章の中にあるこの文章を一番印象に残った一文として、二人の中学生は挙げませんでした。私が彼らに教えたいことがあると感じました。以上が、『中学生棋士』に学ぶ努力の方法です。


付記
 私が今、ミニバスケットのコーチ代行を引き受けたのは、「社会のために還元したい」と感じているからです。十七年間バスケットを続けられたことを少しでも還元したいと思うのです。
 そのために、「うそを言うな、弱いものいじめをするな、五感を鍛えろ、そして早く寝ろ」を実行したいです。

【随筆】ドッチボールとバスケットボール


 「もう、いや!!」
 (ダン!)

 右足で床を大きくけった。

 「とっくん、ちょっといらっしゃい。」
 「んはぃ!!!(怒鳴り声)」
 (ひざを床につけて、顔の高さを合わせ、抱きしめて背中を両手でさすりだす。)

 「とっくんはドッチボール楽しかったでしょう?」
 「ん!!(大声)」
 「ドッチボールに行って楽しかったんだよね。さっき話してくれたよね?」
 「ぅん(強い声)。」
 「じゃあ、次に金曜日にドッチボールにいくんだよね。」
 「うん(普通の声になる)。」
 「それはとっくんが決めたんでしょ。じゃあ、金曜日に練習いこうね。」
 「うん(普通の声)。」
 「でも、バスケットをやるって決めたのもとっくんでしょ。バスケットは三年間はやるってお約束したよね。」
 「・・・うん。」
 「じゃあ、今日の午前中はバスケットをして、午後はドッチボールの体験会にいって、そして明日はバスケットでしょう。自分で決めたバスケットに迷惑をかけちゃダメだよ。だから、今から寝ないとバスケットの迷惑かけちゃうよね。わかる?」
 「・・・うん、わかる。。」
 「じゃあ、上に行って寝ようね。」
 「はーい(穏やかな声になる)。」

 平成三十年五月十三日の午後四時半である。
 ミニバスケットは公式戦が終わって、次の公式戦まで二か月も間が空いている。同時に、ドッチボールクラブの体験会が丁度あって、とっくんが今日の午後行ってきた。四時に帰って来て、パンや牛乳や煮豆を食べて、明日の朝まで寝ようか、という話になったら、先ほどの「もう、いや!!」が出た。
 疲れていると不機嫌になる。逆に不機嫌になるには、疲れか空腹かしかなく、分かりやすくはある。
 ドッチボールはよっぽど楽しかったようで、「ドッチボールに入りたい」と言った。勢いに乗って、「バスケットよりドッチボールがやりたい」とまで言った。子供らしい子供で、目の前しか見えていない。
 パンを食べ終わるころに聞いてみた。
 「お母さんが言ったように来週の土曜日、釣りをするよ。でも、ドッチボールの練習があるね。どっちに行きたい。」
 「(え?!) うーん。どっちも同じくらい。」
 「さらに、とっくん。囲碁をしたいって言ってたね。」
 「うん、そうだった。」
 「囲碁とドッチボールとどっちがしたい?」
 「えー・・・と。」

 という具合である。楽しいことをやりたい、という気持ちで単純に動いている。

 だから、親が少し整理してあげる。
 「じゃあ、ドッチボールは金曜日に体験会じゃなく、普通の練習に参加してみよう。」
 「うん。」
 「釣りはしたことないし、山の保育園のお友達に教えてもらえるから、土曜日に行ってみよう。」
 「はーい。」
 「囲碁は時間を見つけて参加してみよう。とにかく全部、一回はやってみて考えようね。」
 「はーい。そうだね。」

 バスケットよりもドッチボールが上、と聞いた時は、ドキッとしたが、少し頭を冷やした。この辺りが子育てをしていると鍛えられる。その後、想い付いた一文がある。

 「子曰く、學(まな)びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)く、思うて學ばざれば則ち殆(あやう)し。」
            為政第二 第十五章

 伊與田覺先生訳
 『〇先師が言われた。
 「学ぶだけで深く考えなければ、本当の意味がわからない。考えるのみで学ばなければ、独断におちて危ない。」』 
       『仮名論語』 十七から十八頁

 私ととっくんはバスケットをしている。それを「学ぶ」と考えれば、この一文の奥深さが胸に刺さる。

 「技術の習得や子供の成長、指導方法の習得だけで考えて、なぜ、バスケットをするのか、どのようにすることが最も適しているのか、と深く考えなければ、バスケットをしている意味、活きている意味がわからない。これはドッチボールも同じである。また、バスケットボールとドッチボールのどちらが良いか、どのように良いかなどを考えるだけで、実際に体験を通して学ばなければ、親や子供の独断だけになってしまって危ない。その危なさ、とは人生を無駄にする危なさである。」

 宮崎市定先生の『論語』の學而第一の解釈を知られたので、「学ぶ」を実際の訓練、体験にまで広げて考えた解釈である。

 今回、ドッチボールの体験会に参加してみてよかった。と言うのも、ドッチボールよりもバスケットの方がいい、と私が自分の独断を下したと気がついたから。心の片隅では「とっくんがドッチボールをしたいって言っているけど、向いていない。参加してほしくない。」と感じていた。独断を下して押しつけて、ドッチボールから遠ざけようと、体験会の参加をしぶっていた。「実際に体験を通して学ばなければ、親や子供の独断だけになってしまって危ない。その危なさ、とは人生を無駄にする危なさである。」という一文が、原文では「考えるのみで学ばなければ、独断におちて危ない。」が深く心にしみいった。子育ては親の独断で行うものではなく、子供の意見を取り入れる必要があったのである。
 同時に、子供が目の前のことだけで判断してしまう特性を考慮し、全て子供の望むように、と任せてはならない。これは「なぜ、バスケットをするのか、どのようにすることが最も適しているのか、と深く考えなければ、バスケットをしている意味、活きている意味がわからない。」という一文、原文では「学ぶだけで深く考えなければ、本当の意味がわからない。」である。バスケットをするのは子供の心身の健やかな成長のためである。決して優れたバスケットボール選手を作り出すためではない。それは結果としてついてくるかもしれない。つまり、おまけでしかない。優れたバスケットボール選手にならなくてもいい。目指して歯を食いしばり努力する過程で、子供は成長するのである。それが目的であり、ドッチボールでもバスケットボールでもいいのだ。

 「おまけは、おまけ。」

 と気がついて、どろどろと全身にへばりついていた我欲が洗い流されたような気になった。

 晴れ晴れとした目で見えてきたことがある。ドッチボールの体験会に参加して、とっくんの良い点、向いている点、向いていない点、悪い点などが見えてきた。

 とっくんは、運動量が人一倍あり、ボールへの反応も速い。保育園が同じでドッチボールに元々入っているお母様に「一人で投げて一人で取っている感じですね」と言われた。三年生も含めて二十人強の中で、一番動いていた。午前三時間の厳しいバスケットの練習後に、である。こうした運動特性は、ドッチボールよりもある程度の広さのあるスポーツに向いていると私は思った。バトミントンよりもテニス、卓球よりもサッカーが向いている。こうした気づきは、頭の中の空想では出てこないものだ。また、同じチームメイトへの声掛けも多く、声量も大きい。自分より下の一年生や女子の体の細い子供には弱めのボールを投げていた。これは個人単位のスポーツ、例えば陸上、よりもチームスポーツ、例えば野球の方が向いていると思う。
 悪い点は、他の子供の前にボールが来ても、横から走りこんで取ってしまい、さらにそのことに気がつかない。尊敬するバスケットのコーチは「とくはお家で王様でしょ」と表現された。その通りである。王様なので自分のやりたいことだけに集中して周りを見なくなってしまう。また、ボールキャッチの技術が未熟なのにボールを取りに行くので、すぐに当てられてしまう。キャッチが無理そうなボールも足が動くので取りに行って、当てられる。自分の技術を考えてのプレーができていない。だから、技術の未熟さを考えずに、友達に「俺はボール全部とれるぜ!」と平気でうそぶく(大言壮語する)。

 私の指導するバスケットの練習なら怒る所だ。ただ、ドッチボール、しかも体験会なので何も言わなかった。また、コーチではないので全体を見渡さなくていいし、自分の子供(とっくん)だけを見ていれば良かったので、リラックスして体育館に居られた。次の練習メニューを考えなくてもいい。休憩時間も選手たちを見なくてもいい。そんなこんなで体育館に居るのに緊張感を持たずに、気楽に居られた。久しぶりだった。こういうのも悪くはなかった。

 次回は体験会ではなく、ドッチボールの練習に参加する。釣りや囲碁も実際に参加して、とっくんと何をするかを話し合う予定である。

 それにしても二千年以上前に書かれた『論語』がお教えくださること、感嘆する次第である。

配布プリント「論文とは何か ―作文と小論文の違い―」と解答文2例

 静岡英和女学院中学校・高等学校様で、60分の授業で配布したプリントです。
 また、最後に宿題の例文2例があります。

 プリントの解答と授業内容の簡単な内容を、プリントの下に書いております。
 実際の授業は、高校生向けですので、わかりやすい言葉をつかいました。
 授業は、石上国語教室様の依頼です。

静岡英和女学院女子中学校・高等学校様HP
http://www.shizuoka-eiwa.ed.jp/

石上国語教室様
http://www.kokugokyoushitsu.com/

 以下レジュメです。WORDのA4で表裏1枚配布です。

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                                                      平成30年4月26日
論文とは何か ―作文と小論文の違い―
                                                         高木 健治郎

 本日は、世界の大学で教えてもらう「作文(感想文)と小論文(考察)の違い」のお話をします。小学生や中学生までは「感想文を書きなさい」と言われます。けれども、大学生や大人になると「小論文を書きなさい」や「考察しなさい」と言われるようになります。ですから、今日のお話を身につけるのは、大人になる第一歩だとも言えます。最初は手助けのヒントから書きだします。


・感想:思っていること = 好き、嫌い、楽しい、嬉しい、悲しい =
・考察:自分だけの考え = 他の人とは違ってもよい       =

・三段論法:古代ギリシャのアリストテレスの三段論法、論文には事実、論拠、結論が必要
・事実:論文の出発点:多くの人が受け入れている出来事、状態。文化や人で変わらない

・論拠:論文の独自性:筆者だけの考え方 文化や人で異なる。異なることに価値がある

・結論:言いたいこと:問題なら聴かれていることの答 
:結論だけ同じでも論拠が違うと100点満点にも0点にもなる。



 それでは設問に入ります。
●設問1 「2 ふたつよいことさていないものよ」を読んで感想と考察を書いてください。
感想:

考察:

●設問2 14頁7行~15頁12行を読んで、事実、論拠、結論を本文からそのまま書き写して下さい。

事実:

論拠:

結論:
●設問3 設問2の事実に加えられる、具体例をあなたが2つ考えて下さい。

加える事実1:

加える事実2:

●設問4 設問2の論拠は筆者「河合隼雄(かわいはやお)氏」の考えです。この考えとは違う考えを、設問2の事実から、あなたが2つ考えてください。

筆者とは違う論拠1:

筆者とは違う論拠2:

●設問5 「3 100%正しい忠告はまず役に立たない」の18頁~19頁6行を読んで、結論、論拠、事実を書き出しなさい。見つけるのが簡単な結論から書いてください。(16行を3行にまとめなさい、という意味でもあります)

・結論:

・論拠:

・事実:

●設問6 設問5の論拠は筆者「河合隼雄(かわいはやお)氏」の考えです。この考えとは違う考えを、設問6の事実から、あなたが1つ考えてください。そして、3段論法で書いてみましょう。

・事実:

・論拠:

・結論:

 どうでしたか、文章では事実と論拠と結論が入り混じっていることが理解できたでしょうか。
 どうでしたか、事実と論拠と結論の違いはなんとなくわかったでしょうか。そして感想文と小論文の違いはどうでしょうか。今後も、学んでいきましょう。最後に感想などを書いてください。
●設問7 感想など

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宿題要件 300字の原稿用紙に、小論文と感想文をそれぞれ書いてくること
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 以下は小論文の解答例です。

ーーーー解答文1例目ーーーーーーーーーーーー

 「100%正しい忠告はまず役に立たない」という筆者の意見に賛成する。しかし、実際に行動するには、大きな困難が立ちはだかっていると考える。
 筆者が論拠として挙げているのは、「個人と個人が深くかかわること」の必要性である。幅広い、つまり誰にでも通じる忠告は、「その時その場」にしか存在しない個人に関われない。1回成功した忠告は、「過去他の場所」にしか存在しない他人への忠告であって、「その時その場」にしか存在しない個人には関係がない。
 しかし技術の発展は、ネットや携帯で「いつでもどこでも」他人に関わることを可能にした。だから、実際に行動するには、大きな困難が立ちはだかっていると考える。
(293字)

ーーーー解答文2例目ーーーーーーーーーーーー

 「100%正しい忠告はまず役に立たない」という筆者の意見に反対する。なぜなら、筆者は忠告の内容だけを論じ、忠告者の態度を考慮していないからである。
 筆者は、「非行をやめなさい」や「ヒットを打て」など忠告の内容だけを挙げている。「ヒットを打て」というコーチの態度は触れられていない。続けて「その時その場の真実」の重要性を論じる。
 しかし、コーチは声の大きさ、体を選手に近づけるなどで、コーチ自身の真剣さを伝えられる。こうした非言語コミュニケーションで選手に「その時その場の真実」を伝えられる。諺「目は口ほどにものを言う」は、的確に表している。
 以上から、私は筆者の意見に反対する。
(296字)



【随筆】私の食い道楽と『縁起のいい客』


 原稿の締め切りを過ぎて、藤田先生にご迷惑をかけていた。何を書こうか、なにも出てこない。書きたい、と思っていた内容はあるのだが、本を読み終えていないので、書けない。

 どうしよう、、どうしよう。

 ええい! と苦肉の策で、部屋の本棚を眺めた。すると吉村昭(よしむら あきら)氏の本の塊を見つけた。
 吉村氏の本は出版社ごとで黒や海松色(るみいろ:海の岩につく藻の色。茶みをおびた深い黄緑色)に統一されていて、目につきやすい。
 海松色の塊の中で、本のタイトルを見ていくと、思い出のつまったタイトルにあたった。

 『縁起のいい客』

 文春文庫から西暦二千六年に刷られている。吉村氏は大学時代に少し読み、大学院時代に殆どの本を読んだ。
 『熊撃ち』は東北の実際に猟師への丁寧な取材に基づいていた。厳しい現実が胸に突き刺さり、一時期は猟師になりたい、と想った。そこから『戦艦武蔵ノート』や『海軍乙事件』などの戦記もの、凄惨なボクサー生活を描いた『孤独な噴水』、東日本大震災で大変参考になった『三陸海岸大津波』、『関東大震災』などにのめりこんだ。
 変な空想だが、当時、宇宙船に乗って三十年以上、誰とも話せない環境に置かれるなら、吉村昭氏の本を持っていきたい、と思うほどだった。詩のような表現になるが、

 「行間に文字が落ちて消えていく。」

 ような感覚をもった。最後には本に文字が書かれていないのに、消えていく潔(いさぎよ)さだけが残る、そんな感覚を、吉村氏に感じた。その感覚にはまってしまい、当時住んでいた大阪駅付近の本屋を何軒も巡り、吉村氏の本を時折、何度も探したものだった。

 そんな風に吉村氏に親しみを感じていた。著者に近づきたい、という気持ちを含んでいる親しみである。エッセイ集は、その気持ちを満たしてくれて、良く読みなおした。その一冊が、『縁起のいい客』であり、タイトルを見て懐かしい思い出が出てきた。それが吉村氏が料理を褒めている一文である。
 朝の忙しい時間だったが本を手に取り、折り目だけをみると、その箇所があった。エッセイのタイトルは「禁をやぶる」で五頁と短い。少し解説したい。
 「禁をやぶる」とは、吉村氏が食べ物のエッセイで店名を書くと、お店が大忙しになってしまった経験があった。その老夫婦が、

 「だれが新聞に書いたのか、余計なことを書きやがって。こんなに忙しくちゃ命もちぢまる」と腹立たしげに語った、と百七十九頁に書いてある。

 「このような苦い経験があるので、たとえ食物のことを書いても、店名は決して出すまいと心にめていたのである。」同頁

 とある。これが吉村氏の言う「禁」であり、二十年以上守り続けてきたそうである。他方、七十代半ばに達したので、店名を出す、これが「禁をやぶる」のエッセイである。その後を引用をする。

 『それなら、どの店にするか、と考えた。
 十数年前、宇和島市からの帰途松山空港の食堂に入った。顔見知りの県内紙の記者が永六輔さんと共に入ってきて、初めて紹介された。
 私が宇和島からの帰途だと言うと、永さんは顔を輝かせ、鯛めしを召し上がりましたかと言い、もちろんと私が答えると、
 「宇和島へ行きたいなあ。」
 と、今からでも行きたいといった口調で言った。
 その店の名前は丸水(がんすい)。鯛めしと言うと、鯛の身を蒸したものと思うだろうが、そうではない。説明はしない。宇和島へ行った折にそれを食べる以外に絶妙のうまさはわからない。値段はたしか千五百円前後。」

 親しみを感じていた吉村氏が、禁をやぶって出した店名が「丸水」、しかも「説明はしない」とまで書いている。絶賛の言葉を殆ど用いない吉村氏が「絶妙のうまさはわからない」と書いている。

 当時の私は、とたんに行きたくなった。確か大阪駅の南にある大型本屋で購入して、周りに目もくれず、安い広い喫茶店に入って読んでいた。実に行きたくなって、たまらなくなって、立ち上がってしまった。
 立ち上がった恥ずかしさを感じるのは、普段の引っ込み思案の私。当時は、思い悩むことが多かった。けれども、その時の私の頭に浮かんだのは、

 「どうやったら食べられるか!!」

 しかなかった。周りに何と想われるか、はどこかに消えていた。

 「どうするか。宇和島市。どこだっけ?」

 急いで本屋に戻って調べてみると四国。四国の九州側の愛媛県。愛媛県の瀬戸内海側が松山。ずーっと南に下って行った場所にあるのが宇和島市であった。うーん。遠い。当時は大阪に居た。静岡よりも近い。これはこれで幸運なのだが。さて、時刻表を見てみると、行くのに新幹線を使って七時間かかる。一万三、四千円だった。往復で三万円。新幹線をやめれば、七時間は十時間以上になる。一泊しないと厳しい。すると四万円。うーん、貧乏学生には厳しい。一か月の食費である。

 「うまいのか?」

 調べてみる。ガイドブックで宇和島市をみると「丸水」、載っていた。地元の郷土料理で確かに千円を超えるが、評価はまずまず。うまそうである。

 食べたい。

 じゃあ、食べるには・・・

 そこで思いついたのは、讃岐うどんツアーだった。数年前、大学の後輩が就職して大阪に来ていた。「何かおいしいものを食べたい」というので何軒か一緒にいった。うどんが美味しいと言っていた。自動車メーカーだったので車を持っていて、それならば、うどんの本場の讃岐(香川県)に行って、食べないか、という話をして盛り上がった。深夜十時に出て翌日の午後八時に帰ってきた。うどんは七、八店食べたを記憶している。このパターンを利用できないか、と思いついた。伝手(つて)を頼って、なんとか宇和島の丸水にたどり着いた。

 店内に石灯籠(いしどうろう)がある和風で落ち着いた雰囲気だった。木の扉が付いていて個室になる作りだった(十年以上経った現在でもはっきり覚えている)。
 メニューをみると「鯛めし」があった。

 はるばる、やってきた、という感動もある。

 同時に、吉村氏が絶賛していて「絶妙のうまさはわからない。」と書いた料理をやっと食べられる、という感動も押し寄せてきた。

 料理が出てくるまでの時間は長かった、と記憶している。鯛めしは、最高級の鯛茶漬けだった。美味しかった。ただただ、美味しかった。

 生まれてきて母親の料理の次に、感動した。私が人生で最も親しみを感じた吉村氏と同じ料理を食べられた、という感動が含まれていたからだろう。料理の味だけで旨いお店は幾らでもあったが、その旨さを飛び越えている旨さだった。お代わりをした。

 大阪に戻っても、ときどき、丸水の感動を思い出した。そして、それは私の人生に一つの変化をもたらした。強く行きたい、と想ったら、値段を考えず行く、という指針である。
 例えば、菱田春草(ひしだしゅんそう)の「落葉」シリーズの一枚の絵を美術の授業で見た。その後、図書館で勉強に疲れると、春草の画集を見ていた。
 数年後、名古屋でこの「落葉」が三枚展示されるというので、一泊して二日をかけて見に行った。引っ込み思案、外出が好きではないのは変わらないが、「強く行きたい」と想ったら、行くようになった。
 ふんぎりが良くなった、と言えるだろう。かみさんに出逢って五日で結婚を申し込んだのも、ふんぎりが良くなった、結果だろうな、と思い返す。

 吉村氏は丸水の後に、長崎チャンポンのお店で福寿という店名を出している。その後、この福寿へも食べにいった。長崎のハウステンボスも、出島も寄らず、福寿のちゃんぽんを食べた。味は上の下で値段が安かった。食べに来られるように自分が変わったことを実感しながら、吉村氏への想いが大きいのを知った。もちろん、旅行に持っていった本は、吉村昭氏であった。

 平成三十年五月十五日朝、手に取っているのは、

 『縁起のいい客』

 である。
 まさに、と深く思い知った。
 縁起のいい客とは、吉村昭氏その人である。私の人生に、自分の強い気持ちを肯定する大切さ、そのことによって新しいものに出逢えるという縁起のよさをもたらしてくれたのである。私の人生の旅路において、同席してくれるお客様なのである。
 逢ったことはない、けれども、そこに居てくれるお客、そんな想いにいたった。こういう本を味わうこと、まさに人生の食い道楽というであろう。
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    名前:高木健治郎

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