【随想】哲学とーちゃんの子育て 十四 ―お菓子と韓非子―


 三月十日(金曜日) 朝八時、自動車の中での会話。

 「とっくん、シートベルトしていない。」

 「ごめんなさい…(小さい声で)。」

 下唇をプーッと出して、ふてくされた。
 少し言わなければならない、と直感した。

 「とっくん、今日は普段より遅い時間だよね。」

 「…」

 「どうして遅れたかわかる?」

 「…ん…」

 「今日はとっくんとまなちゃんの最後の遠足の日でしょ。だから、おかーちゃんは一所懸命お弁当を作ってくれた。だから遅れたんだよ。」

 「…うん…」

 「それなのに、とっくんがいっつもやっているおとちゃんのシートベルトをしないで、とっくんも自分のシートベルトをしなかったら、遅れちゃうよ。」

 「うん。」

 「おかーちゃんが頑張ってくれたんだから、きちんと、とっくんも頑張ろう。」

 「うん、はい。」

 「おとーちゃんも、今日はお仕事あるんだよ。でも、遅いからお手伝いで自動車に乗っているでしょう。」

 「そうだね。お仕事大丈夫?」

 「大丈夫だよ、ありがとう。」

 「そっかよかった。」

 「とっくん、次はきちんとお手伝いできるようになろうね。朝、神社に行く換わりに、おかーちゃんのお手伝いできて偉かったよ。頑張ることを増やしていこうね。」

 「わかった。」

 今日は保育園最後の遠足です。三キロ弱を四歳から六歳が合同で歩いて、森下公園に行きます。森下公園は静岡駅南口から徒歩七分の巨大な遊具のある公園です。
 一週間前からワクワクしていました。説治郎(とくじろう:六歳七か月)とまない(:四歳九か月)が手をつなぐ二人組にしてもらいました。一昨日は、「お菓子二百円まで」で、問屋さんなら安くて沢山買いに行きました。
 とっくんは、十円のお菓子(二十円のも十円で売っていることもある)を大量に買い、金貨のようなチョコレートを幾つか買っていました。全体がバラバラでした。
 まないは、最初二十円のプリキュアのガムを十個買おうとしました。三個入っているので合計三十個ガムを買うことになります。「そんなに食べれないよ」というと、「そっか」と素直に聴いて、いちごのジュース(ビニール入り)や、ちっちゃな苺味風のソフトクリームコーンなどを買っていました。全体が桃色でした。
 昨日も寝る時に「明日は遠足楽しみだね~」と言って寝ていました。
 今朝は「おとーちゃんん、だっこ」と言って抱き着いてきて抱っこをして階段を下りていた時、

 「まなちゃん、今日は何の日だっけ?」

 とまだ寝息が聴こえそうな力が抜けていた体に、キュッと力が入った後、

 「遠足だー!!」

 と元気な声を出すほどでした。
 心底、楽しみにしていたのです。

 朝御飯の時、とっくんに聴いてみました。

 「とっくん、お菓子は先生とお友達とどっちにあげるの?今日は。」

 何故聞くんだろう、と不思議そうな表情をして、

 「お友達・・・○○くんと、○○くんに…。」

 「とっくん、先生だよ。」

 「…?」

 「先生にあげるんだよ。なぜかわかる?」

 「…わかんない。」

 「今日の遠足は最後の遠足でしょ。だから、Y先生とM先生と過ごす最後の遠足だよね。だからお礼をきちんとして下さいね。普段の遠足はお友達でいいんだよ。でも今日は最後だから、『ありがとう御座いました』ってね、お礼をしてくださいね。」

 表情が、パッパァーと明るくなって、

 「うん、そうだね、とーちゃん。」

 と答えました。

 子供は判断力があります。けれども、経験や知識がないので客観視が難しいのです。春秋戦国時代(支那)の諸子百家の一人、韓非子は以下のように述べています。

 「人主(じんしゅ:君主のこと)は、人々をして公(おおや)けのことに力を尽くさせることを楽しみとし、臣(しん、おみ)が私欲を以(もっ)て君の権威(刑と賞)を奪うことを苦しみとする。」
 『韓非子』 第八巻 用人 六章

 場合に合うように意訳します。

 「保育園の先生は、園児たちが公平さや健全さを身につける姿を楽しみにしています。園児たちが自分やその限られた友達だけで我儘になること、そして園児全員がルールを守らず、喧嘩ばかりして先生の言うことを聴かなくなるのを嫌だと思うのです。」

 韓非子は韓という国の王子の一人でしたが、生まれつき吃音障碍(きつおんしょうがい:口がきけないこと)で文章を書くのが上手でした。生まれ故郷の国が自分やその限られた仲間だけで利益を独占して、弱くなっていくことを嘆(なげ)いて本を書いたのです。

 韓非子は公平さのために、

①自分ではなく広い視点から見なさい。
②ルールを守ることが大切です。

 と言っています。幼児の時には①と②がなく、お菓子は自分や自分と仲の良い友達だけで食べようとします。もちろん、それはそれで大切です。けれども、今回は最後の遠足です。①の広い視点から見れば、「先生のお礼を申し上げる最後の機会」となるのです。

 同じ章で続けて以下のように書いています。

 「…つねづね人を侮(あなど)ってはひそかに痛快とし、しばしば盗人に追い銭のようなことをする。これはおのが手を切り落として玉(ぎょく:宝石のこと)を代わりに継ぐようなものである。…」

 場合に合うように意訳します。

 「毎日、保育園の先生の悪口を、裏で言っている。そうやって先生を軽蔑していると、お菓子を買っても保育園の先生に差し上げなさい、と言わなくなってしまう。
 子供が『○○くんにお菓子をあげるんだ』というと『そうか、ならもっとお菓子を買ってあげよう』と買ってあげてしまう。これは子供が自分の利益だけを考えても良いんだよ、と教育していることになる。そうすると、親子関係は体と手が切り落とされるように、血が同じでもバラバラになってしまう。何故なら、親子関係が宝石のように金銭の授受でしか成立していないからである(公平さがないからである)。」

 韓非子は二千二百年前の人ですが、見事に子育ての本質を描き出しています。結局韓非子の韓の国は、始皇帝の秦に滅ぼされてしまいます。韓非子の思想は法家としてその後、世界に絶大な影響力を与えました。

 私自身、息子が「お友達とお菓子を分けるんだ」と言った時に、それを聞き落さなくて良かった、と胸をなでおろしています。他方、百回の躾の機会があれば、二、三回言えれば伝わる内容だとも思います。

 朝食で会話をして、バタバタと朝の支度をして自動車に乗り込み、冒頭の会話がありました。会話の後にもう一度、聞きました。

 「とっくん、お菓子はどうするんだっけ?」

 「まず、Y先生とM先生にあげるよ、二個ずつね。」

 「そっか~えらいなぁ。でも一個でいいんじゃない?」

 「ううん、二個ずつにするよ。」

 まないやおとはにも、何時か伝えたいと思います。そしてその内容を私自身の道徳にしたいと思います。


引用書
 本田濟(わたる)著 『韓非子』 筑摩書房 千九百八十二年五月三十日 初版第十版
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エッセイ「【歴史】北条政子が大都市を築く ―宗教政策を担当―」

「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した原稿です。
 読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。以下本文です。


 北条政子の三回目になります。初回は北条政子の優れた政治力、前回は北条政子の秀でた心性を書いて来ました。今回は、当時の史実に基づいて、実際に担った政治役割を挙げていきます。それは、これまでの研究者が目を向けていない宗教政策です。当時の史実『吾妻鏡(あずまかがみ)』を下調べしていて、「これはワクワクする!!」と感じました。

要約

 まず、冒頭に要約をつけます。

(1)政子が宗教政策を担当

 北条政子は初登場から神社(お寺)を人並み以上に敬う。
  ↓
 源頼朝と結婚後も神社を敬い、政策も担当する。
  ↓
 源家は神社を敬うので御家人たちが信用して鎌倉に移り住んだ。
  ↓
 鎌倉は東国一の都市に成長し、鎌倉政権の基盤となった。

(2)政子のトラブル解決方法

 北条政子はトラブルの時、自分で乗り込んで行って丁寧に話し合う。(初登場から:高木発見?)
  ↓
 話し合いの基準は宗教に基づく義理である。
  ↓
 その基準に反した時、長男頼家さえ権力から外す。
  ↓
 ただし、肉親の情は大切にし、母親として頼家を可愛がった。[頼家の遊び(蹴鞠:けまり)は参観している。]

北条政子とは

 最初の方もいらっしゃるかと思いますので、政子の経歴を挙げます。初回、前回と同じ内容です。

 北条政子(ほうじょうまさこ):保元(ほうげん)二年誕生、嘉禄(かろく)元年没す。六十九歳歿(ぼつ)、西暦千百五十七年~千二百二十五年。

 ○現在の静岡県出身(伊豆の国市韮山駅近辺の「北条」という地名の場所)で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。

 ○鎌倉幕府を安定した政治体制に導いた。他方、平氏は、兵庫県神戸市に政治体制(福原京)を開こうとしたが計画倒れとなる。

 ○「政子」は西暦千二百十八年に命名されたものであり、それ以前の名前は不明。

 ○通称は、鎌倉幕府樹立後「御台所(みだいどころ)」、夫の死後に尼になり「尼御台(あまみだい)」、藤原氏から将軍を迎えた実権を握ったので「尼将軍」と変わる。

 ○頼朝との恋愛話や嫉妬深い悪女、高い政治手腕など数々の評価がある。


北条政子は主婦であったのか? 頼朝の死以前

 今回の内容が始まります。まず、これまでの歴史研究を挙げます。「史実に基づく正確な伝記シリーズ」として有名な吉川弘文館の人物叢書(そうしょ)シリーズがあります。北条政子を担当される渡辺保先生は、頼朝の死前後の北条政子の政治役割について以下のように書かれています。

 「これ(頼朝の死)で頼朝の妻としての政子の生活は終わり、あとに十八歳の頼家(よりいえ)と十五歳の乙姫(おとひめ)と八歳の実朝(さねとも)とをかかえた政子の、母としての生活が始まるのである。」
 『北条政子』 渡辺保著 吉川弘文館 八十五頁

 渡辺先生は、北条政子に政治力という視点を当てておりません。頼朝を家庭で補佐する立場(妻)として政子を描き出し、頼朝の死によって、仕方がなく母の役割を担ったと解釈しています。
 同じく、同著百七十九から百八十頁の「あとがき」には以下のように書かれています。

 「これらの事情(政子が悪妻の評価を受ける事情)を考えながら、先入観を去って史実に当たると、やはり政子は普通の女性からあまり離れてはいない。時勢の流れに押されて波瀾ある生涯を送り、それも決して幸運とばかりは言えない一生だった。…(中略)…どれも不自然ではなく非人間的でもなく、その場にあたって当を得た態度だったことは、本文に書いた通りである。ただありきたりの凡愚な女性にはできなかったであろうことを、政子はなし得た、という結論になると思う。」

 北条政子は妻として幸せな生活に満足していたけれども、頼朝の死によって仕方がなく政治の表舞台に立たされ、最低限の政治役割を果たした女性である、と評価されています。積極的に政子に踏み込んで政治力から光を当てようという姿勢ではありません。
 確かに『吾妻鏡(あずまかがみ)』を読みますと、政子は初期に殆ど出てきません。例えば『現代語訳 吾妻鏡』 五味文彦・本郷和人[編]では、九十五頁の頼家懐妊までは四か所ほどです。一見すると妻として家庭内で満足していた、と読めます。

確実な歴史資料『吾妻鏡』に登場する政子
 初回に後世になって北条政子の悪妻の評価などが派生したことを渡辺保先生などが指摘されています。そこで政子と同時代の人物が書き残した確実な歴史資料『吾妻鏡』に登場する政子を引用します。まずその四か所を挙げて考えてみたいと思います。
 高木は北条政子が初期から政治力を持って鎌倉政権を支えていた、と観て解釈していきます。日付などから新しい発見がありました。

北条政子登場の四つの場面
 最初は場面説明、①~④が本文と西暦の日付、考察がつきます。

 一番目
 頼朝が毎日の勤行(ごんぎょう:毎日の読経や礼拝)が戦場に向かうので出来なくなってしまうと心配していた。

 ①「そうした時に伊豆山に法音と号する尼がいた。これは御台所(政子)の読経の師匠であり、一生不犯(ふぼん)の者だという。そこで毎日(頼朝が)行っていることをその尼に命じてはどうかと(政子が)申されたので、すぐに目録を遣わしたところ、尼は了承したという。」 
 千百八十年八月十八日

 考察:政子も頼朝も読経を行う習慣を持ち合わせていたこと、また、政子がより一生不犯の師を仰ぎ本心からであり、頼朝より熱心なことが判ります。

 二番目
 頼朝の御家人たちが行き来して狼藉(ろうぜき)が見られるので、走湯山(そうとうさん:現、走湯山権現。同、伊豆山神社 静岡県熱海市)の衆徒が訴えて来たので、世情が安定したら土地の寄進を約束した。

 ②「これによって衆徒はみなたちまちに怒りをおさめた。晩になって御台所(政子)が(走湯山の)文陽房覚淵(もんようぼうかくえん)の坊にお渡りになった。(藤原)邦通と(佐伯:さえき さいき)昌長らが御供をした。世情が落ち着くまで密かにここに寄宿されるという。」
 千百八十年八月十九日(翌日)

 考察:地元の大切な神社と頼朝の新しく来た御家人たちのトラブルは避けられないものです。そのトラブルは治め方が政治です。頼朝ではなく、政子自身が乗り込むことでそのトラブルを見事に納めています。後年、頼朝の死後、十八歳の若い頼家と大人(頼朝の重臣達)の御家人とのトラブルも同じく、政子が相手側に泊まり込むことで治めています。リーダー同士の腹を割った話し合いは、京都に直接乗り込むなど政子が生涯を通して続けていきます。その最初がさりげなく書いてあります。つまり、政子は己の政治の形を若い時代から身につけていた、という視点で捉えられるのです。

 三番目(状況説明は省きます。)

 ③「御台所(政子)が伊豆山から秋戸郷(場所不明 伊豆の国内)へとお移りになった。」
 千百八十年九月二日(約二週間後)

 考察:約二週間後に先ほどの紛争の場所から移動しています。つまり、事態収拾に約二週間をかけています。日付に注目することで政子がじっくりと腰を据えて解決したことが浮かび上がってきます。例えば、二、三日では人の気持ちが落ち着きません。後々、不満が噴出(ふきだ)して紛争が蒸し返されることは、よく見聞きします。逆に、二、三ヶ月も寺に滞在していては紛争当事者の片方とだけなれ合っているように取られてしまいます。この二週間と言う長さは政治家として見事だと思いますし、現代でも同様だと想います。政治力を見出そうとして浮かび上がったのは、この二週間という時間の掛け方でした。では、紛争は治まったのでしょうか。

 四番目

 ④「卯の刻(約早朝五時から七時)に御台所(政子)が鎌倉に入られ、(大庭:おおば)景義がお迎え申した。昨夜伊豆国阿岐戸(あきど:秋度)郷からすでに到着されていたものの、日柄が悪かったため、稲瀬川辺の民家にお泊りになっていたのだという。
 また、走湯山の住僧である専光坊良暹(せんこうぼうりょうせん)が、(頼朝の)兼ねてからの御約束により、鎌倉に到着した。良暹と武衛(ぶえい:源頼朝)は長年にわたり祈禱の師と檀那(だんな)の間柄である。」 
 千百八十年十月十一日(約一か月後)

 考察:本文に続けて、同日、走湯山の僧の到着が記されています。つまり、北条政子と一緒に鎌倉まで旅をしてきたのが推察されます。紛争が十分収拾して、伊豆山と良好な関係を築いたのが読み取れます。
 また、現代語訳の本文には「(頼朝の)兼ねてよりの御約束により、」とありますが、その根回しをしたのは政子でしょう。以上の二点から政子は事態の収拾だけでなく、地元の信仰篤い神社とも人間関係を築いたと判別できます。その期間僅かに一か月。けれども、「機を見るに敏」の諺通り、仲良くなって信頼を得て次の段階に進むのに一か月です。絶妙の時間というべきです。

 以上が、政子と同時代の人物が書き残した確実な歴史資料『吾妻鏡』に登場する政子です。

補足:『吾妻鏡』を読み面白かった点
 また、『吾妻鏡』に目を通しますと、以下のことが判って面白かったです。

 A) 源義経(よしつね)が幼い頃からわがままで筋を通さない人であったこと。 四十九頁
 つまり、頼朝が政権を握りたくて無実の義経を排斥したのではなく、義経の方にも筋を通さないという責任が浮かび上がってきました。

 B) 源頼朝が公平な裁定を行った例として、浅羽庄司宗信が挙げられていること。八十六頁
 静岡県の元浅羽町の由来になった浅羽さんのご先祖様でしょうか。

北条政子と宗教政策

 『吾妻鏡』に登場する北条政子は、全て宗教に関することで記録が残っていました。この線で『吾妻鏡』を読むと引っかかる場所が出てきます。

 「(頼朝は)走湯山の僧侶である禅睿(ぜんえい)を鶴岡八幡宮寺の供僧(ぐそう)ならびに大般若経衆(だいはんにゃきょうしゅう)に任命し、鶴岡の西谷の地に免田(めんでん:役目の替わりに年貢を免除する田)二町(だいたい百㍍×二百㍍位)を賜る旨の御下文(みくだしぶみ)を与えたという。」 九十二から九十三頁
 千百八十一年十月六日(ほぼ一年後)

 ④からほぼ一年後に地元の神社から鶴岡八幡宮に僧侶を迎えて重要な役割を担わせたのです。宗教勢力を引き入れるのに約一か月、その人物を信頼するのに約一年を掛けているのが判ります。伊豆山を取次(担当)したのが北条政子なのは、④で判っていますので、政子の人を見る目が正しいこと(慧眼)が察せられます。
 次に宗教そのものから観てみます。走湯山は「権現=日本の神は仏の仮の姿」と考えており、八幡神は起源については諸説ありますが、清和源氏の守り神でした。それぞれ別の神や仏なのです。このように考えると、上記の一文は、大和らしい「宗教宥和(ゆうわ)政策」と読むことができます。
 政子と宗教政策を追ってみると、さらに、幾つもの記述が浮かび上がってきます。それは北条政子も源頼朝も宗教=鶴岡八幡宮へ何度も何度も参拝し、何度も何度も寄進をしているのです。例えば、頼朝が後年、奥州藤原征伐の際、政子は鶴岡八幡宮にお百度参りをしています。

 また、頼朝は(伊勢の)神宮の内宮や外宮の所領安堵や治安維持、奈良の東大寺再建供養などなど数々の宗教勢力の保護を努めています。そもそも『吾妻鏡』の第一巻は、御家人の話と宗教政策で殆どの頁が占めています。

北条政子と宗教政策の持つ意味

 鶴岡八幡宮は海辺にありましたが、頼朝によって現在の山側に移されました。長子頼家の誕生の際にまっすぐな道に直しました。頼朝は、この鶴岡八幡宮を大切にすることで数々のことを成し遂げました。それは以下の通りです。

イ) 先祖と共に自ら関東の土地に根を下ろすという決意表明

 頼朝の父義朝(よしとも)は関東武士を引き連れて京都で権力争いを行い、敗れて部下に殺されました。関東武士からすれば自分達に寄り添ってくれる政治権力を欲しており、それを満たす意味があります。

ロ)神の前で政治の公平性を誓うこと

 権力者に近ければ優遇される政権(公家)は、前回述べたように全国から税金が入る京都ならば合理性があります。けれども、関東武士の求めるものは、政治の公平さによる安定です。それによって農作業に集中でき、豊かになるからです。ちなみに、発足して間もない鎌倉政権は、権力争いを繰り返す公家政権に、何度も助けられました。

ハ) 関東武士の求める土地の確保

 京都の公家政権(藤原氏、平氏)による土地の担保がなされていませんでした。特に関東平野では不明確で裁定者がいませんでした。その裁定者としての役割を担い、農作業に集中する必要が政治機構として求められていました。

ニ)東国一の都市へ発展
 イ)~ハ)を見た御家人たちは続々と鎌倉に屋敷を立てて、またたく間に東日本の中心地になりました。なぜなら、鎌倉政権の安定によって土地問題が解決し、結果として安心して豊かな生活を送れるからです。つまり、関東武士たちは鎌倉政権を「おのれの命を懸けて守る」という意気込みを持ったのです。「一所懸命」や「御恩と奉公」という言葉が残っています。その根源が宗教政策であり、神の前で誓う公平性なのです。「一所懸命」も「御恩と奉公」も権力者の依怙贔屓で左右されないことを含意しています。
 つまり、鶴岡八幡宮を大切にすることで、関東武士=支持基盤を確保することになるのです。宗教政策は鎌倉政権の根幹を支える要素となりました。それを率先して行ったのが北条政子なのです。また、先ほどの引用した二番目から四番目に挙げたように具体的な行動として調整を行ったのです。
 他にも数々ありますが、一つだけ別の例を挙げます。

 不行き届きがあり身柄を拘束されていた長尾新六定景という者が「法華経を大事にして、毎日転読(てんどく:見て読む、覚えて読む)して決して怠ることがなかった」として「すぐにお許しになられたという」(八十五頁)とあります。神仏への帰依を政権の判定基準に中心に据えていたことが判ります。

 対して平氏は、平清盛が頼朝に味方するだろうと考えて(実際には反乱していない)、園城寺(おんじょうじ:三井寺 滋賀県大津市)と興福寺(こうふくじ:奈良県奈良市)を攻めました。そして全ての建物が燃やされました。(五十九から六十四頁) 
 阿修羅像だけは持ち出せたのでしょう、奈良時代から現存していますが、それ以外は室町時代のものです。

宗教政策の持つ政治性

 渡辺保先生は源頼朝と北条政子の政治役割について以下のように書いています。

 「いわば貴族性と土豪性(どごうせい:土地の小豪族)とを調和させるところに、源頼朝の役割があった。そして彼自身は、どちらかと言えば前者の色彩が濃いし、またそれを好んだのであろうが、しかしあくまでも後者の性格を失わなかったところは、北条時政・政子の存在がその働きをつとめたと言えよう。」
 『北条政子』 二十四から二十五頁

 渡辺先生は歴史解釈の通例通りです。これに、高木は第三の要素を加えたいと考えます。つまり、貴族性(源氏の血塗られた歴史とスケールの大きさ)と土豪性(関東武士の家族愛と土地への執着)を調和(接合)する第三の要素としての宗教性です。その根拠は先程書いたイ)~ニ)の政治力です。同時に、平氏との対立を鮮明にして政権の正統性を確立するなどの役割も、鎌倉政権の宗教政策は果たしています。その宗教政策を当初から担い、表に裏に活躍したのが北条政子なのです。

貴族性としての頼家と宗教性としての政子
 頼朝は落馬で死にました(脳卒中とも)。十八歳で長男頼家が鎌倉政権の頭領になりました。しかし、イ)~ハ)に反して頼家は貴族性が強く出てしまいます。
 ①自分の側近五人だけしか会話をしない。(公平性に反する。)
 ②依怙贔屓(えこひいき)をする。(頼朝の重臣を軽く扱う=御恩と奉公に反する。)
 ③部下の側室(妾)を寝とっておいて疑心暗鬼になり殺害しようとする。(義に反する。)
 ④蹴鞠(けまり)遊びばかりする。(一所懸命に反する。)

 などです。

 当時、北条政子は、長女大姫、夫頼朝、次女三幡(さんまん)を失ったばかりでした。また、頼家自身も病弱であったと言われています。しかしながら、頼家が貴族性に浸り、公家政権のような政治をしようとした時、政子がそれを止める事件が起こります。
 言い換えれば鎌倉政権の支持基盤が関東武士にあることを無視して、頼家が現実逃避をするのを何とか止めようとするのです。③部下の側室を寝とっておいて疑心暗鬼になり殺害しようとする事件です。要約して簡潔に述べます。

 「安達景盛は自分の国である三河国(愛知県)へ事件解決に出立しました。その間に頼家は側近に命じて景盛の妾を強引に連れ出して寵愛しました。以前に何度も手紙を送って断られていました。頼家のある側近の家に置き、側近五人以外は接近禁止にしました。一か月ぶりに安達景盛が帰ってくると、『怨みを持っているに違いないと思い込み(実際には反乱していない:平氏の宗教政策と同じ)』、兵を動かして殺してしまう命令を出しました。鎌倉は合戦前の雰囲気になったのです。
 政子は、先ほどの側近が押し寄せていた景盛の父蓮西の家に自分が乗り込みました(冒頭の走湯山のトラブルと同じ解決方法)。そして頼家に手紙を出します。

 頼朝が亡くなり、次女三幡もなくなったばかりです。今戦闘を好まれるのは乱世の源です。頼朝は景盛を信頼し可愛がっておられた。彼に罪があるなら私(政子)が尋問して成敗しましょう。事実も確かめずに殺してしまうのはきっと後悔するでしょう。それでもなお彼を罰せようとするなら、まず私にその矢を向けなさい。

 翌日も父蓮西の家にいて、景盛に「後々野心はありませんと起請文を頼家に出しなさい」と政子は言います。その手紙を頼家に渡しながら、政子は頼家に手紙を書きます。

 昨日のことは乱暴の至りで、義理を欠きます。国内(日本か鎌倉か判りません)の防備は整っていないし、政治を嫌悪し民の苦しみを考えていない。他人の妾を楽しんで反省しなかったことに原因がある。また、側近達も賢い人とはいえない。源氏が政権を作り上げたのに北条の力が大きかった。それなのに北条を大切にしていない。周りの人を下に見て本名で呼んで馬鹿にしている(通常は官職名で呼ぶ)ので怨みを残すと言われている。それであっても今回のことを冷静に対処すれば、合戦は起こらないでしょう。」

 以上が、頼家が貴族性に傾いた事件の顛末です。政子は宗教の持つ公平さに立って、裁定を下しています。そして結局頼家は権力を奪い取られ、頼朝の重臣の合議制に権力が移るのです。

政治権力強化としての宗教性
 政治から考えれば、権力者が他人の妾に手を出すのは古今東西の権力者の常です。ですから、一般人の道徳ではなく、政治から観てみますと、以下の点が浮かび上がってきます。

 ア) 側近から公平な助言がない
 イ) 政権が権力者に近い人々で独断される
 ウ) 過去の実績が失われ信頼関係が不安定になる

 どれもが権力の融解(ゆうかい)の原因になります。北条政子はしっかり全ての点に釘をさしています。そして最後には、実子で数少ない長男頼家をお飾りの将軍としてしまいます。対して政権の権力を強固にするために、十三人の御家人の合議制を制度化するのです。そして権力を継続させます。
 もし、わが子が可愛いと母として政治を行ったとしましょう。すると、京都の公家政権と同じく不安定になってしまいます。現代では権力が融解している典型例はシリアです。十万人近くの虐殺、数百万人の移民、難民が発生しています。権力の融解が、悲惨なことを巻き起こすのです。政子が頼家から権力を奪い取らなければ、現在のシリアと同じく、関東平野では虐殺、移民、難民が発生していたでしょう。
 関東は公家政権の権力が強固ではないので、凄惨な殺し合いを続けてきた土地だったことが思い起こされます。北条政子は頼朝の父義朝(よしとも)が、関東に下ってきて混乱を引き起こしたのが頭にこびり付いていたのかもしれません。歴史はこの権力の融解と強固の繰り返しで、無益な人々が殺され続けてきたことを教えてくれています。

 同じ合議制を制度化した豊臣政権ではどうだったでしょうか。五大老と五奉行を持った豊臣政権は、淀の方が五奉行の石田三成だけを依怙贔屓して、権力を融解させてしまいます。つまり、合議制を制度化しても実行力が伴わなくなってしまったのです。鎌倉政権も、その後、数々の反乱がおこります。けれども、権力の融解は起こらず、約百五十年続きます。

まとめ
 今回は、『吾妻鏡』から北条政子の最初の四つの登場を引用しました。宗教政策にかかわり、自ら乗り込んで問題を解決する姿勢が明らかになりました。また、頼朝の貴族性と鎌倉武士の土豪性を鶴岡八幡宮の宗教性で結びつける大きな役割も担っていました。その結果として関東武士は安心して鎌倉に集まり大都市となったのです。その陰に、政子を含めた鎌倉政権の宗教の融和政策や宗教の公平性があったのです。政子は前回指摘したように支持基盤は殆どありませんでした。その意味で驚嘆すべき政治力です。二代目でつぶれる会社や政治権力の多い中、政子は継続させることができました。政子の政治力の大きさを一つ見ることができたと思います。


エッセイ「【歷史】北条政子の秀でた心性 ―自分の弱さから広い視点へと― 」

「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した原稿です。
 読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。以下本文です。


 前回に引き続き、北条政子を取り上げます。まず、前回「亀の前事件」を「豊の前」と誤っておりました。訂正致します。
 前回は、北条政子の優れた政治力として、権力に必要な上下関係をつけた事件として、「亀の前事件」を考えました。
 今回は、その「優れた政治力」を生み出した北条政子の秀でた心性=心の態度、に迫りたいと思います。その事件として、義経の側室静御前が、頼朝と政子の前で義経を想う舞をまった事件を取り上げます。これまでは、政子は女性らしい感情から静御前をかばった、と考えられてきました。また、ある女性史研究家は「権力者に対して堂々と意見を言った姿」と考えました。私は、北条政子の支持基盤の弱さと源氏の過去の歴史から静をかばった、と考えます。
 そのためにまず、政子の支持基盤の弱さを述べます。つまり政治判断を問われた彼女の最初の危機を見ていきます。「危機に立った時、その人の本性が現れる」と思いますので、そこに政子の秀でた心性が現われていると思うのです。
 最初の方もいらっしゃるかと思いますので、前回の繰り返しになりますが政子の経歴を挙げます。

北条政子とは

 北条政子(ほうじょうまさこ):保元(ほうげん)二年誕生、嘉禄(かろく)元年没す。六十九歳歿(ぼつ) 西暦千百五十七年~千二百二十五年です。
 ○現在の静岡県出身(伊豆の国市韮山駅近辺の「北条」という地名の場所)で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。
 ○鎌倉幕府を安定した政治体制に導いた。他方、平氏は、兵庫県神戸市に政治体制(福原京)を開こうとしたが計画倒れとなる。
 ○「政子」は西暦千二百十八年に命名されたものであり、それ以前の名前は不明。
 ○通称は、鎌倉幕府樹立後「御台所(みだいどころ)」、夫の死後に尼になり「尼御台(あまみだい)」、藤原氏から将軍を迎えた実権を握ったので「尼将軍」と変わる。
 ○頼朝との恋愛話や嫉妬深い悪女、高い政治手腕など数々の評価がある。

危機に立たされた時、人間はどうするか?

 北条政子の秀でた心性を理解するために、そもそも危機に立たされた時、人間はどのような態度を取るのか、㋑から㊁の四つに分けてみます。

危機に立たされると

㋑自分で手一杯(感情のままにふるまう)
  :混乱、事実否認、一つの観念に凝り固まるなど。

㋺自分の外を見る(周りを見わたす、自分の小ささに気づく。)

 危機に陥るとその瞬間は、誰もが「㋑自分で手一杯」になります。そのまま㋑に留まっていると、状況の整理ができず、事実否認や事実誤認が起こります。原因の全否定や全責任を押し付ける、などです。日常世界でも政治の世界でも、自然科学者の世界でもよくあることです。
 そもそもこの世において、原因が己に一切なく相手にだけ悪があり否定される、ということはありません。私達が『論語』を学ぶのも、相手だけに責任を押し付けるのではなく、自らを反省することを勧めるからです。かみさんと喧嘩をすると甘えてしまって、相手にだけ責任を押しつけたくなってしまうのですが。
 話を戻しますと、事実の整理や責任追及をしない「有効な」対応策の検討に手をつけることで、㋺自分の外を見る段階に進みます。そうすると、自分の立ち位置や幾つかの重要な要素が浮かび上がってきます。そして何らかの対応策が見えてきてきます。こうして「㋑自分で手一杯」から抜け出せるのです。
 このままの状態を受け止めることもできますが、次の段階にも移れます。

㋩心細くなる
 :グループで固まる、あるいは特定の個人に依存する

 人は二歳頃からでしょうか、特定の個人と仲良くなっていきます。単純な喜怒哀楽のままに保育園で過ごしていた二女「おとは」は、二歳頃から特定の友達とだけ遊ぶようになったようです。小学校では男女の差こそあれ、グループで固まるようになります。特に思春期は不安定な時期ですから、グループを作ったり、特定の個人に依存したりという動きが強くなります。それは家族を含めると死ぬまで続きます。さらに、権力は孤独を要求しますから、権力者はより心細くなります。ですから、派閥を作り、その争いに終始することも起こってくるのです。洋の東西、時代、文化、民族を超えて、権力者、あるいは権力周辺は派閥争いが止まらないという歴史的事実があります。ですから、「㋩心細くなる」、そしてグループで固まるのは通常の心の動きなのです。しかし、人間はここで留まらない人も出てきます。その一人が北条政子です。

㊁より広さへと向かう
  :正義や公的規範、普遍的なルールに向かう

 『論語』の中には、しばしば孔子が苦しめられる場面が出てきます。けれども、孔子は正義や道徳などの普遍的なルールに沿うかどうかと考えます。目先の危機回避だけに捉われないという心の態度、つまり、秀でた心性に読者は感動するのではないでしょうか。北条政子も同じです。目先の危機回避だけに捉われず、普遍的なルール、頼朝の支持基盤の持っているルールへと向かいました。また、後年は、合議制を制度として採り入れるなど普遍的なルール作りを具体化し、実行するのです。カントは『実践理性批判』の第七で、

 「あなたの意思の格率が、常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しるうように行為せよ。」

 と述べています。「格率(かくりつ)」は「個人が決める習慣などのルール」です。例えば、朝起きたら直ぐに歯磨きをする、です。少し柔らかく訳してみます。

 「あなた一人が決める毎日の習慣があるでしょう。その習慣が、どんな時でも誰でも同じ習慣を行っても大丈夫なように決めて下さい。そしてその習慣を行いなさい。」

 カントが伝えたかったのは、自分の正義が全員に当てはまるかどうかを反省しながら、そして行動する、という点です。この一点において、カントは『論語』の孔子と共通していると思います。北条政子も同じ心性があったと思います。制度化は後年に実権を握ってからになりますが、頼朝が引き連れてきた千葉県や東京などの武士の心をつかんだのは、政子が有力な武士をえこひいきせずに、全員の武士に同じ

















ような公平さで接したからでしょう。

北条政子が「㋺自分の外を見てる」と気がついたこと

 以上の視点から北条政子の業績を見通すと、二点が見えてきます。

①権力基盤(兵士の数)が弱く、正室の座は危ない

 北条政子の出身母体である北条氏は、現在の韮山周辺の小さな土地しかありませんでした。つまり、同じ伊豆の豪族の中でも最大ではありませんでした。次に触れますが、北条氏は三百騎(歩兵である郎党は含まず)も集められませんでした。対して、千葉県(安房)などで頼朝は千騎、十倍以上の三千騎を集めた豪族をいくつも従えてきました。

 さらに悪いことに北条氏の兵士数はほぼ全滅してしまいます。源頼朝の初陣「石橋山(いしばしやま:小田原の少し南)の合戦」では、平家方三千騎に対して北条氏、とその他五氏を合わせて三百騎でした。ここで完全に敗北して兵を失ったのです。
 頼朝自身は命が終わろうとした時、敵方の梶原景時が裏切って助かります。兵士数壊滅によって伊豆の権力基盤を失った頼朝は、政子に連絡せずに千葉県に渡り兵を集めたのです。この千葉行きは頼朝の人気があった話として残っていますが、政子から見れば、権力基盤である兵士を殆ど失った、と観ることができます。そしてそれゆえに捨てられた話でもあるのです。
 同時代の風俗からすれば、権力のない家の正室は捨てられ、権力のある家から新しい正室を迎えることは、常にある時代でした。政子は最後まで正室として頼朝からも、頼朝の死後も御家人たちからも支持され続けました。それゆえ、この権力基盤の弱さは見落とされがちです。

②源氏は身内で殺し合ってきて、政権そのものが危ない

 次は頼朝も含めた武家政権の権力基盤の弱さの一つを観てみましょう。それは公家に使われてきた武士の本質の変化にも関わる点です。
 そもそも公家の使用人として勢力を拡大してきたのが源氏です。源氏は、公家の争いに巻き込まれ、身内が分裂して父と子、兄と弟が争い殺し合ってきました。例えば、源頼朝の父、源義朝(よしとも)は、家族の内紛で都から逃げました。頼朝と同じく、①東国に逃げて御家人を集め、②都に戻り、③父為義(ためよし)を倒しました。その後、また公家の争い(平治の乱)で平清盛に敗れます。そして尾張(愛知県)で家人(部下)に裏切られ殺されました。頼朝自身も弟義経(よしつね)を倒し、その赤子を処刑しました。また、親戚では源義仲(木曾義仲)を滅ぼしています。
 このように源氏は血で血を洗う凄惨(せいさん)な殺し合いを続けていたのです。なぜ、身内で血で血を洗う争いを続けるのでしょうか。中学時代に『まんが 日本の歴史』を読んで浮かんだ疑問が、今回の記事を書くことで消えました。
 血で血を洗う争いは、京都のように全国から税金が入ってくる場所だから成り立つのです。つまり、家族が憎いという感情が主な動機ではなく、全国から莫大な利益が入る京都の利権をより多く握るために争っている、という意味です。関東(鎌倉)の武士たちとの違いを箇条書きしてみます。

京都
○働かないで税金が入ってくる 
  ↓
 税金の権益を多く得るために家族でも争う

関東(鎌倉)
○家族で働いて自然の実りを頂く
 ↓
 食べていくためには家族仲良く

 京都を中心として考えている頼朝からすれば、家族で争うのは、結果として自分の利益になることでした。他方、関東の鎌倉政権を支える武士たちは自分達で畑を耕す農園主でした。武家政権を支える御家人(農園主)からすれば、家族で争うことには大いに抵抗があったのです。家族で争うのは結果として自分の利益に反するからです。この視点から観ると、「北条政子が家族を大切にする」=「武家政権の権力基盤を強固にする」の意味が出てきます。
 一つの事件を取り上げます。

頼朝の前で義経への思いを込めた舞う静御前

 文治二年(西暦千百八十六年)、義経は頼朝に追われており、義経の側室静(しずか)は捕えられて鎌倉にいました。鶴岡八幡宮に頼朝・政子夫妻が参詣し、静に舞を舞わせることにしました。そこで静は、

 「よし野山 みねしら雪ふみわけて いりにし人のあとそこいしき」

・吉野山の峰の白雪をふみわけて姿を消した義経の後ろ姿が恋しい。

 「しつやしつ しつのをたまきくり返し 昔を今になすよしもかな」

・しず(倭文)の布を織る麻糸を、まるくまいた「おだまき(糸を巻きつける木具:画像)」から糸がくり出されるように、絶えずくり返しながら、どうか昔を今にする方法があったなら(義経様に逢えるのに)。

 と舞いました。訳文は高木です。

 舞に対して頼朝は「八幡宮の前だから源氏を讃える歌を歌うべきだ」と不快感を表しました。
 政子は「私も最初は父に反対されても、夜道を迷いながら雨の中あなたの所へ行きました。あなたが何も言わずに千葉に行ってからは心淋しかったのです。今の静と同じです。ですから、彼女は貞女(ていじょ:夫を大切にする女性)です。」と誉めました。その後、頼朝は機嫌がよくなりました。

 この舞について三つの解釈があります。

 政子は嫉妬深いがこの時は、自分の身と同じだったので同情した ―従来の解釈―
 「それゆえ、頼朝の政治的な見識が素晴らしい。大勢の前で感情的な女性と争わないのは政治家として大物である。政子は感情的な性格である。」という解釈です。

 政子は頼朝よりもはるかに人間味を感じさせる ―田端泰子先生の解釈―

 「・・・頼朝批判の歌を歌い、堂々と舞を舞う、その勇気にも感心させられる。政子も静も情勢に屈せず積極的に自分の意志を表現できる人であったことがわかる。」
『幕府を背負った尼御台 北条政子』四十二頁

 「人間味=権力に屈しない」という意味であり、現代の女性史研究者らしい解釈です。田端先生は鎌倉政権前後の女性の地位の高さ、男女平等であったという視点から北条政子にせまっています。つまり、北条政子を通して当時の女性の地位を描き出すことが目的であり、北条政子個人の持つ資質に焦点があっていません。

 政子は頼朝よりもはるかに政治力を感じさせる ―高木健治郎の解釈―

 私は北条政子個人の資質に着目してみました。
 そもそも、政治力の根源はその支持基盤を確保することにあります。先ほど述べたように、鎌倉政権の支持基盤は農園主の御家人たちであり、家族仲良く、は動かしがたいほど強固にしみついていました。彼らの前で頼朝が鎌倉政権を褒めないからという理由で義経と権力争いをしたらどうでしょうか? もちろん、権力安定のために義経排除は必要です。しかし、正室ではない側室の静まで罰してしまっては・・・。単に「むかつくから近い立場の弱い者をいじめる」と受け取られるでしょう。それは鎌倉政権の支持基盤を弱くするものです。なぜなら、頼朝に近づいても「むかつくから近い立場の弱い者をいじめる」が、いつやってくるか判らないからです。言い換えれば、求心力の低下です。
 御家人たちは頼朝を冷酷な人物と断定し、信用しなくなります。そうなってしまうと、父義朝のように最後には裏切るかもしれないのです。政子は、そこを正確に見抜いていたのでしょう。だからこそ、自分の思い出を持ち出し温かい言葉を静御前にかけるのです。その後の静の母、静の赤子と静自身への手厚い心配りも一貫しています。
 まただからこそ、鎌倉政権の正式な歴史書『吾妻鏡』に政子の反論まできちんと載せているのでしょう。政子が静への手厚い心配りが御家人たちの心をつかみ権力基盤を強固にするという政治力を見ぬいたから書き残されたのでしょう。歴史書には、殆どの出来事や発言は書き残されないのです。ですから、歴史書に書き残された内容というのは、なぜ、書き残されたのか、に大いに理由があるのです。

北条政子の秀でた心性

 以上をまとめてみます。

 元々、政子の政治基盤(北条氏)は小さく、「石橋山の合戦」でほぼゼロになりました。
  ↓
 政子の秀でた心性は、自らの権力基盤(兵士数)の少なさを、自覚します。
  ↓
 危機に立った政子は、「㊁より広さへと向かう」を選びます。
  ↓
 権力基盤である御家人(農園主)たちと武家政権の断絶を認識する。
  ↓
 家族を大切にすること=御家人たちを大切にする、という政治的メッセージだと理解し、権力基盤を強固にする。

 同じく安定した長期武家政権を打ち立てた徳川家康と比較してみます。
 徳川家康も、家族の問題で苦悩しました。一度家を出た結城秀康は二男で優秀な君主でしたが徳川家を継がせていません。家を継ぐ公的ルールを確立するために、三男の徳川秀忠としたのです。家という考え方に公的ルールを入れ込んだのです。
 また、徳川家康は国内一の優秀な兵士を質と量で持ち、広大な領地も支配していました。この点、家康は安定した政権になりました。
 対して北条政子は少ない兵士数しか持たず、広い領地も持っていなかったのです。ですから、政子の死後、有力な御家人の足利氏などが内紛を何度も引き起こします。こうした歴史的事実は、北条氏の権力基盤が弱小であった証左です。そうなると北条政子が亡くなるまで御家人達の絶大な支持を受け続けるのは異例なことと考えられるのです。
 それゆえに、北条政子の権力基盤が土地や兵士数ではなく、その秀でた心性にあったことが判明します。

まとめ

 頼朝は静の舞の事件に見るように、「貴人に情なし」の面があります。それゆえ、関東の武士達の求めるものを受け止められない面がありました。もちろん、優れた面として、東北の藤原氏を滅ぼし全国を統治し、貴族の荘園制を廃止していくなどの視野の大きさをもっていました。しかし、それも権力基盤の関東武士を強固であればこそです。その関東の武士を受け止めたのが北条政子であり、そう考えると、夫婦相唱和していたのが頼朝・政子だったのです。静の舞で政子の忠告後、頼朝の機嫌が直ります。これは単に頼朝個人の問題でなく、夫婦で権力基盤である御家人達にメッセージを出したという政治の問題と読めるのです。
 この点を鋭く見抜き、分かりやすい恋愛話で語りかける北条政子の心の動きは、秀でている、と言って差し支えないと考えます。

《参考書》
 五味文彦・他編集 『現代語吾妻鏡⑴-⒃』 吉川弘文館
 田端泰子著 『幕府を背負った尼御台 北条政子』 人文書院
 渡辺保著 『北条政子』 吉川 弘文館

エッセイ「【歷史】北条政子の優れた政治力 「豊の前事件」 」

「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した原稿です。
 読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。以下本文です。


 明けましておめでとう御座います。本年も宜しくお願い致します。
 今回は北条政子の話になります。藤枝木鶏クラブで北条政子の希望を頂きました。年始に彼女の本を何冊か読んでいましたら、新しい解釈が想いつきました。そこで「北条政子と他の女性たち」と題して、政子と同じ地位に上った女性たちと比べつつ、迫りたいと思います。北条政子の政治力は夫源頼朝を超えていた、という少々強い結論になっています。

北条政子とは

 まず、彼女の経歴を簡単に述べます。

 北条政子(ほうじょうまさこ):保元(ほうげん)二年誕生、嘉禄(かろく)元年没す。六十九歳歿(ぼつ) 西暦千百五十七年~千二百二十五年です。
 ○現在の静岡県出身(伊豆の国市韮山駅近辺の「北条」という地名の場所)で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。
 ○鎌倉幕府を安定した政治体制に導いた。他方、平氏は、兵庫県神戸市に政治体制(福原京)を開こうとしたが計画倒れとなる。
 ○「政子」は西暦千二百十八年に命名されたものであり、それ以前の名前は不明。
 ○通称は、鎌倉幕府樹立後「御台所(みだいどころ)」、夫の死後に尼になり「尼御台(あまみだい)」、藤原氏から将軍を迎えた実権を握ったので「尼将軍」と変わる。
 ○頼朝との恋愛話や嫉妬深い悪女、高い政治手腕など数々の評価がある。

北条政子と他の女性

 北条政子は、日本の歴史(国史)で輝かしい人物です。一つには、長期政権を確立した武家の正室だからです。特に北条政子は鎌倉政権を安定化した人物として、室町時代まで高く政治手腕を評価されました。その後、単に嫉妬深い女、や、悪女という評価が江戸、昭和などに出てきます。現代では北条政子は、良い面と悪い面をもった人物としてイメージされます。今回は、当時の資料『吾妻鑑(あずまかがみ)』と『愚管抄(ぐかんしょう)』を基に、政子と他の女性たちを比較していきます。

 比較する女性は長期政権を確立した武家の正室三名です

①鎌倉幕府:源頼朝の正室:北条政子
 西暦千百五十七年~千二百二十五年 静岡県出身

②室町幕府:足利尊氏の正室:赤橋登子(あかはし とうし)
 西暦千三百六年~千三百六十五年 神奈川県(鎌倉)出身

③江戸幕府:徳川家康の正室:築山殿(駿河御前、瀬名姫、鶴姫とも)
 生年不詳~西暦千五百七十九年 静岡県出身

 驚くことに、三つの政権の正室二名は静岡県出身でした。言われてみれば・・・そうでしたという感じです。ではまず、築山殿と北条政子を比べてみましょう。共に後世、悪女と言われています。


 学者の中で一致している歴史的事実

築山殿:息子信康(のぶやす)と共に殺される。
   :家康の本拠岡崎では別居させられる。
   :家康の重臣たちと対立する。
   :政治権力に関われない。

    VS

北条政子:頼朝よりも長生きをする。
    :頼朝の本拠鎌倉で同居する。
    :頼朝の重臣たちとよく相談する。
    :政治権力を担う。

後世に出て来た通説(嘘?)

築山殿:側室おまんを裸でしまって放置した。本田重次が発見して保護した。
   :武田の家臣と不倫し内通した。
   :僧侶や踊り手、侍女の無益な殺害。

    VS

北条政子:妹の夢を買って頼朝と結ばれた。 
    :伊豆山権現に頼朝とのがれて強引に結婚した。

 もう1人、長期政権の正室となった赤橋登子(とうし)は、資料が少ないのでよくわかっていません。ただし、実は「よくわかってない」という点が重要で、登子が政治権力を持っていないかったことが判明します。

赤橋登子:夫の死に殉じて出家した(らしい)。
    :享年六十歳。
    :側室の子を虐待した冷酷な女性であったとの評価もある(通説?嘘)。

 以上から、「北条政子だけが長期政権を打ち立てた夫と同じ政治権力を握ったこと」が判ります。

北条政子の政治を表す話

 次に、北条政子が夫と同じ政治力を握っているのがよく伝わってくる話に移ります。この話には政子が、後に鎌倉幕府を永続させていく政治力の根本があると高木は考えます。

 「亀の前事件」

 「治承四(じしょう:千百八十)年、頼朝は千葉県で武士を集めつつ、本拠を鎌倉に定める。すると、北条政子は鎌倉に移った。頼朝が鎌倉に戻ると、病の床に臥(ふ)せてしまう。すると、新参の武士たちも政子の容体を心配して屋敷の集まったのであった。政子が武士たちに敬愛されていた御台所であったのが伝わってくる。病は妊娠のつわりと判る。後に長子頼家を出産する。政子の前に頼朝と結婚し子を儲けていた伊東祐親(すけちか)の娘があった。伊東祐親は娘を無理やり離婚させ、子供を松川に沈めて殺してしまった。その伊東祐親に恩赦を与えたが、自殺してしまう。彼は平家方としての意地を通した。また、政子と頼家のために、頼朝は鶴岡八幡宮の参詣道をまっすぐ通す工事などを行った。
 お産が近付いたので、別宅に移った。取り仕切るのは梶原景時であり、お産は武家政権の重要な公的政務だった。ちなみに梶原景時は頼朝の死後、政争に敗れて静岡市まで逃走して自害した(梶原山に名前が残る)。長女に続き頼家の妊娠で、夫頼朝は周りの女性にラブレターを送り、また、他の女性たちと「密通」をした。と鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』が記している。実際にはどれほど女性と遊んだかは判らない。
 政子の出産は八月十一日であったが、この時、屋敷のまわりに御家人が集まり、献上品があった。乳母なども定まった。政子は頼朝の側室「亀の前」を知り、彼女の住まう伏見広綱の屋敷を「破却(破壊)」させた。翌々日訪れた頼朝は、破却を実行した御家人・牧宗近の髻(もとどり:ちょんまげを束ねた部分)を切りった。頼朝は、

 「御台所を大切にするのは重要だが、このようなことは、どうして私に相談しなかったのか。」

 と言った。牧一族は、その後鎌倉を去り、伊豆に引き上げた。亀の前は元々の近くの屋敷に戻ってきて、頼朝はまた通うようになった。その後、頼朝は伏見広綱を静岡県の遠州に流す罰を与えて事件を終わらせた。」

 以上が、「亀の前事件」です。これまで、以下のように解釈されてきました。

「亀の前事件」の三つの解釈

 従来の解釈
 ㋑北条政子の嫉妬深い話=女性の嫉妬は悪である=政子は悪である=築山殿と同じ

 田端泰子氏の解釈
 ㋺北条政子の処分権の話=政子が頼朝と同じ処分権を持っている

 「もし、嫉妬ならば亀の前自身を処分したはずである。また、頼朝が『御台所を大切にするのは重要だが』というのは北条政子の処分権=頼朝と同じ権力を持っていることを認めている」とします。
 ただし、田端氏はまとめとして「この事件は政子が頼朝の多情さに対して憤(いきどお)りを爆発させ、さまざまな点で反省を求めようとする実力行使に出たと見るのが、本質を突いているように思う。(『幕府を背負った尼御台 北条政子』二十八頁)」としています。従来の解釈も「憤りを爆発させ」と引き継いでいます。

 高木健治郎の解釈
 ㋩北条政子の政治力の話=政子が持つ政治力が鎌倉政権を支えている

 何冊か本を読むことで私なりの解釈が立ちました。
 注目すべきは、側室亀の前が戻ってきた時、別人の屋敷を「破却」させていない点です。つまり、頼朝は二、三カ月我慢しただけだったのです。政子が嫉妬の、あるいは子供を守るという感情にとらわれるだけの女性ならば、別人の屋敷を「破却」させたでしょう。あるいは頼朝に嫌味を言い連ねて仲が悪くなり、築山殿のように別居させられてしまったことでしょう。しかし、そうはなりませんでした。つまり、政子は個人の感情から「破却」させたのではないと解釈できるのです。

 では、政子が「破却」させた理由とは何でしょうか?

 それは正室と側室の上下関係を明確につけることでしょう。武家政権にとって最も危険なことは、古今東西変わりません。それは後継者同士の争いによって武家政権が内乱になり、崩壊することです。それは、後継者同士争い=当主の子供たちの上下関係がついていないことによって生じるのです。鎌倉時代は江戸時代のように長子相続が確立していませんし、古代は末子(ばっし)相続でした。正室と側室の上下関係も明確ではありませんでした。同時代の藤原氏、平氏も同様でした。政子が意図したのは、側室である「亀の前」と正室である政子の上下を関係付けることなのです。頼朝の寵愛がいくら「亀の前」にあろうとも、政治権力としての上位の位置は政子にある、という決定打を「破却」によって示したのです。
 そのためには、頼朝の御家人である牧宗近によって行われなければなりません。もし、政子の家来によって行われれば、それは政子の単なる嫉妬に基づく私的制裁に過ぎなくなってしまうのです。同じ行為が公人によって行われるか、私人によって行われるかの決定的な違いについて、政子は熟知していたのです。現代で言えば、お隣のお家が汚いから、と言って壊してしまえば、財産権を侵害したとして警察に逮捕されてしまいます。それは私的制裁だからです。けれども、市役所立会いの下で、市役所からの委託された会社が壊したのなら、公的任務であり、社会から認められます。この違いを認識し、「破却」を行った政子は優れた政治力を持っていた、と解釈できるのです。

 同時に、頼朝も政治力の根源が、この上下関係による命令から生まれることを理解していたのでしょう。

 「御台所を大切にするのは重要だが、」

 と最初に言います。けれども、男女の愛に狂ってしまったのでしょう頼朝は、気持が治まらず、

 「このようなことは、どうして私に相談しなかったのか。」

 と政治力に欠けた発言をします。つまり、嫉妬に狂って取り乱しているのが政子ではなく頼朝の方なのです。それゆえ、重要な御家人である牧一族が離反してしまいます。この点で頼朝は政子よりも政治力が低いのです。

 つまり、高木は「亀の前事件」とは、

 「①政子の嫉妬深い話」ではなく「③政子の政治力」を表す事件であると考えます。
 この事件によらず、その政治力は主人である源頼朝をも超えていたのではないか、とさえ思える話がもう一つ、隠れていました。それは頼朝の集めて来た新参の御家人の心を直ぐにつかんでしまったことです。築山殿は重臣達の支持をえられず、また家康の生みの母親とも対立し、息子の嫁とも仲違いをしてしまいます。このように比較して観ますと、北条政子のカリスマ性が浮かび上がります。

正室と側室の上下が武家政権永続にとって重要な実例 豊臣秀吉

 政子の正室と側室の上下をきっちりとつけることが武家政権の永続に必要不可欠である例を挙げます。豊臣秀吉です。秀吉は織田信長の武家政権を受け継ぎ全国を統一して、形式上は貴族(太閤:たいこう)として全国を取りまとめました。彼のカリスマ性、外交力、内政力等々はここで述べるまでもありません。けれども、正室と側室の順序をつけることで大失敗し、結果、豊臣氏は政権を徳川氏に奪われてしまいました。

 正室:高台院(こうだいいん):別名 北政所(きたのまんどころ)、おね、ねね、ねい 
  VS
 側室 :淀(よど)の方:別名 浅井茶々(あさいちゃちゃ)、淀殿(よどどの 後世)

 正室北政所は、北条政子と三点が同じで、似ています。低い武士の生まれで、親の反対を押し切って恋愛結婚しています。また、政子と同じく、政治力があり豊臣政権の朝廷との交渉を一手に引き受け、人質として集められた諸大名の妻子を監視する、名古屋から大坂への通行の管理などの行政権も行使しました。また、小田原征伐の際の留守居役として政子が鎌倉を守ったのと同じ役目を果たしています。
 しかしながら、正室北政所は、嫡子である豊臣秀頼(大坂夏の陣で自刃)を手元で育成していません。秀吉は子育ては淀の方、政治は北政所と役割分担とし、二者の上下関係を明確にしなかったのです。秀吉の死後、豊臣政権の混乱の原因となり、崩壊に至ります。
 一般社会では「平等」や「対等」は理想とされますが、権力維持において現実の「平等」や「対等」は混乱の元になりやすいのです。では、豊臣政権が事実上崩壊した関ヶ原の陣の陣容を見てみましょう。

 豊臣政権の正室北政所派 :福島正則、黒田長政、小早川秀秋、池田輝政など。

 豊臣政権の側室淀の方派 :石田光成、毛利輝元、宇喜多秀家など。

 関ヶ原の戦いを決定づけたのは小早川秀秋ですが、彼は北政所を実母のように慕っていました。また、北政所は徳川家康と大変仲が良く、「家康を頼るように」と言われていました。ですから、関ヶ原の戦いは、いわゆる石田光成と家康との戦いではなく、実際には豊臣政権の北政所派と淀の方派の混乱が、言いかえれば豊臣政権の家臣はどちらに従うかの一本化がなされていなかったのが真の戦争の原因なのです。小早川秀秋は最後まで迷いますが、それは秀秋自身の優柔不断さではなく、「北政所と秀頼のどちらが豊臣政権なのか?」という問いなのです。これは秀秋以外の武将、福島、池田なども迷っています。豊臣政権が上下関係をつけていない混乱をうまく利用したのが徳川家康だったのです。関ヶ原の戦いはどちらが勝っても、豊臣政権の影響力が低下する戦いでした。
 実戦を見てみましょう。関ヶ原の戦いで、徳川家康の直属の部下たちは一切戦っておらず、豊臣政権の家臣の福島正則、黒田長政、小早川秀秋と同じく家臣の石田光成や宇喜多秀家などが激突して戦っているのです。
 正室と側室の上下関係を明確にしなかったことで、関ヶ原の戦いが生まれてしまい、どちらが勝っても豊臣政権崩壊に向かう道となりました。

北条政子の偉大さ

 源頼朝の血統は北条政子の生きている時代に絶えてしまいます。けれども、武家政権は永続しました。豊臣秀吉が執着した血統は秀頼につながりましたが、豊臣政権は途絶えてしまいます。これらは北条政子の政治力の大きさを示しています。このように歴史を高い視点から眺めてみると、「亀の前事件」は単に北条政子の嫉妬話ではなく、平和な国を作るために上下関係を明確にしなければならない、という政子の決意が伝わってくる話と読むことができます。
 
 さらに、合議制を制度化するなどによって北条政子が永続させた鎌倉政権は、元寇を見事に防ぎました。また、徳川家康が江戸に開府する際にも、明治天皇が江戸の皇居に行幸される際にも、大いに参考とされたのです。北条政子が鎌倉政権で政治権力と首都の分離を成し遂げなければ、現在の日本の形ができていないのです。世界の諸外国において、首都と政治権力が分離しているということを成し遂げた国は殆どないのです。この意味において、日本の歴史(国史)に与えた影響の大きさは計り知れないものがあります。また、女性という枠をつけるのがおこがましい程に、偉大な人物であると考えるに至りました。


引用書
 『幕府を背負った尼御台 北条政子』 田端泰子著 人文書院 二千三年 初版一刷

配布プリント「死と日常」と解説

 静岡英和女学院中学校・高等学校様で、60分の講演で配布したプリントです。

 プリントの解答と講演内容の簡単な内容を、プリントの下に書いております。
 実際の講演は、高校生向けですので、わかりやすい言葉をつかいました。

講演は、石上国語教室様の依頼です。

静岡英和女学院女子中学校・高等学校様HP
http://www.shizuoka-eiwa.ed.jp/

石上国語教室様
http://www.kokugokyoushitsu.com/

 以下レジュメです。WORDのA4で1枚配布です。


                              平成29年2月23日
            死と日常
                               高木 健治郎
問1 「死」とは、何ですか?


問2 「死」とは、あなたにとって何ですか?(書ける所までで結構です)


問3 朝目覚めて学校に来るまで、誰かのお陰で来れました。あなたは誰のお世話になったでしょうか。なるべく多くの人を挙げて書いて下さい。



問4 あなたが生まれるために、物質として親は何人必要ですか? [       ]人

問5 同じく、あなたが生まれるために、明治維新(1867年、150年前)に何人の人がいましたか? 
   1世代30年とすると、5世代で150年です。       [        ]人

問6 同じく江戸時代(1603年、414年前、14世代前)は?  [          ]人
   同じく鎌倉時代(1183年や1192年など、約834、825年前、27世代前)は?
                         [             ]人
問7 以上の問から「生きる」ためには何があったのが判りますか?



問8 1月を日本語で正式に言うと何といいますか? [        ]
問9 問8の意味は何ですか?

問10 新約聖書『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』は読んだことがありますか。   はい・いいえ

問11 『ヨハネによる福音書』12章24節
「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」
はどういう意味だと思いますか。以下に書いて下さい。



問12 『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」は以下の通りです。
「二つのうち一つを選ばなければならない状態、つまり死ぬか生きるかというような場面では、死ぬほうに進むほ うがよい。むずかしいことではない。腹をすえて進むだけのことである。」
どういう意味だと思いますか。以下に書いて下さい。



 以上、配布プリントです。
 以下、プリントの解答と講演の簡単な内容です。また、加筆修正してあります。

 石上国語教室様よりのご紹介をいただきました。小論文の連続講座の最後を担当する講座です。

 最初に、黒板の上に向かって一礼をしました。壇上に立ち名前を述べました。そして「今日は皆さんにお会いできたこと大変嬉しく思っています。感謝で一杯です」と述べました。高校生の皆さんは、予習をしてきてくれました。ですので、私は

「皆さん、死について調べてきてもらったと思いますが、どうですか?死は調べてみて解りましたか?」
「解らないことが多かったと思います。なぜなら、誰も死んだことがないからです。では、どうして死を考えるのか? 誰もが死ぬからです。そして今日は、この視点を少し離れて観てみたいと思います。」

 という切り出して講演をはじめました。「ではまず、問1を書いてみてください」と言いました。受講生の他に高校の先生方3,4名、同窓会の方3名、国語教室の方2名が聞いて下さいました。

○- 問1 「死」とは、何ですか? -

 死=非日常
 生=日常

 黒板に板書しました。タイトルが「死と日常」です。そして「死」とはなんですか?と聞いています。この2つから導き出されるのは、死=非日常です。なぜなら、「死『と』日常」ということで、死と日常が対になっているからです。このように学問では、言葉、単語、助詞等を大切にします。同時に、クイズではありませんから、必ず導き出すだめの手引き(ヒント)があるのです。授業では教科書であり、高校の授業では先生の説明の順番です。この点に気がつくこと、この点を大切にすることが、高校までの勉強で重要な部分です。

 よく、「高校までの数学や国語は社会で役に立たない」という人がいます。それはこの点を学んでいないからでしょう。もちろん、教師側の責任もありますが。例えば、結婚とは何でしょうか? 市役所に行くと婚姻届をもらえます。そこに名前を書くのは本人同士と、書かなくてもいいですが証人の欄があります。ここから導き出されるのは、「結婚とは本人同士の承認だけで提出でき、かつ市役所に出す法律に基づく行為」というのが判るのです。税金、行政サービス、数々の商売なども、同じように必ず導き出すための手引き(ヒント)があり、それを正確に読み取ることが社会生活を続けていくために必要なのです。初めから、講演では話していない内容を入れ込みました。話をもとに戻します。

 つまり、タイトルから 「死=非日常 生=日常」を書けるようになるのが、学問なのです。そして正解はこの1つしかありません。そして今回の講演の核心部分です。

○- 問2 「死」とは、あなたにとって何ですか?(書ける所までで結構です) -

 他方、死とは個人の想い、という側面もあります。私には2人のおじいちゃんと2人のおばあちゃんがおりましたが、全員死にました。私に将棋を教えてくれた半身不随の母方のおじいちゃんが大好きでした。あまり話さない人でしたが、岩手県に里帰りすると何ともなしに歓迎してくれたのです。その静けさが好きでしたし、今でも逢いたいと思うのです。これは私の個人の想いです。この面は重要です。静岡県ボランティア協会様は、「ケアする人のケア」と題して、介護職や看護職など人の死に向かうあう人のケアの問題を取り組む連続講座を開催して下さいました。私も当時「ターミナルケアにおける死」という授業を介護職を目指す学生さんに教えていましたので数年参加しました。ちなみに、静岡新聞社から本としてまとめられています。

『一人じゃないよ ケアする人のケア』 静岡新聞社編纂 2008年

 この講座の中で、内藤いづみ先生のお話が心に残っています。在宅死、つまり日常生活を過ごしているいつもの家で死ぬ、家族に死をみとってもらうのを、いち早く取り組まれたのが内藤先生です。先生は、ご講演の中で「寝る前に布団に入って、今日よかったことを3つ思い出して、感謝をします」と仰られておりました。それから、私も講演では言いませんでしたが、毎日続けています。死の看取りを実際に考える時、内藤先生の方法はありがたいものです。そして、それを真似する必要はありません(問1のように正解は1つではありません)。死の想いの受け止め方は1人1人異なり、それで良いと思います。この問題は、死ぬまで考え続けていく問題だと思いますし、話は長くなりますので、この辺にしておきました。ただ、ポイントは以下の通りです。

☆現在の日本では、「死」=個人の想い の視点に集中している
☆学問としての「死」と個人の想いの「死」は別の問題である

 話を「死=非日常」に戻しました。
非日常というのは、所有権で考えると解りやすくなります。死者には所有権がありません。ですから遺産、遺言などの問題が出てきます。日常では人が所有権を持つことで成り立っています。ですから、お金を所有している前提で、コンビニやスーパーがあるのです。車のローンを組むのもその人が生きていることが前提です。
 個人の心でも同じです。

 生=日常=当たり前

 と思うから、学校は行くのがめんどくさくなります。授業を受けるのが当たり前だから、「あの先生の授業は嫌い。好き」があります。当たり前だから、この授業も1日の授業が終わってから、さらに受けるのは面倒くさい、と思う訳です。それは社会生活を営む前提ですから、そうなるのです。対して同じことを

 死=非日常=当たり前でない

 と思ってみましょう。学校は今日が最後です。めんどうくさい、と思いませんね。「最後の授業だから一所懸命聞こう」となるわけです。教室の外を見てください。夕日がさしてきています。皆さんどう思いますか? いつもの夕日=当たり前と思えば、まぶしいな、とか、もう夕暮か、と思うでしょう。けれども、末期がんで明日明後日の命の人、ホスピスに入っている人はこの同じ夕日をどのように感じるでしょうか。

「なんと美しい夕日なのだろう。その夕日に照らされている世界は美しいなぁ」

と感じ入ることでしょう。つまり、死=非日常の視点を持つと、生きていることが当たり前ではなくなるのです。それをより具体的な話で考えてもらいます。

○- 問3 朝目覚めて学校に来るまで、誰かのお陰で来れました。あなたは誰のお世話になったでしょうか。なるべく多くの人を挙げて書いて下さい。 -

 高校生の皆さんは親と書いてくれました。また、優れた学生さんがいまして「漁師」と書いてくれました。素晴らしいですね。私の伝えんとすることをしっかり理解してくれています。答えは「数え切れないほど多くの人」です。朝起きるとき、布団かベッドで寝ているでしょう。その布団やベッドはあなたが自分で作ったものでしょうか? 誰かが布を作ってくれ、デザインをして工場の人が作ってくれ、会社の営業の人が宣伝をしてくれ、そしてお店の人から買ったから寝ることできたのです。寝巻(パジャマ)もそうです。「漁師」と書いてくれた人はお魚を朝食に食べたのでしょうか。朝ごはんの材料を全部自分だけで採った人はいないでしょう。2000年前は自分で採るのが当たり前だったかもしれませんが。起こしてくれたのは誰でしょうか? 携帯電話や目覚ましなら、それを作ってくれた人などなどがいるのです。道路は昔の日本人が税金を払ったからできたのです。水を飲んだのなら現在の水道システムを作ってくれた人、例えば後藤新平が塩素殺菌による現在の水道水を作ってくれました、のように数多くの人のお陰なのです。税金はみんなが生活しやすいようにと払ってくれたからなのです。その方たちは現在どうなっているでしょうか、もう全員亡くなっています。つまり、私たちの社会が成り立つためには、数多くの人の死=非日常があるためなのです。

 私が最初に「皆さんにお会いできたことを嬉しく思いますし、感謝しています」と言いました。それはもちろん皆さん1人1人にも感謝していますが、ここに来るまでにお世話になった人々への感謝も意味しているのです。(私が講演の前に黒板に向かって一礼をしたのも同じです)

 ですから、皆さんが大人になっていく、ということは年齢が18歳や20歳になることだけではなく、そのお陰に気が付き、そしてそれに感謝して、自分が皆のために働くことも意味しています。社会の死=非日常から、物質として考えてみましょう。

○ー 問4 あなたが生まれるために、物質として親は何人必要ですか? [       ]人 -

 すぐに書いてくれました。正解は「2人」です。「物質として」とわざわざ書いたのは、高校時代は両親と上手な関係を持っていることが少ないからです。私自身、父親が大嫌いで、顔を観るのも同じ空気を吸うのも嫌でした。高校時代は思春期で自我が混乱する時期ですし、親離れをする時期ですから、そのようになるのです。また、離婚率が33%を超えていますから、ご両親が離婚されている家庭もあるのです。そうした社会的な関係を抜く、という意味で「物質として」と書きました。

○- 問5 同じく、あなたが生まれるために、明治維新(1867年、150年前)に何人の人がいましたか?  -
   1世代30年とすると、5世代で150年です。       [        ]人

 親は2人、祖父母は4人・・・です。これは、2の0乗=1(私)、2の1乗=2(親)、2の2乗=4(祖父母)・・・ですので、150年前の5世代は2の5乗=2×2×2×2×2=32です。

 これも学生さんが答えてくれました。なので、32人の人がいなければ、1人の人間は存在しないのです。32人の内、1人でも病気で亡くなったり、事故で死亡していれば、あなたはいなかったのです。これは純粋に数理で導き出されます。そう考えてみると、私が存在してることの軌跡(奇跡)に想いが深まります。ではさらにさかのぼってみましょう。

○- 問6 同じく江戸時代(1603年、414年前、14世代前)は?  [          ]人
       同じく鎌倉時代(1183年や1192年など、約834、825年前、27世代前)は?
                                      [             ]人 -

 江戸時代は2の14乗で「1万6384人」で、鎌倉時代は2の27乗で「1億3421万7728人」です。
面白いことに、日本の現在の人口とほぼ同じ人数になります。1億人の内、幾人もかぶっているでしょう。ですから、日本人が「話し合えばわかる」という意識は数理に基づくと言ってもいいでしょう。それにしても興味深い一致です。数学はこうした興味深い一致がたくさんあります。

 日本は世界最古の国家です。今年で2677年目になります。そうすると2の89乗=10の26乗になります。全宇宙の星の数がたった2000億です。現在観測されている広さが、丁度10の26乗mです。日本が建国された時までさかのぼると、その1人1人が1m置きに立つと全宇宙の大きさと同じになる・・・想像を絶するほどの数なのです(諸説あります)。

○- 問7 以上の問から「生きる」ためには何があったのが判りますか? -

 ここでも学生の皆さんの解答にうなる場面がありました。ただ、挙手を求めましたが、緊張しているためか中々あがりませんでした。それはそうかもしれません。と言いますのも、後ろに同窓会の方が3名、教頭先生を始め数名の先生がいらっしゃるのですから。指名をして答えてくれた解答は、

 「多くの人の非日常」

 素晴らしいです。タイトルの手引きから導き出してくれました。知ってもらいたい感じてもらいたいのは、「死=非日常」という視点から見てみると、多くの人の非日常によって当たり前の世界が作られているということです。人は独りで生きているように錯覚します。現代社会はますます便利になっていますから、そのように錯覚しやすくなっています。「生きる」ためには、「多くの人の非日常」があるのです。例えば、この講演をするために、後ろに座っていらっしゃる方々のお陰で皆さんに逢うことができたのです。ご先祖様が居たから、生まれてこれたのです。道路や服なども数多くの方のお陰です。この点をお伝えしました。

○- 問8 1月を日本語で正式に言うと何といいますか? [        ] -

 睦月(むつき)です。これも正解を書いてくれている学生さんに答えてもらいました。「意味は解りますか?」と聞くと「解りません」と答えてくれました。

問9 問8の意味は何ですか?

 「睦(むつ)みあう」=「家族仲よくする」という意味です。お正月は死んだ祖先が歳神(としがみ)様として帰ってくる月です。つまり、数億人以上の先祖のお陰で私は今日生きていられることに感謝する月です。皆さんも遠い親戚と久しぶりに逢うとご馳走を食べるでしょう。それと同じです。「死んだ家族も含めて仲よくする」=「睦月」=正月の意味なのです。

 ちなみに、歳神様は初日の出で飛び出して、門松を目指し、しめ縄(玄関につける丸い縄)を通って家に入り、おもちにいらっしゃいます。そのお餅を鏡餅と言います。神社は神様がいる場所に鏡が飾ってあります。ですから、その時は家の鏡餅に遊びに来て、一緒にお祝をしてくれるのです。そしてお正月が終わって神社にもどられるのです。静岡市では浅間神社内に、大歳御祖社(おおとしみおやじんじゃ)というのがあり、静岡市の死んだ方がいらっしゃる場所のようです。

 では、このような考え方は日本だけなのでしょうか。世界に目を向けて観ましょう。

○- 問10 新約聖書『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』は読んだことがありますか。   はい・いいえ -

 多くの方が「はい」に丸をしてくれました。英和女学院中学校・高等学校のHPを拝見していまして、4つの福音書からの引用が数多くあり、伝統を大切にされていることが伝わってきました。また、現代風なHPのレイアウトとよく合っていると感じました。

○- 問11 『ヨハネによる福音書』12章24節
「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」
はどういう意味だと思いますか。以下に書いて下さい。 -

 「自分の生きること=当たり前だと考えると独りになりますよ。もし、自分の生きること=当たり前ではない、と考えると多くの方々のお役に立てますよ」

 という意味だと高木は読みました。ただし、この場面はいくつか解釈があります。まず、「あなたがた」と呼びかけているのはイエス様です。相手はギリシャ人です。第12章20節で「祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。」とあります。ギリシャ人はイエス様に書かれていないのですが、祭りについての不平不満、多分、ユダヤ人の民族主義的な部分、現在でいえば差別的な部分について文句を言ったのでしょう。それに対してイエス様は「それはいい」や「それは悪い」とお答えにならず、上のように答えられたのです。

 つまり、麦がそのまま麦でいるのは当たり前のことです。生=日常を続けることです。けれども、そうなると孤立してしまうのです。例えば、高校生の皆さんは働いていません。このまま働かないで友人と遊んだり、楽しく(あるいは苦しくとも)生きていこうとしたらどうなるでしょうか。30歳、40歳になっても家にいて働かず、空いた時間は自分のためだけに使えるという生活です。そういう人は孤立するのではないでしょうか。あるいは、結婚したとします。新婚ほやほやのままの状態で、ずーっと伴侶に同じことを何十年もしてほしい、と変わらないままだとしたらどうでしょうか。若いうちはいろいろな社会のお役が回ってきません。町内会の班長にしてもお当番にしても回ってきません。私もそうでした。けれども今は、数か月に1回資源ごみ回収で朝、回収場所に立ちます。班長も来年回ってきます。回覧板を回したり配布物をもらいにいくことでしょう。それを「今までなかったから、面倒くさいから」とやらなければ、町内で孤立してしまいます。イエス様のお話を少し身近な話にしてしまいました。もとに戻します。

 イエス様は、ギリシャ人にもユダヤ人にも同じように「自分たちの当たり前だけを相手に押し付けては孤立しますよ。そうではなくて死ぬ覚悟で融和に努めれば、多くの実りがありますよ」と言っておられるのです。偉大なお言葉です。

○- 問12 『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」は以下の通りです。-
「二つのうち一つを選ばなければならない状態、つまり死ぬか生きるかというような場面では、死ぬほうに進むほうがよい。むずかしいことではない。腹をすえて進むだけのことである。」
どういう意味だと思いますか。以下に書いて下さい。

「 生きる=当たり前、と死ぬ=当たり前ではないを選ばなければならなくなった時、死ぬ=自分の欲を捨てる方向を選びなさい。それは覚悟が要りますが、選びなさい。」

 となります。言葉は異なりますが、先ほどの一粒の麦と同じ意味なのです。仏教でいえば「死ぬ=欲を捨てる」という意味です。

 ここまでの講演の内容を踏まえて例えてみます。
 明日はテストだとします。

「ああ、勉強しないとな、でも面倒くさいな。だって、勉強しても成績にも就職にも関係ないし、得にもならない。無駄じゃん」

 という場面です。「勉強しない=楽=欲=得にならないことをしないのは当たり前」と「勉強する=苦=欲を捨てる=得にならなくても覚悟をしてやる」で、勉強しなさい、という風になります。人は生きるために欲を持ちます。けれども、悩む場面があった時、欲を捨てなさい、というのです。『葉隠』では「死にぐるい」とも言っています。意味は「死者は欲がない。だから毎朝死ぬんです。そして欲にまどわされずに、皆のために働くのです」と言っています。イエス様と『葉隠』が時代を超えて同じことを言っているのです。
 それは、「生=日常=当たり前」と「死=非日常=当たり前ではない」という対立で比べると観えてくることです。

 現代の私たちの社会は、一見すると自分の得を考えている人だけが作っているように見えます。けれども、実はそうではないのです。自分の得だけを考えれば税金を納める人は少なくなるでしょう。街は汚くなるでしょう。もっと犯罪が増え安心できない社会になるでしょう。道路がこんなにもきれいに保たれているのは世界190カ国以上の中で当たり前でしょうか。街がこんなにもきれいなのは当たり前でしょうか。私は「静岡駅周辺が他の県庁所在地よりもきれいだからと移住してきた」と言っている人に会ったことがあります。確かに静岡市はきれいな方です。

 私は毎朝、神社に息子、娘2人を連れてお参りに行きます。雨の日はいきませんし、結構気楽にお参りしていますが、毎朝、おじいちゃんやおばあさんが家の前の道路をはいて下さっています。「おはようございます」とあいさつをしています。1度、「いつもはいて下さりありがとうございます」と言ったことがあります。するとそのおばあちゃんは、「あら・・・」と言って家の中にひっこんでしまいました。なぜなら、褒められるために掃いているからではないからです。後日お話をうかがうと「通る人が気持よくなるために」と仰って下さいました。毎朝早く起きるのは面倒くさいです。掃除するのも面倒くさいです。でも、知らない誰かのために掃いて下さっているのです。学生の皆さんに

「 問3 朝目覚めて学校に来るまで、誰かのお陰で来れました。あなたは誰のお世話になったでしょうか。なるべく多くの人を挙げて書いて下さい。 」

 を思い出して下さい、と言いました。皆さんが朝通ってきた道は汚かったですか?と。道路は国や県の管理下ですから、本来は清掃員が来てきれいにするものです。汚くなかったとしたら、清掃員を毎日みていますか?と聞きました。ということは、きれいな道は当たり前=生きる=欲、ではないのです。誰かが自分の欲を抑えて=死できれいにして下さっているのです。そのことに気がついて欲しいです。ですから、毎朝、先生や友人に会って挨拶をするのは、「ここまで来れた人に感謝する」という意味もあるのです。また、奉仕も同じです。私達は多くの方の奉仕=死によって支えられています。その自覚が奉仕へと向かうのです。

 「労働と働く」の違いが判りますか?

 と問を出しました。「働く」は日本でできた漢字です。日本語はもともと文字がなく音に意味がありました。「はたらく」=「八方楽く」の意味です。この場合の楽、は先ほどまでの「生=楽」とは違う意味です。たとえ話をします。

 皆さんが明日から今日という日は1日しかない。だから、一所懸命授業を受ける、と頑張ります。数日すると充実が感じられるでしょう。そうすると「肉体が楽ちん=快楽=苦痛がない」ではなく、「精神な充実感=楽しさ」を実感するでしょう。そうすると本人の「心が美しく」なります。この点を思想として打ち出しだのは江戸時代の石田梅岩先生です。次にその姿を親が見たらどうでしょうか。ああ、英和女学院に行かせてよかった、と楽しくなるでしょう。そしてその頑張る姿を見て、先生は「お、頑張っているね。」と喜んでくれるでしょう。そうして勉強をがんばる姿勢は(成績に関係なく)、アルバイトでも仕事でも社会全体の役に立つでしょう。そうやって自分が怠け心を捨てて頑張ること、そして自分も周りも楽しくさせること=「はたらく」というのです。先ほどの、誰にも褒められなくても家の前を掃除しているおじいさん、おばあさんの動きは「はたらく」そのものなのです。

 今回は、「死=非日常」と「生=日常」と対比させて、色々な点を挙げました。「死=非日常」から見ると、当たり前が当たり前でなくなる、という所を伝えました。

 質問を受け付けた後(ありませんでしたので)、感想を書いてもらいました。
 最後に、講演をできましたことに感謝をして、黒板に一礼をして終了しました。

 石上国語教室様の講演の意味を小論文から説明をされました。
 同窓会の方々、先生方に心のこもったお言葉と対応を頂きました。感謝申し上げます。

 講演が終わり校門を出ますと、すっかりと日が落ち、風が寒くなっていました。
 家に帰り早速、全ての感想を2回目を通しました。自分自身で深く考えてくれたこと、「死=非日常」の対比とその意味を受け止めてくれたことが伝わってきました。誠実な学生さんに恵まれたことに感謝のことばが、溜息のように思わずこぼれました。
 




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    名前:高木健治郎

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