【石門心学】素晴らしい学生の話 ―石田梅岩の影響力― 


 朝八時過ぎの学校廊下で、

 「おはよう。」

 「おはようございます。」

 「そうだ、リンさんて二十代だっけ?」

 「ええ、もうすぐ三十代ですけど。」

 「そうだ、リンさん、リンのこと記事に書いてもいい?」

 「え?」
 と驚きの次に渋い顔・・・

 「どうしたの?」

 「だって、私の本心を知ったらみんなに嫌われちゃう。」

 少し女性らしい言葉づかいですが、ひょろり、として背筋の伸びたベトナム男性です。

 「大丈夫だよ、行動だけ書くから、いい?」

 「・・・じゃあ、良いところだけ書いてくださいね。」

 「うんうん、約束するよ。」

 と言って私は蛍光水色のダウンジャケットを脱ぎました。

 リンさんは奉職する国際ことば学院外国語専門学校の三年生で、ビジネスやパソコンなどの授業で担当してきました。元々能力が高かったのですが、学校で伸びた学生の一人でした。
 留学生は日本語能力試験に合格して、その努力と能力を認められます。他方、能力試験に合格して満足してしまい、それ以上伸びない学生がいるのも事実です。

 「リンさん、いつから先生に敬語を使うようになったの?」

 「よく、わかりませんが・・・」

 「この学校に入ってから?」

 「たぶん、そうだと思います。T(横に座っている他の学生)くんが、先生にプリントをもらう時に『いただけませんか』や『お願いします』と言うんだよ、と教えていたのを聞いていたのです。ちょっとずるいですが、怒られたくないから真似しました。」

 という会話がありました。リンさんは、能力試験以外の日常会話も学びの場としており、能力を伸ばしていっていました。少し謙遜しすぎるきらいもなくはないのですが、素直に会話できる学生です。

 昨年「国際ビジネス」という科目を担当しました。グローバリズムやアメリカ主導の金融資本主義、中華人民共和国の経済成功を支える政策や変遷、日本の内需型経済の特徴や敗戦後の奇跡の経済発展などを取り上げました。その後、田中真澄先生の本を通して、日本の老舗が多いことを取り上げました。ちなみに、二百年以上続く老舗を持つ国の第二位はドイツです。ドイツが二度の世界大戦で破滅したのにも関わらず、こうして欧州第一の大国にのし上がってきたのは、老舗の持つ力だという視点で取り上げました。
 寄り道が長くなりましたが、「老舗を持つためには、商人道(思想)がいること、日本では石田梅岩先生が説いたこと」を伝えました。具体的には、

 「どんなことでも、自分の心を美しくするために行います。心をこめて行うと他人に褒められなくても、お金をもらわなくても、自分を誇れるようになります。」

 と述べたのです。石田梅岩著『都鄙問答(とひもんどう)』の現代語訳も見てもらいました。
 リンさんは学校のボランティア活動に参加しており、毎朝早く来て、学校の前の道路に立って交通整理を行ってくれています。学校終了後も同じです。朝逢うと声をかけます。

 「おはよう。」

 「おはようございます。」

 「いつもありがとう。」

 「いえいえ(小さい声で)。」

 ある朝、少し早く行ったのでリンさんがいませんでした。自転車を学校の前に止めて、自動販売機で温かいお茶を買おうとしました。すると、リンさんが寒い中、外のロッカーにホースで水を掛けて洗っていました。

 「リンさん。おはよう。何しているの?」

 「おはようございます。ゴミ出しをしたので、その後を洗っていたのです。」

 「え?! それは偉いね~すごい。」

 「いえいえ。」

 というので、思わず私の持っていた温かいお茶を差出しました。

 「飲んで、あげるよ。」

 「え?先生いいですよ。」

 「いやいや、素晴らしいよ。是非とも。」

 とグイっと差出しました。

 「じゃあ、遠慮なく、遠慮しませんので、ありがとうございます。」

 「リンさん。」

 「はい。」

 「どうしてそんなにボランティア頑張れるの?」

 私の素直な気持ちをぶつけました。私が学生の時はボランティアをしようという考えを持てなかったからです。

 「『心を美しく』ですよ、先生。」

 「?! (なんと?!)」

 「でも、みんな、僕の心の中を知ったら、汚くておどろきますよ。」

 「いや~そうだったかぁ。」

 石田梅岩先生の「心を美しく」を継承する人がここにいたのでした。時代、文化、国籍を超えていたのでした。リンさんありがとう御座います。素晴らしい学生が石田梅岩先生を学んでくれました。
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【随想】物憂(ものう)いの弥生(やよい) 


 満ち満ちた桜が散り流れていく三月になりました。

 「は・・・ぁ。」

 と、私はため息にならない程小さいため息をつくようになります。

 花粉症になる前から大きな、小さなため息をつき、部屋から出たくなくなります。年中で最も部屋から出ない時期でした。

 「弥生(やよい)」は旧暦の三月のこと、「草や木の芽が、いよいよ(弥)出てくる」ので名付けられたそうです。桜の蕾(つぼみ)が膨らみ始め、満開となり散っていくこの時期は、卒業の季節でもあります。

物憂いの原因が分かる
 大学院を出てから高校講師になり、学生指導に熱心に取り組みました。自分でも不思議な程、学生から人の温かさを教えてもらい、また、教材づくりを率先し工夫を凝らしました。学生との濃い交流が深まれば深まるほど、その反動が物憂い、となって三月末に出てきたのでした。
 ただ、当初は原因が自覚できませんでした。

 「どうしてか分からないけれど、寂しい。」
 「なんでだろう、何を食べても美味しくない。」
 「気分転換に、古本屋に行っても、喫茶店に行っても楽しくない。」
 「思い切って東京に映画を見に行っても、手ごたえがなかった。内容は悪くないのに。」

 原因が分からずに、

 「どうしてか、この時期気分が落ち込んでしまって・・・部屋から出なくなるんだよね。下手すると一週間丸々でないこともあるんだよ。」

 友人は、

 「それって、学生がいなくなったからじゃない? 普通だよ。」

 と助言してくれました。私は個人と個人の関係ならあるけれど、顔の定まらない卒業生全員に対して物憂うことがあるのかな?と思っていました。けれども、どうもそうらしかったのです。
 部屋に帰り、本年度作ったテスト対策プリントや授業プリント数十枚の束と、本年度の予習用ノート(授業ごとのクラスの進度や質問等が細かく記してある)を、ひっそりと見直してみました。あろうことか、とても驚いたのですが、史上最高に感動した映画「王妃マルゴ」を見た時のような、心の疼(うず)きを感じたのでした。涙さえでそうになるほどでした。
 そのようなことがあるのか、と自分自身に驚きました。その前後から、お涙ちょうだい話を聴いて、お涙がでそうになってきました。

 「おれも年をとった。」
 「自分も人らしくなってきた。」

 と感じました。富士論語を楽しむ会のお一人お一人の皆様の笑顔とお人柄を決して忘れることはありません。ですから、お隠れになられても、思い出を何度も繰り返して思い出します。その点は変わらないと想います。
 対して、特定の顔や性格が思い出せない卒業生全員について想うとは・・・と感じたのです。結婚前で子供が生まれる前でした。
 卒業式のある三月初旬から約一カ月、家から出なくなってしまうようになりました。本や漫画さえ読まなくなり、旅行に行く気もなくなるのでした。何をしても楽しくないのです。バスケットの練習(当時はチームが大会に参加していました)や食料品の買い出しなど必要最低限の外出に止めてしまいました。

物憂いの理由を振り返る
 現在の私が思い返して、物憂いの原因を述べてみます。

①学生指導に集中していたこと

 研究者はゆるやかな義務として研究をしなければなりません。当時はそれを一時保留しても高校生指導に心血を注いでいました。私は本来、自分の存在意義を考えるのが好きです。ですから、自分の存在意義を学生指導にのみ見出すようになっていたのです。卒業とはその存在意義が失われてしまうことを意味していたのです。また、入試に関わっておらず、在校生も来年度担当するのか不透明だったのです。それゆえ、学生が見えなくなる唯一の時期だったのです。この点もあったでしょう。何よりも学生指導に集中し、熱心さのあまり己の存在意義を依存するようになっていたのでした。

②他の存在意義を持たなかったこと
 静岡産業大学に論文を提出しまして、掲載された論文集が先週送られてきました。現在はこのように存在意義を他にも見出せるようになりました。
 また、家族の夫としての役割、父親としての役割が私の存在意義となっています。体調が悪くなければ、毎週末、外出したいかみさんがいます。つい先週も、「哲学とーちゃんの子育て 六 ―親の楽しみと子育て― 」に書いた清水港と伊豆土肥(とい)港フェリーで往復しました。かみさんが「どこかにいきたい」というので幾つか提案をして、最終決定したのです。子供達も外出好きで、「公園行きたい」、「プール行きたい」などと言っていました。引きこもって物憂いになりがちな私には、多少抵抗を感じますが、外出はためになっています。特にこの三月はそうです。といいますのも、昨年の三月は、あまり物憂いではありませんでした。
 本日は平成二十九年の三月九日、国際ことば学院外国語専門学校の卒業式が終わったばかりです。本年度はどうなるでしょうか。
 
③物憂いが本来の私であること
 上記の二つは、気持の晴れやかな私が本来の私であり、三月だけの物憂いは本来の私ではない、という考え方でした。
 けれども、私の本質を見てみれば、物憂いの私が本来に見えるのです。理系を経て哲学や思想へと踏み込む私の根っこにあるのは、目の前の生活や現実や仕事を活き活きと生きたい、という願望ではありません。そうした生活や現実や仕事を遠くから離れて観てみたい、という願望が強いのです。離れて観るので、若い時は皮肉に染まったり、世間から見れば悪いことをしたり、一見自暴自棄と考えられることをしたりしました。そして、大阪時代から十五年以上、ひっそりと詩を書き続けています。流行り廃(すた)りや事件事故は対象にせず、時代を超越することを詩にしています。これも私の本質です。ですから、私は物憂いが本来の私である、と想うのです。
 時々、子育てをしていてもイライラします。それは日常生活を営むからこそ出てくる苛立(いらだ)ちと同時に、私自身の物憂いのが出てきている時、例えば詩を書いている時、本や漫画などで浸っている時だからこその、イライラもあります。

物憂いの弥生の意味
 『論語』を学ぶ意味は、大きくあります。日常生活に立脚して、より善い生活にしたい、より善い社会にするために政治をしたい、という意味が一つです。
 もう一つは先ほどの物憂いの私と、日常生活を営む私の二つを一つ上の段階で結合させる、という意味です。
 若い頃は、皮肉屋で世間を遠くから離れて観ているので、「どんな仕事をしても関係ない」、「仕事は一所懸命して恩返しをしたい」という二つの面がありました。そして、気分によってどちらか一方の面でしか考えられなかったのです。
 それが二つが同時にあるという想える手がかりを得ました。哲学でいえば、この思考方法を弁証法(べんしょうほう)と言います。有名なのはヘーゲルです。
 普段の生活が嘘、という訳ではなく、一つ上の段階で少しだけ結合できるようになり、

 「仕事は所詮人の作りだしたものに過ぎないし、しなくても善い。同時に、仕事によって私の生活は支えられ多くの人への恩返しができる手段でもある。」

 と想っています。
 物憂いの弥生は、学生指導で出てきた私の新しい一面かと思っていました。確かに全員を対象にするという新しい面がありました。けれども、本来の私に立ち返る行為でもありました。
 まとめてみますと、新しい対象(要素)を取り込み、自分を一つ上の段階へ進もうとしているのが、物憂いの弥生でした。その物憂いが軽くなってきた、ということは・・・次の新しい対象を取り込む時期に来ているのかもしれません。
 卒業式の翌々日、少し時間ができたので、じんわりと、考えをまとめてみました。

配布プリント「生 -ことばにおいて-」と解説


 静岡英和女学院中学校・高等学校様で、60分の授業で配布したプリントです。

 プリントの解答と授業内容の簡単な内容を、プリントの下に書いております。
 実際の授業は、高校生向けですので、わかりやすい言葉をつかいました。
 授業は、石上国語教室様の依頼です。

静岡英和女学院女子中学校・高等学校様HP
http://www.shizuoka-eiwa.ed.jp/

石上国語教室様
http://www.kokugokyoushitsu.com/

 以下レジュメです。WORDのA4で表裏1枚配布です。

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                                            氏名              
                                  平成29年4月25日
生 -ことばにおいて-

問1 「生(せい)」とは、何ですか?

問2 「生」とは、あなたにとって何ですか?(書ける所までで結構です)

問3 朝目覚めて学校に来るまで、ことばを利用しました。ことばを利用しているもの(道具やルールなど)を、なるべく多く挙げて下さい。


○江戸時代に日本の道徳を作った石田梅岩(いしだばいがん)先生の子供時代のお話です。

 梅岩さんは三人兄弟の二男(次男)で、京から数時間歩く山深い村に住んでいました。8歳になったある日、梅岩さんは、山へ遊びにいきました。隣の山と、自分の家の山の間に栗が落ちていました。梅岩さんは、5,6個拾って、お昼ご飯に出しました。父親に「この栗を山で拾ってきました」と何気なく言いました。すると、父の権右兵衛(ごんべえ)は、「栗はどこに落ちていたのだい?」と尋ねました。梅岩さんは、「隣の山と、うちの山のちょうど境に落ちていました」と答えたのです。父は、「うちの山の栗が生えている場所からは、境に落ちていかない。けれど、隣の家の山の栗林からは境に落ちる。その栗は、隣の家の栗である可能性が極めて高い。それなのにお前は何も考えずに拾ってきたのか!」と怒りました。そして、お昼ご飯を途中で止めさせて、「直ぐに山の境に栗を持って行きなさい」と言いました。梅岩さんは「申し訳ありませんでした。」と言って、すぐに山の境に栗を戻したのです。(梅岩先生の幼年期の唯一残っているお話です。そして梅岩先生の家庭環境が伝わってくるお話です。)

問4 最も強く心に残った印象を、単語一語で書いて下さい。「        」
問5 梅岩さんのお父さんはどういう性格でしょうか。  「         」な性格
問6 感想を書いて下さい。


○クラス内の全員で1泊の旅行に行くとします。どこが良いでしょうか? 場所と理由を書いて下さい。
問7
行先[       ]:理由[                           ]
行先[       ]:理由[                           ]

問8 話し合いをして相手の良かった所を3点挙げて下さい。





○ヨハネによる福音書の冒頭です。
「1:1初めに言(ことば:Word)があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2この言は初めに神と共にあった。 1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 1:4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 1:5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。1:6ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。 」
英語で1:1「In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.」

問9 ヨハネによる福音書冒頭を読んでの印象を書いて下さい。

問10 映画「千と千尋の神隠し」で湯婆婆(ゆばーば)が、千尋(ちひろ)の名前で相手をしばる、というシーンがあります。このことを単語一語でいうと何でしょうか?   
[      ](漢字は2文字、平仮名4文字)
理由:

問11 授業全体の感想を書いて下さい。

問12 質問があれば書いて下さい。


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 以上、配布プリントです。
 以下、プリントの解答と講演の簡単な内容です。また、加筆修正してあります。

 石上国語教室様よりのご紹介をいただきました。小論文の連続講座の初回です。

 自己紹介をし、「今日は皆さんにお会いできたこと大変嬉しく思っています。感謝で一杯です」と述べました。続いて授業開始ですので上記の内容のプリントを配布し、黒板の上に向かって一礼をしました。

 「今日は、生、生きることについて皆さんにお話をしながら一緒に考えていきたいと思います。」
 「まず、何もお話せずに、問1を書いて下さい。」

 と授業を始めました。受講生20名、高校の先生方4名(内広報担当1名)、国語教室の方1名です。

○― 問1 「生(せい)」とは、何ですか? -

解答:「ことばを使うことが生」

 私達が生きていくためには、その状況や対象を正確に捉える必要があります。情報化社会に入り、特に情報を的確に理解することが求められています。授業の開始時に学生の皆さんに与えられている情報は、配布プリントのみです。配布プリントのタイトル「生 ―ことばにおいて―」と日付、そして問1の文だけです。ですから、生は「ことばにおいて」考える、ということが示されています。口頭では何も情報が与えられていません。その状況で与えられている情報の正確な理解ができるかどうか、を求めました。
 社会人になれば、税金や福祉、町内会など色々な状況が生まれてきます。結婚すれば伴侶との関係、親戚付き合いや、仕事をすれば会社内外での人間関係も加わります。そういう状況を的確に読み取り、何を求められているか、を考えて答えを出す力が「生きる」ために必要なのです。
 また、小学校、中学校、高校などの学校でも同様です。テストで問題を解く際に、教科書を参考にします。教科書ではなくTVの娯楽番組などを参考しては解けないのです。授業でも必ず先生は解くための助言を口頭や教科書等で示して下さいます。それを正確に受け取る力が、社会のみならず学校でも求められているのです。(前回は「死」とは何?で問いました。)

 つまり、少ないヒント=タイトルから「生とはことばを使うこと」を書けるようになって欲しいのです。そして今回の講義の核心は、「生きることをことばから考える」ということです。

 また、「生きる」とは、色々な答えがあります。化学反応としての「生きる」は、栄養を体内に取り込む消化活動や呼吸活動です。「人間とは社会(ポリス)的動物である」とアリストテレスは述べました。人間の目的は、自らが善く生きることと同時に共同体(ポリス)を作ってより善き世界を作ることである、と述べたのです。2000年以上昔の古代ギリシャ人のアリストテレスは、人間の個人の道徳と社会活動に注目しました。このように「生きる」と言っても答えは多種多様です。その中で1つを選ぶためのヒントが、「ことばにおいて」だったのです。別の言い方をすれば、化学の時間ならば、「生きること」は化学変化を常に起こしてエネルギーを取り込むこと=消化活動と答えなければなりませんし、社会の時間ならば人は社会活動を通して「生きる」と答えなければなりません。多種多様な答えを導くもの(ヒント)を状況から正確に読み取れるようになってもらいたいのです。


○― 問2 「生」とは、あなたにとって何ですか?(書ける所までで結構です) -

解答:「知り、調べ、作ること」(高木個人の見解)

 「あなたに」とありますので、学生さんの個人の考えを書いてもらいます。多く見られたのは「他人とのつながり(コミュニケーション)」や「悩みや苦しみを共有すること」や「命あるもののこと」や「生活」です。どのような答えでも構いません。ですので、書き方のアイディアを助言しました。
「5W1H(ごーだぶりゅーいちえいち)」
という発想方法です。5Wは、「What=何、When=いつ、Why=なぜ、Where=どこ、Who=だれ」で
          1Hは、「How=どのようにして」です。
 生きることは何? と考える人は、「いつ生きているの?」と考えてみましょう。「なぜ、生きるの?」と目的を考えたり、「どこで生きるの?」と状況を考えたりします。状況も、単に地上というだけでなく家族関係や人間関係などで発想して書きます。すると、沢山「生きる」ことに解答できるようになります。

問1と問2は同じ「生きる」を問うていますが、まったく別の問です。この点を説明しました。問1は答えが1つ、問2は沢山の答えが認められています。そしてこの問1と問2の答えを分けて答えることが、「生きる」ことにつながります。別の言い方をします。人は社会活動の側面と個人の内面と両面のバランスが必要です。社会活動が強すぎる人は周りに振り回されたり、お金や地位に執着したりします。すると社会活動で失敗すると自らの人生を失敗である、と考えてしまいがちです。同じく、財産が豊かになれば私の人生は成功した、と考えてしまいがちなのです。反対に内面が強すぎると、正義に偏り過ぎたり、人を好き嫌いだけで判断したりしてしまいます。完全なる悪人もいませんし、完全なる善人もいないのですが、一部だけを見て「あの人は嫌い。」とか「あの人は絶対信頼できる」と判断してしまいます。人間は、社会活動の側面と個人の内面のバランスを取りながら、生きていっています。先ほど述べた、「生きる」ことにつながる、という意味です。
そしてこの「生きる」の両方の側面の根底に「ことば」があるのを考えてもらうために、問3に進みます。

○― 問3 朝目覚めて学校に来るまで、ことばを利用しました。ことばを利用しているもの(道具やルールなど)を、なるべく多く挙げて下さい。 -

解答例(学生の皆さん):自転車に乗る。車が優先してくれる。携帯、電車、バス、目覚まし時計、挨拶、炊飯器、テレビ、お店の看板、歌、手紙…。

 学生の皆さんの解答は的確でした。私が示したのは「信号機」でした。信号は一見、「ことば」では示されていません。けれども、「赤」は「進むな」、「黄」は「止まれ(但し、交差点を除く)」、「青」は「進んでよし」と道路交通法「第二条第三項」(信号の意味等)で定められています。法律は「ことば」によって規定されているのです。他にも学校の校舎は建築基準法という「ことば」を利用しています。学生の皆さんが挙げてくれた携帯、電車、バスなどもそうです。電気信号を「ことば」を利用して基準を作って遠くとやり取りをしているのが携帯電話です。校舎横に生えている樹木は一見すると、自然に生えているように思えますが、この樹木が似合うだろうということで、人がトラックなどを利用して植えたかもしれません。このように数々の物事の根底に「ことば」があるようになってきています。少し難しい言い方をしますと、「社会を言語化している」となります。
 何万年も前の狩猟社会を想像してみてください。人間の「ことば」を利用したものは、人間の肉体の周りに限られていました。数少ない道具や衣服や会話などだけでした。土は自然のままにあり、木々もそのままでした。けれども、現代社会では「ことば」を基にして数々の物(存在者)が規定されるようになっています。特に19世紀末からの工業化社会とその大量生産によって加速しました。さらに、情報化社会によって、「ことば」は新しい世界を作り出すことになりました。「情報」とは「ことば」そのものなのですから、現実に存在しないバーチャル空間と言われる仮想空間は、「ことば」の塊りなのです。
 ここで気が付いてほしいことは、私達の現実の生活の奥底に「ことば」がある、という点です。そしてその「ことば」を深く捉えることが「生きる」ことを深く捉えることになるという点です。ですから、次に問4として石田梅岩先生の思い出話で、「ことば」そのものを考えてもらいたいです。


○― 江戸時代に日本の道徳を作った石田梅岩(いしだばいがん)先生の子供時代のお話です。

 梅岩さんは三人兄弟の二男(次男)で、京から数時間歩く山深い村に住んでいました。8歳になったある日、梅岩さんは、山へ遊びにいきました。隣の山と、自分の家の山の間に栗が落ちていました。梅岩さんは、5,6個拾って、お昼ご飯に出しました。父親に「この栗を山で拾ってきました」と何気なく言いました。すると、父の権右兵衛(ごんべえ)は、「栗はどこに落ちていたのだい?」と尋ねました。梅岩さんは、「隣の山と、うちの山のちょうど境に落ちていました」と答えたのです。父は、「うちの山の栗が生えている場所からは、境に落ちていかない。けれど、隣の家の山の栗林からは境に落ちる。その栗は、隣の家の栗である可能性が極めて高い。それなのにお前は何も考えずに拾ってきたのか!」と怒りました。そして、お昼ご飯を途中で止めさせて、「直ぐに山の境に栗を持って行きなさい」と言いました。梅岩さんは「申し訳ありませんでした。」と言って、すぐに山の境に栗を戻したのです。(梅岩先生の幼年期の唯一残っているお話です。そして梅岩先生の家庭環境が伝わってくるお話です。)

○― 問4 最も強く心に残った印象を、単語一語で書いて下さい。「 愛情(印象なので各人自由)    」

 理由:梅岩さんは農家の次男です。梅岩さんが地元で生きていくためには、地元の規則を守らなければ生きていけません。ましてや次男だから結婚も難しいのです。あるいは丁稚奉公で京都や大阪の大都市に出て商人や僧侶になるしか道は残されていませんでした。ですから、8歳という幼い頃から地元の規則を身にしみこませるように教えたのです。厳しさは梅岩さんの将来を想うがゆえの愛情です。正確に読み解いてくれた学生さんが何人もいて希望を持ちました。

○― 問5 梅岩さんのお父さんはどういう性格でしょうか。  「 愛情深く質実剛健  」な性格

 理由:愛情深い理由は問1に書いた通りです。質実剛健とは「飾り気がなく中身が充実したさま」を言います。子供に理由を説明しない点は飾り気がありません。また、厳しさを子供に言い聞かせる強さがあります。それは農家の当主としての中身が充実したさまから生み出されるのでしょう。
 次に、規則について少し述べます。通常の規則では「境のものはどちらがとっても良い」となります。これは古来から「清規(せいき)」と言われてきました。現在ならば国会の議決を通った法律そのものです。文字で書かれています。対して、実態に即した現場現場で替わる規則を「陋規(ろうき)」と言います。これは文字に書かれることは少ないものです。「清規と陋記」を最初に取り上げたのは、孔子と言われています。『論語』に

「私の村にはとても正直な者がいます。彼の父親が羊を盗んだとき、自らの父親を訴えたのです。」
孔子はこれを聞いて答えます。
「私の村の正直者というのはそれとは違います。父は子のために罪を隠し、子は父のために罪を隠します。本当の正直とはその心の中にあるものです。」

という一節があります。孔子は、法律のような「盗みは訴えなければならない」という「清規」よりも、「親と子供は助け合わなければならない」という文字に書かれていない「陋記」を優先することが正直の根本にある、と云っているのです。現代でも同様の問題があります。銀行は法律に基づいて銀行の窓口作業等を財務省に提出しています。けれども、現場の支店では各支店ごとに違う作業が行われていると聞きます。銀行員は入れ替わるのですが、各支店ごとの「陋記」があるのです。その時に、「法律に書かれた方法ではないから改めましょう」と移ってきたばかりの銀行員が店長に進言したらどうでしょうか? 「空気を読まない」や「独善的だ」と判断されてしまうかもれいません。陋記」を守ることが村で生きていくために大切なのです。
 梅岩さんの父親は文字が読めたかは定かではないですが、それでも清規よりも陋記を優先することを梅岩さんに教えました。梅岩さんの村はずっと村人が入れ替わりません。ですから、農村社会で生きていくための知恵を教えたのです。現在日本でも、同様の話はたくさんあります。法律通りに運用しないことは、銀行以外にも、原発、警察、教師など枚挙に暇がありません。

○― 問6 感想を書いて下さい。-

 天才や偉人の話にありがちな、「小さい頃から優れていました」という話ではないことが心に残りました。梅岩先生は有名になった後も、小さい頃を美化しなかったのでしょう。(梅岩さんの思想の土台を父親が教えられたのが推察されます。)

 石田梅岩先生の他の思い出話をお聞きになりたい方は、「エッセイ「【石門心学】 石田梅岩の思い出話 -問題付記- 」」をご覧ください。
http://takagikenziro.blog.fc2.com/blog-entry-571.html

 ここで学生の皆さんに読みとってもらいたかったことは、「文字に書かれたことば」と「こころのことば」の違いです。思い出話の「文字に書かれたことば」を読むと「父親は厳しい」となります。そこから一歩踏み込んで、「なぜ父親は厳しくするのだろうか?」と考えて、父親の「こころのことば」に思いを馳せて欲しいのです。「こころのことば」を完全には知ることは出来ませんが、それを推測するための助言はあるのです。文章冒頭の「江戸時代」、「二男(次男)」、「山深い村」です。問1~3で必ず導くためのヒントがありますよ、と言っていました。どれがヒントかな?と考えて欲しかったのです。


○クラス内の全員で1泊の旅行に行くとします。どこが良いでしょうか? 場所と理由を書いて下さい。
○― 問7
行先[       ]:理由[                           ]
行先[       ]:理由[                           ]

 ことばを実際に使って体感してもらうのが目的です。最初に行先と理由を書いてもらい、2人1組で話し合い1か所に決めてもらいました。時間配分が上手にできずに全員の前で発表する時間がなくなってしまいましたが、会話が盛り上がりました。これまで水が滴る音が聞こえるほど静かであった教室が一転して、高校生らしい活気にあふれました。

 学生さんの解答例:一番多いのは京都でした。ディズニー、北海道、沖縄、大阪、東京、鎌倉、下田、箱根、静岡、アメリカ、キャンプ、温泉、熱海などでした。

 そして次に進みます。

問8 話し合いをして相手の良かった所を3点挙げて下さい。




 学生さんの解答例:問いかけてくれた。相づちをうったり、共感してくれた。笑ってくれた所。自分の方を向いてくれた。目を合わせて話してくれた。異なった意見が出たこと。実体験を話してくれた。意見を尊重してくれる。きらきら笑顔!!! ステキ!!!。まとめてくれた。ほっぺがステキ。などです。

 直ぐに3つ書いてくれました。人の良い点を普段から観ているからでしょう。素晴らしいです。時間が余った人は良い点を4つも5つも書いてくれました。そして、これを声に出して相手に伝えてもらいました。

「話し合いをしてくれて有り難う御座いました。
 私は、①(良かった点)と、②(良かった点)と、③(良かった点)が良かったです。
 有り難う御座いました」

 と声に出して相手に伝えてください、と言いました。実際に声に出す、と聞くと驚きの声とも照れの声ともとれる声が聞こえました。しっかりしてくれました。
 ここで、ことばの3番目の種類が出てきました。黒板にまとめて書きました。

「文字に書かれたことば」
「声に出されたことば(音あり)」
「心のなかのことば(音なし)」

 「ことば」を深く考えていくと、3つに分けられます。普段は意識していませんが、現代社会を「生きる」と考える時、この3つの区別は重要です。と言いますのも、「心のなかのことば」:コントロールできないからです。
 例えば、嫌いな同級生がいる、とします。教室に入って、その同級生の顔を見た瞬間に「うわ!」と思うのは、コントロールできないのです。このコントロールできないのを「心のなかのことば」で何とかしよう、とするのはほぼ不可能です。ですから、それをどうするか、というと、コントロールできる「声に出されたことば」を使うのです。「あ、あの人はあまり好きではないけれど、授業の時間を守る良いところがある」と言うのです。その声に出したことばが、自分の気持ちを、こころを安定させてくれるのです。図にしてみます。

「声に出されたことば」:コントロールできる:行動だから
「心のなかのことば」:コントロールできない:形がないから

 そしてコントロールできる「声に出されたことば」で良い →「心の中のことば」を良く というのを「言霊(ことだま)」と言います。これが問10の答えです。そして、行動や「声に出されたことば」で「心の中のことば」を美しくしましょう、と言われたのが、石田梅岩先生です。
 石田梅岩先生は、「一所懸命働くこと」、「他人に美しいことばを書けること」、「誠実に生きること」は、自分自身の「心を美しく」すること、と話されております。何よりも誠実に生きることが自分自身のためです、と言い切られました。諺で「情けは人のためならず」:人に情けをかけるのは他人のためにではなく自分のためです、があります。同じ意味です。では、次に文化で観てみましょう。

○― 問10 映画「千と千尋の神隠し」で湯婆婆(ゆばーば)が、千尋(ちひろ)の名前で相手をしばる、というシーンがあります。このことを単語一語でいうと何でしょうか?   
[言霊(ことだま)](漢字は2文字、平仮名4文字)
理由: 神道ではお参りに時に必ず音を出します。また、神様を地鎮祭などで呼ぶ時に、音を出します。音によってコントロールできない神様を呼び出すのです。「ことだま」は「声に出して現実化する」と説明されることがありますが、正確ではありません。「声に出して現実化する」ことが可能ならば、私が「空を飛びたい」と声に出せば空を飛べることになります。これは「現実化する」のではなくて「心の中のことば」に影響を与えて、その人の心の中で実在化するのです。「現実化」と「実在化」を混同してしまったからでしょう。「現実化」とは物質を伴うことで、「実在化」とは「実際に存在する」で「心の中に存在する」という意味があるのです。英語では共に「realization」ですが、英語圏ではプラトンの哲学の影響で、この世界に存在しないイデア(完全無欠の形)を存在する(実在する)、と言います。この辺りは授業では飛ばしましたが、欧米での「現実」と「実在」は一致しない、という点を知っておいて下さい。例えば「数学」は「現実」ではありませんが、「実在」するのです。詳しく知りたい方は、プラトンの哲学をどうぞ。

 元に戻ります。私達が現代社会を「生きる」ために、「声に出されたことば」を使い「心のなかのことば」に働きかけることが必要なのです。それでは、こうした考え方が日本だけでなく世界中で古くから共有されてきたことを、ヨハネの福音書で観てみましょう。


○- ヨハネによる福音書の冒頭です。
「1:1初めに言(ことば:Word)があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2この言は初めに神と共にあった。 1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 1:4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 1:5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。1:6ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。 」
英語で1:1「In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.」

○- 問9 ヨハネによる福音書冒頭を読んでの印象を書いて下さい。

学生さんの解答例 
:言がどんどんつながっていっていると思った。言にはいろいろな意味があると思った。
:こころの持ちよう1つで、人は生きることができたり、死んでしまったりするということなんだなと思います。
:すべてのものの根底に、ことばがある。短い文章だがとても深いと思った。
:最初にあったものは言葉であったことに驚きました。言葉は神と共にあるほど重要なものなのだと思いました。
:言葉は偉大だと感じました。言葉は何よりも強い力をもっているのではないかと思いました。

 学生の皆さんの理解力の高さに感心しました。ことばが、現代社会の多くを支えており、グループワークの体験を通して3つの種類に分けました。そうしたことばの偉大さは地域や宗教を超えて着目されてきたという、今日の授業を的確に理解してくれました。

○- 問11 授業全体の感想を書いて下さい。

 いろいろな感想をいただきました。反省すべき点もあり、希望を頂く感想もありました。「有り難うございました」と書いてくれた学生さんが何人もいました。ことばを大切にしてくれています。

○- 問12 質問があれば書いて下さい。

学生さんの問:思わずコントロールできない行動ができないときもあると思うのですが、どうすればいいのでしょう?

 10回声に出して読みました。
他の先生にもお聞きして、以下の意味だと推測します。違いましたら申し訳ありません。

「思わずコントロールできなくなってしまい、思い通りの行動がとれなくなってしまうことがあります。その時はどうすればいいのでしょう?」

解答です。

まず、深呼吸をしましょう。
相手が目の前にいるのでしたら、「少し待ってください」と断りをいれてから深呼吸をしましょう。

 思い通りの行動ができない時、「心の中のことば」ではなく、「声に出したことば」=行動でコントロールをしましょう。大切なのは行動によって自分をコントロールする、ということです。ですから、手を大きく広げるのもいいかもしれません。あるいは、時計(携帯)を見る、手で顎(あご)を触る、一旦、目をつむるなどでも良いでしょう。一流のスポーツ選手は、癖と言われる行動で自己コントロールをしています。
 私も2月の授業の最初にあがってしまいました。自分で顔が硬直するのが分かりました。ですので、皆さんの反対側の黒板を向いて軽く深呼吸をしました。気持ちが落ち着きました。

 また、試験のように前もって分かっている場合では、十分に準備をすることで、思い通りの行動が取れるようになります。一流のスポーツ選手は、1か月前くらいから練習の量や質をコントロールし、食事の栄養素などを1,2週間前から調整していきます。資格試験や入試試験などでは時間もありますから、準備を入念にしましょう。

 ただ、失敗した後ですが、準備不足の点を反省したら、くよくよしないようにしましょう。準備期間の4年間あるオリンピックで失敗する選手がいます。その失敗を何年もくよくよしません。くよくよしないからこそ、集中して練習し次によい結果が出てくるのです。結果は出来ごとに過ぎません。結果の意味や価値は、本人の気持ち次第です。

「よし、次は準備万端にするぞー! 自分の悪い点を教えてもらてよかったー!」

ぐらいの気持ちで行きましょう。

 以上です。

 英和女子学院中学校・高等学校の皆さま、学生の皆さん、石上国語教室の方々のお陰で授業を行うことができました。感謝申し上げます。

 帰宅して直ぐに目を2回通しました。学生の皆さんが静岡の、日本の希望だと感じました。

【随想】哲学とーちゃんの子育て 十四 ―お菓子と韓非子―


 三月十日(金曜日) 朝八時、自動車の中での会話。

 「とっくん、シートベルトしていない。」

 「ごめんなさい…(小さい声で)。」

 下唇をプーッと出して、ふてくされた。
 少し言わなければならない、と直感した。

 「とっくん、今日は普段より遅い時間だよね。」

 「…」

 「どうして遅れたかわかる?」

 「…ん…」

 「今日はとっくんとまなちゃんの最後の遠足の日でしょ。だから、おかーちゃんは一所懸命お弁当を作ってくれた。だから遅れたんだよ。」

 「…うん…」

 「それなのに、とっくんがいっつもやっているおとちゃんのシートベルトをしないで、とっくんも自分のシートベルトをしなかったら、遅れちゃうよ。」

 「うん。」

 「おかーちゃんが頑張ってくれたんだから、きちんと、とっくんも頑張ろう。」

 「うん、はい。」

 「おとーちゃんも、今日はお仕事あるんだよ。でも、遅いからお手伝いで自動車に乗っているでしょう。」

 「そうだね。お仕事大丈夫?」

 「大丈夫だよ、ありがとう。」

 「そっかよかった。」

 「とっくん、次はきちんとお手伝いできるようになろうね。朝、神社に行く換わりに、おかーちゃんのお手伝いできて偉かったよ。頑張ることを増やしていこうね。」

 「わかった。」

 今日は保育園最後の遠足です。三キロ弱を四歳から六歳が合同で歩いて、森下公園に行きます。森下公園は静岡駅南口から徒歩七分の巨大な遊具のある公園です。
 一週間前からワクワクしていました。説治郎(とくじろう:六歳七か月)とまない(:四歳九か月)が手をつなぐ二人組にしてもらいました。一昨日は、「お菓子二百円まで」で、問屋さんなら安くて沢山買いに行きました。
 とっくんは、十円のお菓子(二十円のも十円で売っていることもある)を大量に買い、金貨のようなチョコレートを幾つか買っていました。全体がバラバラでした。
 まないは、最初二十円のプリキュアのガムを十個買おうとしました。三個入っているので合計三十個ガムを買うことになります。「そんなに食べれないよ」というと、「そっか」と素直に聴いて、いちごのジュース(ビニール入り)や、ちっちゃな苺味風のソフトクリームコーンなどを買っていました。全体が桃色でした。
 昨日も寝る時に「明日は遠足楽しみだね~」と言って寝ていました。
 今朝は「おとーちゃんん、だっこ」と言って抱き着いてきて抱っこをして階段を下りていた時、

 「まなちゃん、今日は何の日だっけ?」

 とまだ寝息が聴こえそうな力が抜けていた体に、キュッと力が入った後、

 「遠足だー!!」

 と元気な声を出すほどでした。
 心底、楽しみにしていたのです。

 朝御飯の時、とっくんに聴いてみました。

 「とっくん、お菓子は先生とお友達とどっちにあげるの?今日は。」

 何故聞くんだろう、と不思議そうな表情をして、

 「お友達・・・○○くんと、○○くんに…。」

 「とっくん、先生だよ。」

 「…?」

 「先生にあげるんだよ。なぜかわかる?」

 「…わかんない。」

 「今日の遠足は最後の遠足でしょ。だから、Y先生とM先生と過ごす最後の遠足だよね。だからお礼をきちんとして下さいね。普段の遠足はお友達でいいんだよ。でも今日は最後だから、『ありがとう御座いました』ってね、お礼をしてくださいね。」

 表情が、パッパァーと明るくなって、

 「うん、そうだね、とーちゃん。」

 と答えました。

 子供は判断力があります。けれども、経験や知識がないので客観視が難しいのです。春秋戦国時代(支那)の諸子百家の一人、韓非子は以下のように述べています。

 「人主(じんしゅ:君主のこと)は、人々をして公(おおや)けのことに力を尽くさせることを楽しみとし、臣(しん、おみ)が私欲を以(もっ)て君の権威(刑と賞)を奪うことを苦しみとする。」
 『韓非子』 第八巻 用人 六章

 場合に合うように意訳します。

 「保育園の先生は、園児たちが公平さや健全さを身につける姿を楽しみにしています。園児たちが自分やその限られた友達だけで我儘になること、そして園児全員がルールを守らず、喧嘩ばかりして先生の言うことを聴かなくなるのを嫌だと思うのです。」

 韓非子は韓という国の王子の一人でしたが、生まれつき吃音障碍(きつおんしょうがい:口がきけないこと)で文章を書くのが上手でした。生まれ故郷の国が自分やその限られた仲間だけで利益を独占して、弱くなっていくことを嘆(なげ)いて本を書いたのです。

 韓非子は公平さのために、

①自分ではなく広い視点から見なさい。
②ルールを守ることが大切です。

 と言っています。幼児の時には①と②がなく、お菓子は自分や自分と仲の良い友達だけで食べようとします。もちろん、それはそれで大切です。けれども、今回は最後の遠足です。①の広い視点から見れば、「先生のお礼を申し上げる最後の機会」となるのです。

 同じ章で続けて以下のように書いています。

 「…つねづね人を侮(あなど)ってはひそかに痛快とし、しばしば盗人に追い銭のようなことをする。これはおのが手を切り落として玉(ぎょく:宝石のこと)を代わりに継ぐようなものである。…」

 場合に合うように意訳します。

 「毎日、保育園の先生の悪口を、裏で言っている。そうやって先生を軽蔑していると、お菓子を買っても保育園の先生に差し上げなさい、と言わなくなってしまう。
 子供が『○○くんにお菓子をあげるんだ』というと『そうか、ならもっとお菓子を買ってあげよう』と買ってあげてしまう。これは子供が自分の利益だけを考えても良いんだよ、と教育していることになる。そうすると、親子関係は体と手が切り落とされるように、血が同じでもバラバラになってしまう。何故なら、親子関係が宝石のように金銭の授受でしか成立していないからである(公平さがないからである)。」

 韓非子は二千二百年前の人ですが、見事に子育ての本質を描き出しています。結局韓非子の韓の国は、始皇帝の秦に滅ぼされてしまいます。韓非子の思想は法家としてその後、世界に絶大な影響力を与えました。

 私自身、息子が「お友達とお菓子を分けるんだ」と言った時に、それを聞き落さなくて良かった、と胸をなでおろしています。他方、百回の躾の機会があれば、二、三回言えれば伝わる内容だとも思います。

 朝食で会話をして、バタバタと朝の支度をして自動車に乗り込み、冒頭の会話がありました。会話の後にもう一度、聞きました。

 「とっくん、お菓子はどうするんだっけ?」

 「まず、Y先生とM先生にあげるよ、二個ずつね。」

 「そっか~えらいなぁ。でも一個でいいんじゃない?」

 「ううん、二個ずつにするよ。」

 まないやおとはにも、何時か伝えたいと思います。そしてその内容を私自身の道徳にしたいと思います。


引用書
 本田濟(わたる)著 『韓非子』 筑摩書房 千九百八十二年五月三十日 初版第十版

エッセイ「【歴史】北条政子が大都市を築く ―宗教政策を担当―」

「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した原稿です。
 読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。以下本文です。


 北条政子の三回目になります。初回は北条政子の優れた政治力、前回は北条政子の秀でた心性を書いて来ました。今回は、当時の史実に基づいて、実際に担った政治役割を挙げていきます。それは、これまでの研究者が目を向けていない宗教政策です。当時の史実『吾妻鏡(あずまかがみ)』を下調べしていて、「これはワクワクする!!」と感じました。

要約

 まず、冒頭に要約をつけます。

(1)政子が宗教政策を担当

 北条政子は初登場から神社(お寺)を人並み以上に敬う。
  ↓
 源頼朝と結婚後も神社を敬い、政策も担当する。
  ↓
 源家は神社を敬うので御家人たちが信用して鎌倉に移り住んだ。
  ↓
 鎌倉は東国一の都市に成長し、鎌倉政権の基盤となった。

(2)政子のトラブル解決方法

 北条政子はトラブルの時、自分で乗り込んで行って丁寧に話し合う。(初登場から:高木発見?)
  ↓
 話し合いの基準は宗教に基づく義理である。
  ↓
 その基準に反した時、長男頼家さえ権力から外す。
  ↓
 ただし、肉親の情は大切にし、母親として頼家を可愛がった。[頼家の遊び(蹴鞠:けまり)は参観している。]

北条政子とは

 最初の方もいらっしゃるかと思いますので、政子の経歴を挙げます。初回、前回と同じ内容です。

 北条政子(ほうじょうまさこ):保元(ほうげん)二年誕生、嘉禄(かろく)元年没す。六十九歳歿(ぼつ)、西暦千百五十七年~千二百二十五年。

 ○現在の静岡県出身(伊豆の国市韮山駅近辺の「北条」という地名の場所)で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。

 ○鎌倉幕府を安定した政治体制に導いた。他方、平氏は、兵庫県神戸市に政治体制(福原京)を開こうとしたが計画倒れとなる。

 ○「政子」は西暦千二百十八年に命名されたものであり、それ以前の名前は不明。

 ○通称は、鎌倉幕府樹立後「御台所(みだいどころ)」、夫の死後に尼になり「尼御台(あまみだい)」、藤原氏から将軍を迎えた実権を握ったので「尼将軍」と変わる。

 ○頼朝との恋愛話や嫉妬深い悪女、高い政治手腕など数々の評価がある。


北条政子は主婦であったのか? 頼朝の死以前

 今回の内容が始まります。まず、これまでの歴史研究を挙げます。「史実に基づく正確な伝記シリーズ」として有名な吉川弘文館の人物叢書(そうしょ)シリーズがあります。北条政子を担当される渡辺保先生は、頼朝の死前後の北条政子の政治役割について以下のように書かれています。

 「これ(頼朝の死)で頼朝の妻としての政子の生活は終わり、あとに十八歳の頼家(よりいえ)と十五歳の乙姫(おとひめ)と八歳の実朝(さねとも)とをかかえた政子の、母としての生活が始まるのである。」
 『北条政子』 渡辺保著 吉川弘文館 八十五頁

 渡辺先生は、北条政子に政治力という視点を当てておりません。頼朝を家庭で補佐する立場(妻)として政子を描き出し、頼朝の死によって、仕方がなく母の役割を担ったと解釈しています。
 同じく、同著百七十九から百八十頁の「あとがき」には以下のように書かれています。

 「これらの事情(政子が悪妻の評価を受ける事情)を考えながら、先入観を去って史実に当たると、やはり政子は普通の女性からあまり離れてはいない。時勢の流れに押されて波瀾ある生涯を送り、それも決して幸運とばかりは言えない一生だった。…(中略)…どれも不自然ではなく非人間的でもなく、その場にあたって当を得た態度だったことは、本文に書いた通りである。ただありきたりの凡愚な女性にはできなかったであろうことを、政子はなし得た、という結論になると思う。」

 北条政子は妻として幸せな生活に満足していたけれども、頼朝の死によって仕方がなく政治の表舞台に立たされ、最低限の政治役割を果たした女性である、と評価されています。積極的に政子に踏み込んで政治力から光を当てようという姿勢ではありません。
 確かに『吾妻鏡(あずまかがみ)』を読みますと、政子は初期に殆ど出てきません。例えば『現代語訳 吾妻鏡』 五味文彦・本郷和人[編]では、九十五頁の頼家懐妊までは四か所ほどです。一見すると妻として家庭内で満足していた、と読めます。

確実な歴史資料『吾妻鏡』に登場する政子
 初回に後世になって北条政子の悪妻の評価などが派生したことを渡辺保先生などが指摘されています。そこで政子と同時代の人物が書き残した確実な歴史資料『吾妻鏡』に登場する政子を引用します。まずその四か所を挙げて考えてみたいと思います。
 高木は北条政子が初期から政治力を持って鎌倉政権を支えていた、と観て解釈していきます。日付などから新しい発見がありました。

北条政子登場の四つの場面
 最初は場面説明、①~④が本文と西暦の日付、考察がつきます。

 一番目
 頼朝が毎日の勤行(ごんぎょう:毎日の読経や礼拝)が戦場に向かうので出来なくなってしまうと心配していた。

 ①「そうした時に伊豆山に法音と号する尼がいた。これは御台所(政子)の読経の師匠であり、一生不犯(ふぼん)の者だという。そこで毎日(頼朝が)行っていることをその尼に命じてはどうかと(政子が)申されたので、すぐに目録を遣わしたところ、尼は了承したという。」 
 千百八十年八月十八日

 考察:政子も頼朝も読経を行う習慣を持ち合わせていたこと、また、政子がより一生不犯の師を仰ぎ本心からであり、頼朝より熱心なことが判ります。

 二番目
 頼朝の御家人たちが行き来して狼藉(ろうぜき)が見られるので、走湯山(そうとうさん:現、走湯山権現。同、伊豆山神社 静岡県熱海市)の衆徒が訴えて来たので、世情が安定したら土地の寄進を約束した。

 ②「これによって衆徒はみなたちまちに怒りをおさめた。晩になって御台所(政子)が(走湯山の)文陽房覚淵(もんようぼうかくえん)の坊にお渡りになった。(藤原)邦通と(佐伯:さえき さいき)昌長らが御供をした。世情が落ち着くまで密かにここに寄宿されるという。」
 千百八十年八月十九日(翌日)

 考察:地元の大切な神社と頼朝の新しく来た御家人たちのトラブルは避けられないものです。そのトラブルは治め方が政治です。頼朝ではなく、政子自身が乗り込むことでそのトラブルを見事に納めています。後年、頼朝の死後、十八歳の若い頼家と大人(頼朝の重臣達)の御家人とのトラブルも同じく、政子が相手側に泊まり込むことで治めています。リーダー同士の腹を割った話し合いは、京都に直接乗り込むなど政子が生涯を通して続けていきます。その最初がさりげなく書いてあります。つまり、政子は己の政治の形を若い時代から身につけていた、という視点で捉えられるのです。

 三番目(状況説明は省きます。)

 ③「御台所(政子)が伊豆山から秋戸郷(場所不明 伊豆の国内)へとお移りになった。」
 千百八十年九月二日(約二週間後)

 考察:約二週間後に先ほどの紛争の場所から移動しています。つまり、事態収拾に約二週間をかけています。日付に注目することで政子がじっくりと腰を据えて解決したことが浮かび上がってきます。例えば、二、三日では人の気持ちが落ち着きません。後々、不満が噴出(ふきだ)して紛争が蒸し返されることは、よく見聞きします。逆に、二、三ヶ月も寺に滞在していては紛争当事者の片方とだけなれ合っているように取られてしまいます。この二週間と言う長さは政治家として見事だと思いますし、現代でも同様だと想います。政治力を見出そうとして浮かび上がったのは、この二週間という時間の掛け方でした。では、紛争は治まったのでしょうか。

 四番目

 ④「卯の刻(約早朝五時から七時)に御台所(政子)が鎌倉に入られ、(大庭:おおば)景義がお迎え申した。昨夜伊豆国阿岐戸(あきど:秋度)郷からすでに到着されていたものの、日柄が悪かったため、稲瀬川辺の民家にお泊りになっていたのだという。
 また、走湯山の住僧である専光坊良暹(せんこうぼうりょうせん)が、(頼朝の)兼ねてからの御約束により、鎌倉に到着した。良暹と武衛(ぶえい:源頼朝)は長年にわたり祈禱の師と檀那(だんな)の間柄である。」 
 千百八十年十月十一日(約一か月後)

 考察:本文に続けて、同日、走湯山の僧の到着が記されています。つまり、北条政子と一緒に鎌倉まで旅をしてきたのが推察されます。紛争が十分収拾して、伊豆山と良好な関係を築いたのが読み取れます。
 また、現代語訳の本文には「(頼朝の)兼ねてよりの御約束により、」とありますが、その根回しをしたのは政子でしょう。以上の二点から政子は事態の収拾だけでなく、地元の信仰篤い神社とも人間関係を築いたと判別できます。その期間僅かに一か月。けれども、「機を見るに敏」の諺通り、仲良くなって信頼を得て次の段階に進むのに一か月です。絶妙の時間というべきです。

 以上が、政子と同時代の人物が書き残した確実な歴史資料『吾妻鏡』に登場する政子です。

補足:『吾妻鏡』を読み面白かった点
 また、『吾妻鏡』に目を通しますと、以下のことが判って面白かったです。

 A) 源義経(よしつね)が幼い頃からわがままで筋を通さない人であったこと。 四十九頁
 つまり、頼朝が政権を握りたくて無実の義経を排斥したのではなく、義経の方にも筋を通さないという責任が浮かび上がってきました。

 B) 源頼朝が公平な裁定を行った例として、浅羽庄司宗信が挙げられていること。八十六頁
 静岡県の元浅羽町の由来になった浅羽さんのご先祖様でしょうか。

北条政子と宗教政策

 『吾妻鏡』に登場する北条政子は、全て宗教に関することで記録が残っていました。この線で『吾妻鏡』を読むと引っかかる場所が出てきます。

 「(頼朝は)走湯山の僧侶である禅睿(ぜんえい)を鶴岡八幡宮寺の供僧(ぐそう)ならびに大般若経衆(だいはんにゃきょうしゅう)に任命し、鶴岡の西谷の地に免田(めんでん:役目の替わりに年貢を免除する田)二町(だいたい百㍍×二百㍍位)を賜る旨の御下文(みくだしぶみ)を与えたという。」 九十二から九十三頁
 千百八十一年十月六日(ほぼ一年後)

 ④からほぼ一年後に地元の神社から鶴岡八幡宮に僧侶を迎えて重要な役割を担わせたのです。宗教勢力を引き入れるのに約一か月、その人物を信頼するのに約一年を掛けているのが判ります。伊豆山を取次(担当)したのが北条政子なのは、④で判っていますので、政子の人を見る目が正しいこと(慧眼)が察せられます。
 次に宗教そのものから観てみます。走湯山は「権現=日本の神は仏の仮の姿」と考えており、八幡神は起源については諸説ありますが、清和源氏の守り神でした。それぞれ別の神や仏なのです。このように考えると、上記の一文は、大和らしい「宗教宥和(ゆうわ)政策」と読むことができます。
 政子と宗教政策を追ってみると、さらに、幾つもの記述が浮かび上がってきます。それは北条政子も源頼朝も宗教=鶴岡八幡宮へ何度も何度も参拝し、何度も何度も寄進をしているのです。例えば、頼朝が後年、奥州藤原征伐の際、政子は鶴岡八幡宮にお百度参りをしています。

 また、頼朝は(伊勢の)神宮の内宮や外宮の所領安堵や治安維持、奈良の東大寺再建供養などなど数々の宗教勢力の保護を努めています。そもそも『吾妻鏡』の第一巻は、御家人の話と宗教政策で殆どの頁が占めています。

北条政子と宗教政策の持つ意味

 鶴岡八幡宮は海辺にありましたが、頼朝によって現在の山側に移されました。長子頼家の誕生の際にまっすぐな道に直しました。頼朝は、この鶴岡八幡宮を大切にすることで数々のことを成し遂げました。それは以下の通りです。

イ) 先祖と共に自ら関東の土地に根を下ろすという決意表明

 頼朝の父義朝(よしとも)は関東武士を引き連れて京都で権力争いを行い、敗れて部下に殺されました。関東武士からすれば自分達に寄り添ってくれる政治権力を欲しており、それを満たす意味があります。

ロ)神の前で政治の公平性を誓うこと

 権力者に近ければ優遇される政権(公家)は、前回述べたように全国から税金が入る京都ならば合理性があります。けれども、関東武士の求めるものは、政治の公平さによる安定です。それによって農作業に集中でき、豊かになるからです。ちなみに、発足して間もない鎌倉政権は、権力争いを繰り返す公家政権に、何度も助けられました。

ハ) 関東武士の求める土地の確保

 京都の公家政権(藤原氏、平氏)による土地の担保がなされていませんでした。特に関東平野では不明確で裁定者がいませんでした。その裁定者としての役割を担い、農作業に集中する必要が政治機構として求められていました。

ニ)東国一の都市へ発展
 イ)~ハ)を見た御家人たちは続々と鎌倉に屋敷を立てて、またたく間に東日本の中心地になりました。なぜなら、鎌倉政権の安定によって土地問題が解決し、結果として安心して豊かな生活を送れるからです。つまり、関東武士たちは鎌倉政権を「おのれの命を懸けて守る」という意気込みを持ったのです。「一所懸命」や「御恩と奉公」という言葉が残っています。その根源が宗教政策であり、神の前で誓う公平性なのです。「一所懸命」も「御恩と奉公」も権力者の依怙贔屓で左右されないことを含意しています。
 つまり、鶴岡八幡宮を大切にすることで、関東武士=支持基盤を確保することになるのです。宗教政策は鎌倉政権の根幹を支える要素となりました。それを率先して行ったのが北条政子なのです。また、先ほどの引用した二番目から四番目に挙げたように具体的な行動として調整を行ったのです。
 他にも数々ありますが、一つだけ別の例を挙げます。

 不行き届きがあり身柄を拘束されていた長尾新六定景という者が「法華経を大事にして、毎日転読(てんどく:見て読む、覚えて読む)して決して怠ることがなかった」として「すぐにお許しになられたという」(八十五頁)とあります。神仏への帰依を政権の判定基準に中心に据えていたことが判ります。

 対して平氏は、平清盛が頼朝に味方するだろうと考えて(実際には反乱していない)、園城寺(おんじょうじ:三井寺 滋賀県大津市)と興福寺(こうふくじ:奈良県奈良市)を攻めました。そして全ての建物が燃やされました。(五十九から六十四頁) 
 阿修羅像だけは持ち出せたのでしょう、奈良時代から現存していますが、それ以外は室町時代のものです。

宗教政策の持つ政治性

 渡辺保先生は源頼朝と北条政子の政治役割について以下のように書いています。

 「いわば貴族性と土豪性(どごうせい:土地の小豪族)とを調和させるところに、源頼朝の役割があった。そして彼自身は、どちらかと言えば前者の色彩が濃いし、またそれを好んだのであろうが、しかしあくまでも後者の性格を失わなかったところは、北条時政・政子の存在がその働きをつとめたと言えよう。」
 『北条政子』 二十四から二十五頁

 渡辺先生は歴史解釈の通例通りです。これに、高木は第三の要素を加えたいと考えます。つまり、貴族性(源氏の血塗られた歴史とスケールの大きさ)と土豪性(関東武士の家族愛と土地への執着)を調和(接合)する第三の要素としての宗教性です。その根拠は先程書いたイ)~ニ)の政治力です。同時に、平氏との対立を鮮明にして政権の正統性を確立するなどの役割も、鎌倉政権の宗教政策は果たしています。その宗教政策を当初から担い、表に裏に活躍したのが北条政子なのです。

貴族性としての頼家と宗教性としての政子
 頼朝は落馬で死にました(脳卒中とも)。十八歳で長男頼家が鎌倉政権の頭領になりました。しかし、イ)~ハ)に反して頼家は貴族性が強く出てしまいます。
 ①自分の側近五人だけしか会話をしない。(公平性に反する。)
 ②依怙贔屓(えこひいき)をする。(頼朝の重臣を軽く扱う=御恩と奉公に反する。)
 ③部下の側室(妾)を寝とっておいて疑心暗鬼になり殺害しようとする。(義に反する。)
 ④蹴鞠(けまり)遊びばかりする。(一所懸命に反する。)

 などです。

 当時、北条政子は、長女大姫、夫頼朝、次女三幡(さんまん)を失ったばかりでした。また、頼家自身も病弱であったと言われています。しかしながら、頼家が貴族性に浸り、公家政権のような政治をしようとした時、政子がそれを止める事件が起こります。
 言い換えれば鎌倉政権の支持基盤が関東武士にあることを無視して、頼家が現実逃避をするのを何とか止めようとするのです。③部下の側室を寝とっておいて疑心暗鬼になり殺害しようとする事件です。要約して簡潔に述べます。

 「安達景盛は自分の国である三河国(愛知県)へ事件解決に出立しました。その間に頼家は側近に命じて景盛の妾を強引に連れ出して寵愛しました。以前に何度も手紙を送って断られていました。頼家のある側近の家に置き、側近五人以外は接近禁止にしました。一か月ぶりに安達景盛が帰ってくると、『怨みを持っているに違いないと思い込み(実際には反乱していない:平氏の宗教政策と同じ)』、兵を動かして殺してしまう命令を出しました。鎌倉は合戦前の雰囲気になったのです。
 政子は、先ほどの側近が押し寄せていた景盛の父蓮西の家に自分が乗り込みました(冒頭の走湯山のトラブルと同じ解決方法)。そして頼家に手紙を出します。

 頼朝が亡くなり、次女三幡もなくなったばかりです。今戦闘を好まれるのは乱世の源です。頼朝は景盛を信頼し可愛がっておられた。彼に罪があるなら私(政子)が尋問して成敗しましょう。事実も確かめずに殺してしまうのはきっと後悔するでしょう。それでもなお彼を罰せようとするなら、まず私にその矢を向けなさい。

 翌日も父蓮西の家にいて、景盛に「後々野心はありませんと起請文を頼家に出しなさい」と政子は言います。その手紙を頼家に渡しながら、政子は頼家に手紙を書きます。

 昨日のことは乱暴の至りで、義理を欠きます。国内(日本か鎌倉か判りません)の防備は整っていないし、政治を嫌悪し民の苦しみを考えていない。他人の妾を楽しんで反省しなかったことに原因がある。また、側近達も賢い人とはいえない。源氏が政権を作り上げたのに北条の力が大きかった。それなのに北条を大切にしていない。周りの人を下に見て本名で呼んで馬鹿にしている(通常は官職名で呼ぶ)ので怨みを残すと言われている。それであっても今回のことを冷静に対処すれば、合戦は起こらないでしょう。」

 以上が、頼家が貴族性に傾いた事件の顛末です。政子は宗教の持つ公平さに立って、裁定を下しています。そして結局頼家は権力を奪い取られ、頼朝の重臣の合議制に権力が移るのです。

政治権力強化としての宗教性
 政治から考えれば、権力者が他人の妾に手を出すのは古今東西の権力者の常です。ですから、一般人の道徳ではなく、政治から観てみますと、以下の点が浮かび上がってきます。

 ア) 側近から公平な助言がない
 イ) 政権が権力者に近い人々で独断される
 ウ) 過去の実績が失われ信頼関係が不安定になる

 どれもが権力の融解(ゆうかい)の原因になります。北条政子はしっかり全ての点に釘をさしています。そして最後には、実子で数少ない長男頼家をお飾りの将軍としてしまいます。対して政権の権力を強固にするために、十三人の御家人の合議制を制度化するのです。そして権力を継続させます。
 もし、わが子が可愛いと母として政治を行ったとしましょう。すると、京都の公家政権と同じく不安定になってしまいます。現代では権力が融解している典型例はシリアです。十万人近くの虐殺、数百万人の移民、難民が発生しています。権力の融解が、悲惨なことを巻き起こすのです。政子が頼家から権力を奪い取らなければ、現在のシリアと同じく、関東平野では虐殺、移民、難民が発生していたでしょう。
 関東は公家政権の権力が強固ではないので、凄惨な殺し合いを続けてきた土地だったことが思い起こされます。北条政子は頼朝の父義朝(よしとも)が、関東に下ってきて混乱を引き起こしたのが頭にこびり付いていたのかもしれません。歴史はこの権力の融解と強固の繰り返しで、無益な人々が殺され続けてきたことを教えてくれています。

 同じ合議制を制度化した豊臣政権ではどうだったでしょうか。五大老と五奉行を持った豊臣政権は、淀の方が五奉行の石田三成だけを依怙贔屓して、権力を融解させてしまいます。つまり、合議制を制度化しても実行力が伴わなくなってしまったのです。鎌倉政権も、その後、数々の反乱がおこります。けれども、権力の融解は起こらず、約百五十年続きます。

まとめ
 今回は、『吾妻鏡』から北条政子の最初の四つの登場を引用しました。宗教政策にかかわり、自ら乗り込んで問題を解決する姿勢が明らかになりました。また、頼朝の貴族性と鎌倉武士の土豪性を鶴岡八幡宮の宗教性で結びつける大きな役割も担っていました。その結果として関東武士は安心して鎌倉に集まり大都市となったのです。その陰に、政子を含めた鎌倉政権の宗教の融和政策や宗教の公平性があったのです。政子は前回指摘したように支持基盤は殆どありませんでした。その意味で驚嘆すべき政治力です。二代目でつぶれる会社や政治権力の多い中、政子は継続させることができました。政子の政治力の大きさを一つ見ることができたと思います。


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