【随筆】ぼんやりとした私と致道館(ちどうかん)


 「おれって何がしたいんだろう?」

 と自分探しをしていた時期がありました。二十歳のころです。なんとか、大学に入り、バスケと遊びに明け暮れながら、授業をさぼる日々を続けていました。

 「おれって何が向いているんだろう?」

 とぼんやりと思いながら過ごしていました。大学入学前にアメリカに十日間だけ遊びにいって、日本全国を旅する、と決めたのも、「何が向いているか」をつかもうとしていたからかもしれません。とは言いながら、東京都杉並区、神奈川県茅ケ崎市、静岡県静岡市と東京圏内に住んでいた私は、東京圏以外の場所へ行くのが楽しかったのです。最初に向かった北海道は、ただただ、ひろ~く。ひろ~くて、

 「あああーーーーー!!」

 と大声を出しても、誰も聞いていない土地に生まれて初めてきた気がしました。その解放感を味わうために、次の大旅行は、山形県鶴岡市に深夜バスで向かい、その後、日本海沿いに新潟県、石川県、福井県、滋賀県、妹の住む大阪府に向かう予定でした。服装は短髪金髪、黄緑の上着とズボンでした。確か靴は工事に使うような固いブーツでした。
 自分自身の思いつく限りの派手な格好をして、自分の住んできた東京圏を脱出する。そんな大旅行でした。つまり、ぼーっとして、何か行動をすれば、何かがつかめるのではないか?という単純な思考だったのです。

 「致道館(ちどうかん)」

 パンフレットを義理の父母にもらいました。今年の八月初旬のねぶた祭などを見て回ったお土産です。富士論語を楽しむ会に参加しているのを知っており、

 『親子で楽しむ庄内(しょうない)論語』

 を同じ論語なのでお土産にしてくれたのです。

 「致道館」の文字を見て、最初思い出せませんでした。けれども、沈んだ浮(うき)がジワジワと水面に上がってくるように、「ん?たしか・・・」と思い出が浮かんできたのです。
 「庄内論語」の「庄内」とは、山形県鶴岡市一帯を指す言葉です。その「庄内」が呼び水になりました。思いっきり派手な格好で東京圏を飛び出した私が、山形県鶴岡市で見たのが「致道館」だったのを思い出しました。二十三年ぶりの記憶がはっきりと思い出されてきました。それは恥ずかしさを伴(ともな)うモノでもありました。

 粋がって変な格好をしている若輩者が、「論語」を読んでも何も響かないのです。当時の私が致道館で感じたのは、

 「ふ~ん、勉強してたんだ、昔。でも、他にもありそうだな。」

 という感想、とも言えないものでした。一晩寝るとすぐに忘れてしまうようなぼんやりとした感覚だったのです。書かれていた論語の文章を読んでも、

 「ふ~ん、かたっくるしいなぁ・・・」

 ぐらいでした。あまり記憶にも残っていません。それよりも江戸時代のような古い建築様式が現代の東京にはなく、記憶に残っています。

 二十数年たって、私は国語教室で高校生に小論指導をしています。そこで私は、大学に提出する「志望理由書」や「本人の長所」などを本人に話を聞きながら一緒に書いていきます。つい先日、

 「高木先生、私は何が向いているか本当はわからないんです。どうしたらいいですか?」

 と聞かれ、ドキッとしました。その動揺を抑えながら、私が答えたのは、「致道館」のパンフレットを読む前からの答えです。

 「高校生で自分に向いていることなんてわからないよ。向いていることが解るのは、徹底的に努力した場合だけだよ。私はヘブライ語を三年半勉強したよ。毎日平均一時間くらいしたけれど、全然出来なかった。半年で止めたくなったけど続けてみた。それで語学には向いていないって解った。だから今後の人生の中で語学を専門にすることはない。そこでは勝負をしない、って解ったんだよ。徹底的に努力すれば向いているかどうかが解るよ。何かありますか?」

 けれども、心臓がつかまれるような衝撃がありました。この言葉は、山形県鶴岡市に、格好つけて飛び出した二十歳の自分自身への言葉になっていたからです。
 つまり、いくら旅行をしても、いくら東京圏を抜け出しても、いくら派手な格好をしても、

 「おれって何がしたいんだろう?」

 「おれって何が向いているんだろう?」

 の答えは出ない、ということだったのです。大いに遠回りをして、現在の私にたどり着きました。四十三歳の私から二十三年前の私を振り返ると、薄い時間を過ごしていたように感じます。ぼーっとして、時々本を読んで、文字を追っていても頭に意味が入ってこない、そのような薄い時間です。私が致道館で論語の文章に目を通しても、何も感じ取れなかったのは、文字を追っていたけれども、頭に入ってこなかったからなのでしょう。素晴らしい文章に出会っても気が付かない私自身に気が付いて、恥じ入る気持ちを持ちました。そして、目の前にいる高校生に、

 「ぼくは、高校生の時に気が付かなかったけれど、徹底的に努力することで向き不向きが解るよ。」

 と付け加えたのです。

 つまり、良かったことは、薄い時間について、少しだけ、人様に言えるようになったことでしょう。義理の父母からの致道館のパンフレットは、若輩の時の私を振り返るきっかけとなりました。感謝です。

 『論語』に出逢えて良かったです。生きる時間を濃くしていきたいと思うようになりました。
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【論語】庄内論語と仮名論語の違いと共通点  


 義理の父母のお土産で、山形県鶴岡市に伝わる『親子で楽しむ 庄内論語』を頂きました。今回は、この本のご紹介と、本文を仮名論語と比べてみます。日本に伝わり各地で大きな実りを残してきた論語の一足がお伝えできれば幸いです。

庄内論語とは

 『庄内論語』を開いてみましょう。題字の次の頁にあるのは以下の文章です。

 ふるさと鶴岡につたわる心
 そして、ふるさと鶴岡でつたえ続けたい心
 「庄内論語」には
   その心がつまっています。
 みんなで
  声を合わせて読んでみましょう。

 ※一八〇五年(文化二年)に創設された藩校「致道館」は、鶴岡市の教育の原点です。学びの精神は、今もなお生き続けています。

 以上が原文です。「致道館」は「ちどうかん」と読みます。二百年を超えて現在でも鶴岡の心と論語が一体とする点が読み取れます。そして江戸時代の主な学習方法、音読を継続しているのが判ります。富士論語を楽しむ会も音読しますが、励まされた気が致します。音読によって口に残り、新しい気付きを頂いたことが思い起こされます。

 頁を捲(めく)ると、鶴岡市教育長の「発刊によせて」があり、続けて致道博物館理事が「庄内論語について」、統括文化財保護指導員が「藩校致道館について」を書いています。目次、本文、鶴岡子ども像と題する四行の文、最後に発刊の記載があります。
 表紙題字として「酒井家十八代当主」の名があり、この本の第一版が平成二十四年で、平成二十九年の第六刷なのが記されています。
 本の出版に際し、致道館を通して公的な立場の方々が関わっているのが読み取れます。酒井家は千六百二十二年の有名な「最上騒動」後、庄内藩を受け継ぎます。つまり、致道館を創設した藩主家が現在でも関与しており、現代の教育行政の長である教育長が文を寄せているのです。また、「致道博物館理事」、「統括文化財保護指導員」とありますから、財団があり、文化の継続が公的な形であることが判明します。江戸時代に論語が各地の藩校を中心に広がりを見せた一端が示されているのです。

庄内論語と仮名論語

 これに対して『仮名論語』は公的な形ではありませんでした。発刊する論語普及会は、昭和六十二年に創立された民間の団体です。ホームページには、学問の起源を大塩平八郎の「洗心洞」とし、安岡正篤先生、伊與田覺先生が中心であったことが記されています。安岡先生は、「終戦の詔勅(しょうちょく)」の文章を整えるなど国家の大事に関わりましたが、立場はあくまでも公的な立場ではありませんでした。『仮名論語』を記された伊與田先生も同様で、先生個人の学問態度の表明でした。
 加えて、対象者にも違いがあります。庄内論語は少年から青年を対象にしています。対して、『仮名論語』の誕生秘話に、

 「戦後日本の世相の混迷、道義の頽廃(たいはい)を憂(うれ)えた(伊與田:高木注)先生は、論語精神の普及によって、日本人本来の心を呼び覚ますことが急務であると『仮名論語』の浄書を決意されたのでした」

 と書かれています。仮名論語は広く社会人を中心として対象にしています。
 さらには、庄内論語の時代と現代の仮名論語の時代では、論語の普及の度合いが異なります。先の文章に「日本人本来の心を呼び覚ますこと」とありました。つまり、論語は日本人の伝統文化の一部となっている、というのを前提としています。私も現代日本人の思考や行動の原点の一つが論語であるのは度々実感しています。対して、庄内論語を普及させる時代は、論語が日本人の多くに普及しているわけではありませんでした。これまで述べてきたように、皇室を中心に論語が継承されてきて、江戸時代に伊藤仁斎先生、石田梅岩先生などの業績によって日本人に広がる形に変化していったのです。そうした変遷を経て、日本人の伝統文化となったのです。庄内論語が広く社会人一般に普及していない時代に書かれた論語なのです。ちなみに、致道博物館理事は「庄内論語について」で、

 「致道館の学問は、江戸時代の儒学者荻生徂徠(おぎゅうそらい 一六六六~一七二八年)の考え方を取り入れたものです。したがって、論語の読み方や内容のとらえ方にも、学校の教科書と違っている点も見受けられます。」

 と書かれています。詳しくは仮名論語との比較で述べますが、伊藤先生の業績を受け継ぐ荻生先生、そして致道館=庄内論語という系譜が判明します。
 以上のように、庄内論語と仮名論語では、公的と民間、対象者、普及の度合いが異なっていました。これらを踏(ふ)まえても、踏まえなくても、二つの論語の違いを楽しんでいただければと思います。

庄内論語と仮名論語の、違いと共通点 ―名著であること―

 庄内論語と仮名論語の違いを具体例で述べていきます。本文は論語の冒頭の一文、つまり、學而(がくじ)第一、第一章です。書き下し文はぜひ、声に出してお読みください。

庄内論語書き下し

 子曰(しのたまわ)く。
 学んで而(しこう)して之(これ)を時習(じしゅう)す。亦(また)説(よろこ)ばしからずや。
 朋(とも)遠方(えんぽう)より来たる。亦楽しからずや。
 人知らずして而(しこう)して慍(うん)せず。亦君子ならずや。

仮名論語書き下し

 子曰(しのたまわ)く、學(まな)びて時に之を習う、亦説ばしからずや。朋遠方(ともえんぽう)より来たる有り、亦樂(たの)しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや。

 書き下しの違い
 ①「而」を「しこう」と読むか読まないか。
「しこう」と読むのは明治時代までの読み方で、二葉亭四迷(西暦千八百六十四から千九百九年:明治四十二年)の文章などに出てきます。現代では聞きなれない単語になったので省いたのでしょう。また、意味は順接にも逆説にも使われます。

②「時習」を「じしゅう」と読むか、「ときにならう」と読むか。「じしゅう」は聞きなれない単語ですが、「大辞林 第三版」という辞書に「折にふれて復習すること」とあります。庄内論語のように少年から青年の学習は復習が大事ですから、「じしゅう」の方が合います。対して仮名論語が社会人ですから時に応じて、という意味が合います。

③「慍」を「うん」と読むか、「うらむ」と読むか。
 庄内論語は「うん」と音読みで読むこともあります。仮名論語は「うらむ」と訓読みで読みます。この違いは多く見受けられます。

④「學」を「学」とするか「學」で残すか。
 少年青年は漢字の難解さでつまずくことがあり、手助けをするために「学」と庄内論語はしています。ただし、書き下し文の横に白文があり、そこを参照すると「学」=「學」が判ります。仮名論語は社会人向けですから、「學」とそのままです。これは「樂」が「楽」か「樂」でも同じです。

 以上が書き下し文の違いです。続けて意味を比べます。

庄内論語の意味

 先生がおっしゃいました。「学んだことをいつもおさらいしていてみにつけていくことは、なんとうれしいことではないか。学問を志(こころざ)す友だちが、遠いところからやって来て、ともに学びあう。なんと楽しいことではないか。たとえほかの人が認(みと)めてくれなくても不満に思わないで、自分の信じる道を歩んでいく。なんとすぐれた人物ではないか。」
 (学問のよろこびと楽しみ、その心構(こころがま)え。)

 以上が文章の意味そのままです。フリガナもそのままです。

仮名論語の意味

 「聖賢の道を学んで、時に応じてこれを実践し、その真意を自ら会得することができるのは、なんと喜ばしいことではないか。共に道を学ぼうとして、思いがけなく遠方から同志がやってくるのは、なんと楽しいことではないか。だが人が自分の存在を認めてくれなくても、怨むことなく、自ら為すべきことを努めてやまない人は、なんと立派な人物ではないか」
 ※孔子、(西紀前五五一年~四七九年) 姓は孔、名は丘、字は仲尼。魯の襄公廿二年九月廿八日、昌平郷陬邑(すうゆう)に生れた。

 以上が文章の意味そのままです。フリガナもそのままです。
 
 二つの文章の意味を比べると以下が異なります。

 ㋑漢字がひらがなになっているのが庄内論語、意味を説明するための漢字、「聖賢」、「会得」など増やしているのが仮名論語。
 パッと上から見て、読みやすそうなのは庄内論語です。最初になにげなく学ぶ人を論語の世界に引き込むための工夫でしょう。対して仮名論語は、最初に論語の奥深さを提示しようとしています。これは社会人が「なにか自分の核になるものはないか?」や「このまま生きていていいのだろうか?」という疑問を持ち、論語を読もうと決意している人を前提としているように思われます。意味を書かれた伊與田先生は、論語の最初の意味の一文にどれだけ心を砕(くだ)かれ、何度、何十度、文章を直されたことでしょうか。

 ㋺振り仮名を常用漢字につける庄内論語と常用漢字以外でも振り仮名をつけない仮名論語

 「認(みと)めて」の「認」は常用漢字であり、小学校一年生から六年生で習う教育漢字でもあります。漢字の最も易しい漢字に分類されていますが、平成二十四年版には送り仮名がついています。対象者として小学校低学年を念頭に置いているのが、分ります。
 対して仮名論語では、「襄公」の「襄(じょう)」という常用漢字ではない漢字に振り仮名をつけていません。「廿(じゅう)」は「十の二倍のにじゅう」の意味で「ジュウ」と読みますが、同じく常用漢字外です。ただし、人名用漢字です。こちらにも振り仮名はありません。振り仮名をつけないわけではなく「陬邑(すうゆう)」にだけ付けられています。ちなみに「陬(すう)」は、「はし、すみっこ」、「入り組んだところ」、「いなかの村」、「陰暦の正月の別称」などの意味があります。ですから、仮名論語ではなるべく振り仮名をつけない態度を採っているのが判ります。つまり、仮名論語の対象者は、意味が解らない場合は、「自分で調べる習慣のある者」、つまり社会人でも意識の高い人になるのです。
 以上のように振り仮名を比較すると、庄内論語は小学校低学年を含めているのに対して、仮名論語は自学学習のできる者を含めており、両極端なのが読み取れます。なかなか興味深い点でした。

 ㋩文章の最後の補足が異なります。
 庄内論語では「(学問のよろこびと楽しみ、その心構(こころがま)え。)」とあります。まだ学問のよろこびや楽しみ、心構えさえ知らない少年や青年に向けて書かれているのが浮かび上がってきます。対して仮名論語では孔子の略歴が書いてあります。社会に出るとその人がどういう経歴なのか、が判断の一つの指針になります。名刺に肩書を書くのは典型です。その習慣を熟知しているので、最初に仮名論語では経歴を書いています。二つの論語は意味の文章は異なりますが、対象者に向けて適切な情報を記している点で一致していますし、見事です。比較してみると、両方の意味の文章の良さが見えてきます。

 以上の三点が読み比べて心に残りました。書き下し文や意味の一文で、真逆のように見えました。けれども、想定している読み手が異なるからであり、読者のための工夫が一貫している点が共通していました。共に名著と呼ばれるのに相応しいと感じました。
 最後に二つの文章を書き比べて終わりにしたいと思います。

庄内論語と仮名論語の比較

〇庄内論語 為政第二第六章抜粋

 子曰(しのたまわ)く。
 父母(ふぼ)唯(ただ)其(そ)の疾(やまい)を憂(うりょ)う。

 先生がおっしゃいました。「お父さんとお母さんは、ただ子どもの病気のことだけを心配するものだ。」

 (親は子どもにいつも元気で正しい道を歩んで欲しいと願っている。)

仮名論語 為政第二第六章

 孟武伯(もうぶはく)、孝(こう)を問う。子曰く、父母(ふぼ)は唯(ただ)其(そ)の疾(やまい)を之れ憂(うれ)う。

 孟武伯(孟懿子[もういし]の子)が孝行について尋ねた。
 先師が答えられた。
 「父母は唯子の疾(やまい)を心配するものであります。」

〇庄内論語 雍也第六 十八章抜粋

 子曰く。
 文質彬彬(ぶんしつひんぴん)として然(しこう)して後 君子なり。

 先生がおっしゃいました。「文(教養)と質(だれにでもある人としての資質[ししつ])がうまく調和してこそ、はじめてすぐれた人物である。」

 仮名論語 雍也第六 十八章

 子曰く、質、文に勝てば則(すなわ)ち野(や)。文、質に勝てば則ち史(し)。文質彬彬(ぶんしつひんぴん)として、然(しか)る後に君子なり。

 先師が言われた。
 「質が文(あや)に勝てば野人肌である。文が質に勝てば記録係のようだ。文と質とがうまく均整がとれてこそ君子と言える」


 如何でしたでしょうか。庄内論語と仮名論語の違いを感じ取られたでしょうか。私は二つの論語を通して伝統文化の豊かさと深さを見られました。『論語』の素晴らしさを伝えてこられた方々の御努力を感じました。学恩に感謝いたします。

参考図書
〇『親子で楽しむ 庄内論語』 「親子で楽しむ庄内論語」選定委員会編集 鶴岡市教育委員会監修 平成二十九年 第六刷

〇『現代訳 仮名論語 拡大版』 伊與田 覺著 平成二十四年 第三十八刷  

第1回宿題レポート要件


第1回宿題レポート 11月7日まで

配布プリントの「『どの宗教が役に立つか』 ひろさちや著 76-85,98-101頁」を読み以下の問に答えること

問1 あなたの身の回りにある幸福を30個挙げなさい。
問2 あなたの身の回りにある快楽を10個挙げなさい。
問3 煙草やスポーツカーや新興宗教のご利益のようにマイナスをゼロにする例を5つ挙げなさい。
問4 新興宗教と本物の宗教の違いをひろさちや氏の文章を元に説明しなさい。(字数制限なし:あなたの考えを入れなくて良い。)
問5 幸福は量で計れるものですか? はい・いいえ を書き、その理由を述べなさい。(字数100字以上:あなたの考えで書きなさい。)
問6 ひろさちや氏の説明について、どこでも良いので、反論しなさい。できれば、三段論法で書きなさい。
問7 以上の設問を参考にし、講義中で取り上げた「ベンサムの最大多数の最大幸福」についてあなたの考えを説明しなさい。(400字以上)
問8 あなたが、現在、最も重要と考える幸福を1つ具体的に説明し、理由を述べなさい。(400字以上)
問9 感想

形式 : A4であること、形式自由 (手書、WORD どちらでもOKです)  枚数制限はありません。
注意:規定の個数が足りない、字数が足りない、場合は零点となります。締め切り後でも、減点して受け取ります。

【随筆】人間の愚かさと世の中の面白さ


 「前に教えたことが出来ていないなぁ。」

 小学校のミニ・バスケットの練習で思った。

 とっくん(七歳一か月)が、ミニバスを始めて早くも五か月に入ろうとしている。火の玉のように燃えていて、五時間の練習や丸一日の試合も含めて、全ての練習に参加している。通常、小学校一年生は集中力が持たないので、一時間だけの練習参加、試合の日は欠席となる。なぜなら試合会場で遊びだしたり、駄々っ子になったりすることが多いからである。とっくんも最初の一か月は、練習を四時間すると、駄々っ子になり、私の膝にお尻を乗せようとしてきた。
 さらに、火の玉が炎の玉になりそうである。チームに四年生がおらず、三年生は一人というチームの特殊事情と、練習に対する気持ちが評価されて、四年生以下のチームを組むと、レギュラーになりそうなのである。これを聴いてとっくんは、

 「ミニバスの練習絶対休まない! 熱が出てもオレはいくよ。休まない!」

 と言い切った。

 そんなに燃えているのだけれども、「前に教えたことが出来ていないなぁ」となるのである。

 少し丁寧に考えてみます。本人にやる気があっても失敗を繰り返す、という経験は、身の回りにあふれており、日常茶飯事ではないでしょうか。大人で本人にやる気があるのに、ちょっとしたミスを繰り返す。「あれれ、またやってしまった」と、トイレの中蓋(なかぶた)を下ろしたまま小便をしてしまう。職場で「あ!」っと心の中で言いながら、前に怒らせてしまった言葉を言ってしまうのです。どうしてなのだろうか、と思っても、おやつに手が伸びてしまう。「しまう」と三つ繰り返して、本人の戸惑いと嘆(なげ)きを表現してみました。

 この戸惑いと嘆きは、言うならば「人間の本性としての愚かさへの戸惑い」です。今回は、人間の愚かさと対応について考えてみたいと思います。

二つの人間の愚かさ
 人間の愚かさには大きく分けて二種類あります。一つは教えたれたことを忘れてしまうこと、あるいは出来ないこと、です。

最近の記憶理論と愚かさ
 最近の記憶の理論に沿って考えてみます。そもそも人間の記憶は、繰り返すことで確定します。最近の理論では、「人は覚えられないのではなく、思い出せない」と考えられています。
 通常、人間は一度聞けば脳内に入り記憶されるのだそうです。ですが、思い出すのが難しいのです。ですから、思い出そうとした時に、その記憶の場所にたどり着き、引っ張り出すという作業を繰り返すことでいつでも思い出せる記憶となるのです。年を重ねて小学校や中学校の時の記憶が思い出されるのは、その時代に記憶を引っ張り出す、という作業を繰り返したから、だそうです。
 この思い出しの作業を何度もしていない記憶は、思い出せない記憶として脳内に留まったままになります。ボケというのは、思い出し作業を集中して何度も繰り返していないことから生じる、という説もあります。以上のように、覚えられない、のではなく、記憶したものを思い出せないのです。
 子供はこの思い出す訓練が少ないので、教えられたことを忘れている、ように見られてしまいます 。とっくんも、直前に教えたことを、「えっとなんだっけ?忘れた」と言います。これは思い出す訓練をしていないからです。小学校高学年、中学校と学業を修めることで無くなっていきます。小学校や中学校の勉強が暗記中心であるのは、記憶の思い出し作業にとって大いに意義があります。また、全ての年齢で素読という暗記は有効だと言われています。さらに、高校、大学になると日常生活と関わりなく、経験をしたことがない抽象的な法則や原理なども覚えるのですから、高度な思い出しの訓練になります。
 以上をまとめて考えてみると、思い出しの訓練を積んでいない愚かさ、あるいは拒否するという愚かさが人間には確かにあります。私も人の名前が覚えられないのは、何度も思い出す作業をせずに、さぼっているからです。

判断を放棄する愚かさ
 もう一つの人間の愚かさは、自ら判断しないという愚かさです。バスケットの練習では幾つかの型があります。パスの型、シュートの型、足運び(ステップ)の型、相手を抜く型などです。こうした幾つもの型を、練習を何度も繰り返すことで選手に教え込んできます。先ほどの記憶を思い出す訓練と同じで、繰り返すことで定着していきます。いわゆる「言われたことをやる」という作業です。
 次の段階は、型を使う段階になります。バスケットでは、人間を相手に試合をします。ですから、相手の人間によって状況が変化します。その状況に合わせた型を使えるか、という判断をしなければならなくなるのです。そうしないと、相手にパスをカットされ、シュートはブロックされ、ディフェンスされるなどして、相手ボールになって試合に負けてしまいます。ここで問題になるのは、「型はなぜ必要なのか」と「型はなぜ今使うのか」という理由を選手自らが、その瞬間で判断しなければならない、という点です。
 相手の身長が大きく手が長ければ、パスの型よりも外側に出して、カットされないようにしなければなりません。相手が小さければ、パスの型より内側でも良いのです。味方の選手と相手選手の上手い下手なども考えながら、瞬間、瞬間で判断しなければなりません。個人種目ではないですから、全員が上手いチーム、いわゆる型が身についているチームが必ず勝つ訳ではないのです。そこがバスケットの魅力です。つまり、勝負を決するのは選手の判断の積み重ねなのです。
 それは職場や社会でも同じではないでしょうか。なぜなら、人間相手であり、状況が刻々と変化するからです。例えば、「お元気ですか?」というのが挨拶の型です。けれども、相手にご不幸があったとき、自ら判断して「ご愁傷さまです」と言葉を替えるのです。この「ご愁傷さまです」をお逢いする何回目まで続けるか、は本人の判断になります。刻々と変化する状況を判断する点で、職場や社会、バスケットは共通しています。

型を教えるだけの指導
 しかしながら、自ら判断する、というのを放棄するという愚かさを人間は持っています。
 バスケットで、型を教え込むだけの練習があります。それは初心者にとっては大切です。けれども、型を教えるだけの練習しかしない指導者が多いように感じます。なぜなら、小学生は自ら判断する力がない、と指導者が考えているからでしょう。そして試合に勝つには、型を繰り返し教えることが近道、というのがあるのです。もちろん、それは教えられる側が、自ら判断することを放棄している人が多いからです。ミニバスケットだけではなく、テレビや新聞の偏向報道の根源に、視聴者が自らの判断を放棄している点があります。プラトンは、この人間の愚かさについて、「洞窟のたとえ話」で述べています。事実無根の報道が指摘され、非難されますが、その責任は全て報道するテレビや新聞にあるのではありません。本当どうかを判断するのは、視聴者であり国民なのです。責任の半分は少なくとも私達にあるのです。
 型を教え込むだけの指導はミニバスだけにとどまりません。中学校、高校でも基本単語の暗記だけ、配布プリントの暗記テストを行うだけの授業をする先生もいます。それは、学生には理由を教えても、自ら判断することを求めても 、ほとんど無駄であった、という経験をしてきたからかもしれません。私はそうした声を何度も聞いてきました。それは教えるクラスの全体の平均点を上げるには手っ取り早い方法です。私自身、高校で教え始めた時は、基本用語の暗記、試験のパターン解析を中心にしていました。
 ここではその指導方法や指導者と学生の質について踏み込みません。ただ、数年後に、人間の愚かさに直面して、そこに指導者が負けてしまっている、と思うようになりました。

人間の愚かさへの対処
 ここからの問題は、自ら判断しないという愚かさが、人間の根源にある、という事実を前提とします。そして人間の愚かさに対してどのように対処してきたのか、ということを分類していきたいと思います。

①人の愚かさ(自ら判断放棄をする人々)を受け止めても訴えかける人々
 :相手が言葉や行動で理解していなくとも教え続ける人々がいます。現在の私はここにあります。例えば、教えている国語教室には、毎日のように新しい生徒がきます。私はその教え子が継続して塾に入る(お金になる)かどうか、ではなく、その生徒にとって必要だと感じたら、言葉掛けは当然ですが、プリントや本を進呈します。そして入塾してもらうためだけの言葉掛けや行動はとりません。(ですから塾経営には向きません)。実際、本年も十冊以上本を進呈していますが、半分は入塾しませんでした。それでも良い、と私は考えています。生徒が大学に入学した後、あるいは不合格で働き始めた後、何かのきっかけで手に取って役に立つと私が考えたからです。私は私の判断を信じます。同時に生徒が学びだしてくれると信じているのです。
 近年は、高校野球で二つのタイプの指導が強豪校で見られるようになってきました。伝統的な型を教えるのが多い指導と、もう一つは高校生が自らの判断を取り入れる指導です。例えば、監督抜きでチームのキャプテンを決めさせることや、練習メニュー、集合時間など数多くの点を高校生に決めさせるタイプの指導を中心とした強豪校が出てきました。「高校生だけれども」、判断を日常生活の場面から任せて、それを試合の判断力の強化につなげて勝利を目指すのです。また、野球は選手の判断力が勝敗を決するスポーツの一つです。ですから、型を教える伝統的な指導でも、選手自らが判断力を養う練習もあります。対して水泳や陸上のように身体に練習をしみこませることが勝負を決するスポーツでは、優れた型を教えることに比較すると重きが置かれます。
 人の愚かさを受け止めても訴えかける人々は、教師や教育の現場で多くみられます。

②人間の愚かさをなくせると信じ続ける人々
 全ての人が自ら判断する能力を発揮できるようになる。なぜなら、それが人間に与えられた本性だから、と考える人々がいます。多くの偉人の言葉が心を打つのは、この前向きな信念が現実との差を気が付かせてくれるからです。

 「与えられた場所で咲きなさい。」

 という言葉に感動するのは、現実にはそうなっていないからなのです。加えて、その奥底には「与えられたと判断する本人」がいなければなりません。また、全員が「与えられた場所で咲ける」という考えに基づいた名言なのです。

 「孟子の四端説:全員に仁義礼智のもととなる感情がある。それを伸ばしなさい。」

 も同様です。全員に人間の愚かさをなくして仁義礼智を習得できるという考えに基づいた名言なのです。同じく、仏陀は「人には仏陀になる本性がある」と言っています。イエス・キリストは私達を「迷える子羊(判断を迷う愚かなる者)」と言い、そして神の愛によって救われると最後の晩餐で説いています。
 人がどのような頑固者になっても、ボケてしまっても、必ず救ってくださる、必ず救われると信じることの偉大さの根源には、人間の愚かさをなくせると信じることがあるのです。
 私が介護士を目指す専門学生に「ターミナルケアにおける死」という授業を教えるに際、以下のように言われました。

 「(介護施設や養護施設の)利用者は、現状維持が最も良くて、いかに落ちていくのを食い止めるかが課題です。ですから、暗い未来に向き合う覚悟が介護士には必要なのです。」

 小学生は教えればどんどん知識を吸収し、体も大きくなり足も速くなります。つまり、明るい未来があるのです。対して利用者には暗い未来がある。この現実を受け止めることは厳しいものがあります。それでも、暗い未来ではなく全員が明るい未来に向かっている、あるいは向かえると信じられる人々がいるのです。
 教師でも「悪い学生ほど可愛いし、指導したい」という先生がいます。「いい学生、普通の学生は放って置いても大丈夫。悪い学生は教師が手間暇かけて信じてあげることで必ずまっとうになる」という言葉を、私は何度聞いてきたことでしょうか。そして感動に胸を震わされたことでしょうか。それは心の底では私が信じられないからこその感動なのです。

③人間の愚かさはなくせない(本人の責任なので)と考える人々
 ②からの続きですと聞こえは悪いかもしれませんが、世の中は③を前提としています。バイトの面接で採用する際に②のように「悪い子ほどバイトに採用したい」としていたら会社は倒産してしまいます。
 実際の授業でも、集中しない学生、最もできない学生に合わせてしまうと、一年間の授業で教科書の半分も終わらないでしょう。相手が自らの愚かさに向かい合うかどうかではなく、実際に出来るか出来ないかで判断するのを世の中は前提にしています。
 古くは孫子やマキャベリのような現実主義者は、「人は愚かなものがいるのだから、それを受け入れてこちらの対処を考えよう」と主張しました。そこには「人間の愚かさはなくせないという前提」が含まれています。孫子の「兵は詭道(きどう)なり」とは「相手に自分の判断を教えない」という意味です。それは愚かさを含めて自分がどのような判断をするか教えず、相手にとって不気味な存在者でありつづけることが大切である、という考え方です。現代の日本が、中華人民共和国の行動様式が解らないのは、まさに「兵は詭道なり」なのです。現代日本の中国分析者の何人かは、「中国は軍閥がいくつもあって実際にはその中で何が起こっているか全くわからない。」と分析します。つまり、日本から見れば愚かなことも愚かでないこともする状態にあることで相手に自分の判断をつかませないようにする、それが最も戦略上最も有効である、と主張するのが孫子の「兵は詭道なり」の本質なのです。何をしてくるか判る相手、何を考えているか判る相手に勝つというのは、さほど難しくないのです。
 教師では、生徒が何をしてくるか判らない状態に毎時間合わせていては教科書が終わりません。ですから、ひたすら暗記を強要するのが、実際に点数を底上げすることになります。

人の愚かさと向かい合う
 以上のように人の愚かさとその対処法について書いてきました。書いてきて感じるのは以下のことです。

 「世の中は人の愚かさが中心にある。」

 「人間の愚かさが活力のもとである。」

 全員が学び続け、自分で判断し続けていったらどうなるでしょうか。熱血教師が「やればできる。自分で考えよう」をずっと全員が続けたら、どうなるでしょうか。私は将棋のコンピュータソフトがその未来を示している、と考えています。将棋のコンピュータソフトは、過去の棋士が残した棋譜を覚えているのです。ですから、「過去の正しい判断の全ての蓄積」が将棋のコンピュータソフトの土台なのです。そうするとコンピュータソフトは似たような手を指すようになっていきます。けれども、そこには間違いも、愚かさゆえに広がる多様な形がなくなっていくのです。なぜなら最適な回答は数多くないからです。学問の世界でも、特に物理学は法則が一つです。ですから、全員が学び続け、自分で判断し続けていったら、回答が数多くない形にまとまっていくことでしょう。
 そうなれば、タバコもお酒もない世界になるでしょう。お酒は最近、お酒を分解したアセトアルデヒドの毒性が主張されるようになりました。胃がんなどの多くのがんの原因である、と実証されてきました。政治でも経済の世界でも愚かな行為を繰り返しています。であるからこそ、適度な刺激や幅が出てきているのです。子供が大人のように正しい判断を学んで行動したら「子供らしくない」となるでしょう。
 冒頭で、

 「前に教えたことが出来ていないなぁ。」

 と書きましたが、全員の子供ができたとしたら、指導しても面白みがありません。そしてミニバスの試合は、いかに身長が高いか、いかに練習時間を費やしたか、いかに生まれながらの運動能力が高いか、だけで決まってしまいます。すると、試合をする前からコンピューターシミュレーション(コンピュータによる結果予測)で結果が判断出来てしまいます。これでは試合をする面白みがなくなります。ですから、ギャンブルも宝くじもなくなるでしょう。尺八や詩吟のような伝統文化も同じです。私達は教えられてもなかなかできないものです。ですから、色々な結果が出るのです。そこに面白みがあります。面白みを生み出すという意味で、世の中の中心に人間の愚かさがあるということなのです。

 個人の視点で考えてみましょう。相手が愚かだからこそ、どのような行動をとるか判らないものです。見知らぬ相手と会話するときに緊張します。それは相手の反応がどのようになるか判らないからです。それゆえ意思疎通できた時には嬉しくなります。
 反対に、相手が愚かでなければ反応は正しいものであり、予想可能です。コンピュータにプログラムされた人形が、いつでも同じ反応をするようなものです。自動販売機の前に立つと「いらっしゃいませ」、購入すると「ありがとうございました。またどうぞご利用ください」と音声を出しますが、何も面白みがありません。そのような反応では嬉しくなく、活力が出ません。人間には愚かさがあり反応が千差万別だからこそ、緊張し楽しいのです。旅行に行っている最中も楽しいけれど、旅行に行く前のどきどきとした楽しさは、どのようなことになるか緊張するからこその楽しさなのです。
 
 子供のミニバスで、ふと思った感想から、人間の愚かさまで風呂敷を広げてしまいました。またまだ、穴だらけですが、一つの気づきが得られました。感謝いたします。


 付記:同号の別の掲載文に書きましたが、本文の内容は、国立国会図書館へと向かう一泊旅行で思いついた内容です。

政策の見やすい図(2017衆院選)

 朝日新聞と、東京大学が、選挙の候補者別のわかりやすい、見やすい図を作って下さいました。

 当ブログで、「同じような図がほしい」と発言していましたので、ご紹介します。

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候補者アンケート (朝日・東大谷口研究室共同調査)
 http://www.asahi.com/senkyo/senkyo2017/asahitodai/?ref=yahoo
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 特に今回は、希望の党、立憲民主党が、直前に結党されました。

 政党と、候補者による違いもよくわかります。

 お勧めです。


付記:当ブログでの発言は、インフォームド・コンセント(情報公開と同意)のために必要な条件としてです。
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