【随想】 哲学とーちゃんの子育て 十五 まないの鴎(かもめ)とお船

[子育ての内容は少し前のものです。]


 (バシャバシャ、と顔を洗っていると。)

 「おとーちゃん、かもめ~。」

 「ん~ (バシャバシャ) 。」

 「こうくっ付けると、ふねだよ~。」

 「ん~~ 顔洗っているから後でね~。」

 「はーい。」

 (タッタッタ~、と奥の部屋に走っていく。)

 長女まない(四歳十カ月)が、朝食後に話しかけてきました。顔を洗っていたので、後としました。小さい声で、

 「・・・おかーちゃん、かもめー・・・こうすると、ふねー。」

 と聞こえてきました。洗い終わったので、

 「まな~ちゃ~~ん いいよ~みせて~。」

 「・・・はぁーいぃー。」

 と走ってきた。

 二つの切れ端を組み合わせて、鴎(かもめ)と船の形を見せてくれたのです。木の切れ端は、ナイフの形です。底辺が長く、上辺が短い四角形です。説治郎(とくじろう:六歳八カ月)が、小学校に入学したので、居間の長い木製の机に仕切り板を二枚付けました。そこに毎日、ランドセルや教科書を置くことにしました。その仕切り板の切れ端です。やすりをかけてスベスベにしました。会話の数分前に、

 「まなちゃん、この切れ端、チーズみたいじゃない? スベスベだし。」

 「そーだねー食べれそう~。」

 と言ったので渡しました。それから数分で自分で考え、鴎と船の形を見つけました。こういう時は、気をつけなければならない、と考えています。特に、四歳のまないでは、そう考えている所です。
 まないは、髪の毛を伸ばして結わえるようになってきました。これまでは、短い髪でもボサボサでも良かったのです。最近は、髪を二つで結わえるのではなく、後頭部で一か所で結びたい、と主張するようになっています。自らの身だしなみをきちんとしたい、という最初の時期になりました。今までは父(私)に結わえてもらえれば、どんな髪型でも嬉しい、時期でした。そういう時期に入ったまないだからこそ、自らの創意工夫を認めることが大切だと想うのです。

 「人は賢愚(けんぐ)にかかわらず、無欲の時には、みな善に向かい悪を捨てるべきだと承知している。平静な時には、みな禍福(かふく:不幸と幸福のこと)が何によって起こるかを承知している。好きな物を手に入れたいと思い、贅沢品に誘惑されて始めて心変わりし、混乱する。」
 『韓非子』 第六巻 解老 百十七頁

 韓非子の言葉です。老子を解説する章なので「解老」です。この巻には韓非子の示す人の生き方が書いてあります。
 
 韓非子は人の生き方において「人の知識の差によって賢い、愚かはあるけれども、善い悪いは全員に判別できる」としている点、「欲で誘惑されれば、どんな人でも悪くなる」としている点を挙げています。
 子育てに読み替えてみたいです。

 「人はどんな親でも、子供を愛する心で考えれば、善い教育ができるものです。けれども、子供を自分の好きなようにしたい、着飾って人様に子供を褒めてもらいたいという欲に誘惑されると、混乱してしまう。」

 韓非子の言うように、子供がどのような時期にあるのか、は無欲で子供を見ていれば、どんな親でも判ることでしょう。全員が子供時代があったからです。けれども、子供を親の気持ちに従わせたい、子供が褒められることを求めたい、という欲で混乱してしまうのです。私もそう言ってしまったことがありました。

 「まないさんは、二つに縛ったほうが似合うから、二つにしなさい。まなちゃんは二つに縛ったのが鏡で見えないでしょ。」

 言ってしまった後に、ハッとしました。まなちゃんの顔が暗くなってしまったからです。直感しました、私が善くないことを言ってしまったのです。私は、欲で混乱してしまったのです。
 
 混乱というのは、髪を二つに縛ってほしいのは私自身の願望なのに、似合う、という客観的な立場に言い換えたことを指します。子供時代、「大人はずるい」と想っていたのは、こういう言い換えです。

 「まなちゃんに似合うから、そうしなさい。」

 というのは、まないのためではないのです。なぜなら、似合わないで不利益をこうむるのは私ではなくまないだからです。それなのに、私は「子供のためだ」と言ってしまいました。
 今朝は、

 「まなちゃんは、二つの方が似合うと想うけれど、一つに結ぶのでいいんだね?」

 と聞きました。すると、

 「うん、いいよ。一つが好き。」

 と返してくれました。ちょっとした違いかもしれません。けれども、子供の立場からすれば、親の意見を反論しにくい客観的に見えるような意見を押し付けるのか、自分の意見を尊重してくれるのか、の大きな違いと受け止めます。
 今のまないは、自らの創意工夫を認めてもらいたい時期なのですから尚更です。
 ですから、顔を洗い終わってから丁寧に鴎の形を見ました。朝の一分は貴重な時間なのですが、それよりもまないの気持ちが貴重なのです。

 「これが鴎に見えるんだね。いいね~。よく気がついたね~。こうするとお船なんだね。そっか~気がつかなかったよ、おとーちゃんは。まなちゃんは、すごねぇ~。また教えてね~。」

 「うん(笑顔)。」

 「あ、そうだ、二つの切れ端をもう少し離すともっと鴎っぽくない?」

 「え~どうかなぁ~。」

 「じゃあ、夜に鴎の写真を見てみようね。」

 「う~ん!!」

 韓非子は引用箇所のまとめとして以下のように述べています。

 『人の子孫たる者が、この道を体して(大切にして)先祖の御霊屋(みたまや:霊廟やお墓のこと)を守れば、御霊屋は滅びない。これを「祭祀やまず」という。』
 同著 百十八頁

 続いての文章は、四書五経の『大学』と同じく、自らの肉体を正しくし(修め)、家、村、国、天下を治める順番を述べていきます。韓非子と儒家は互いに影響し合っているのです。
 冒頭からの流れに沿って、引用文を子育てに意訳してみます。

 「どんな人でも無欲の心で、子供の成長を見つめるのが大切です。そうすれば善い悪いを伝えられるますし、子供に伝えることば、その時期も判ります。結果として、親の愛と尊重を受け止められた子供はしっかりとした大人になります。すると、親と同じ立場に子供が立ち、先祖と親を敬ってくれるのです。」

 韓非子は続けて「こうして自らと家を正しく修めると、天下国家が治まる」と後述しています。

 韓非子は罰を与える法家として認識され、権力の扱い方を述べている思想家として有名です。本文を読んでみますと、孔子と見まがう程、道徳を守ることを説いています。今回は、韓非子に子育てを教えて頂きました。有り難う御座います。

引用書
○『韓非子』 本田濟(わたる)訳 筑摩書房 千九百八十二年 初版第十刷

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【随想】哲学とーちゃんの子育て 十九 ―ドラえもんと老いて朽(く)ちず― 


 「おまえ~ 鬼な~。」

 体の大きなAくんが、線の細く小さなCくんに言います。一緒にいるBくんは動きが速く、

 「鬼だ~追っかけてこいよ~。」

 Cくんは何も言いません。彼は、一所懸命追いかけていってフラフラになりながら、Aくんにタッチをします。

 すると、Aくんは、即座にタッチし返すのです。そして逃げます。Cくんの足では追いつけません。続けてBくんが

 「追いかけてこいよ~。」

 と言います。Cくんが追いかけていってタッチをすると、また、Bくんが即座にタッチし返して、

 「おまえ、鬼!!」

 と逃げていきます。

 Aくんがジャイアン、Bくんがスネ夫、Cくんがのび太のようでした。
 平成二十九年六月末日の晴れた朝です。小学校が始まって三カ月になろうとしています。初々しい一年生もお互いが知り合い、人間関係が固定してくる頃になりました。そこに、とっくん(六歳十か月)が入りました。さて、とっくんは私の見ていない小学校でどのような人間関係を築いたのでしょうか。興味津津で、黙って見ていました。
 とっくんは最初逃げる方でした。そして、Cくんにタッチされると、Aくんにタッチしたのです。なるほど。
 しかし、元の木阿弥(もくあみ:元通りの意味)。

 AくんがCくんにタッチして、また、Cくんが鬼になりました。

 「お~い、鬼だぞ! 追っかけてこいよ~。」
 「こっちだよ~。」

 ドラえもんは、実際の小学生が起こす行動そのものなので、子供たちの心を捉えて離さないのだ、と実感しました。大人になり、輪の中に入っていないとよく見えるものです。
 どうしたら良いでしょうか? と考えました。

 というのも、ここにドラえもんは居ないからです。ジャイアンを強く叱り飛ばしましょうか。それとも、こうした中で人は成長するのだから、と放って置きましょうか。適当に「ダメよ~」などと声を掛けましょうか。いろいろな正解があると思います。

 心理学者の河合速雄先生は、「百パーセントが必要な時がある。普段は六十パーセントでよいけれども。」と仰られました。
 私は百パーセントを目指してまずは、Aくんの横に立ち、Cくんから逃げる進路に立ちました。すると結果、Aくんの体は私の手に触れて、Cくんがタッチしました。しかし、タッチし返して逃げていきました。次に、

 「一人がずっと鬼で楽しいの?」

 と目を合わせないで声を掛けました。横並びなので、声が強くならないからです。聞く耳を持ちませんでした。少し見ていましたら、Cくんは疲れて走らなくなってしまいました。Aくん、Bくんは相変わらず「追いかけてこいよ~」と言っています。私はとっくんに、

 「とっくん、ここに来なさい。」

 「は~い。」

 私は左ひざをついて目線をとっくんに合わせました。

 「とっくん、さっきから、ずっと一人が鬼だよね。これって楽しいの?」

 「ううん、楽しくない。」

 楽しくない、の言葉を聴いて安心しました。一つは、力の強い子に遠慮しなかったからです。その場の人間関係より公正さを優先できたのです。もう一つは、きちんと状況把握を言葉にできたからです。小学校一年生では、お友達の性格や実力などに関心がなく、ぼーっとしている子がいます。こうした子供は、周りの状況が把握できにくいのです。授業中に走りだしたり、友達にきちんとお返事が出来なかったりします。そして、心身が成長することで状況把握が出来るようになっていきます。力の強い子と弱い子を客観視できたのです。これは、先ほど、Cくんにタッチせず、力の強いAくんにタッチしたことでも判ります。

 ドラえもんの面白さの一つの要素は、のび太がきちんと状況把握ができていないことにあります。自分は弱いのに、ドラえもんの道具を使って、強いと錯覚して、限度をわきまえず失敗します。さらに、ジャイアンやスネ夫、しずかちゃんの性格を見抜けないで、失敗を大きくするのです。そこをドラえもんが、

 「しょうがないなぁ~のび太くんは~・・・(ドラえもん似の声で)。」

 と言って色々と後処理をしてアニメが終了します。

 しかし、私の目の前にドラえもんは居ません。ゆえに、失敗をなんとかしてくれる人がいないのです。

 そこで私は以下のように考えました。私はジャイアン、あるいはジャイアンのようなAくんが悪い、と非難するつもりはありません。Aくんは小学一年生です。ですから、彼は全く悪くなく、周りの大人の人間関係を真似ているだけなのです。スネ夫も、スネ夫のようなBくんも同じです。「子は親の鏡である」と昔から言います。

 「子は親の鏡である。」

 は通常の意味と、もう一つの意味があると考えます。それは、

 「子しか親は変えられない。」

 という意味です。「親が変われば子が変わる」が通常の意味です。加えて「親が変わっても他人の子は変わらない」の意味があると考えます。言い換えれば、私は、AくんもBくんも、そしてCくんも変えられない。変えられるのは我が子だけである、という風に考えました。
 ですから、最後には、とっくんにだけ声を掛けました。以上の意味を古典に探してみましょう。

 毎回、富士論語を楽しむ会、の冒頭で発声している「聞学起請文(もんがくきしょうもん)」に以下の名言があります。

 「一斎(いっさい:佐藤一斎)先生曰(のたまわ)く、少(わか)くして学ぶなら壮(そう:中年)にして為(な)すあり。壮(そう)にして学ぶなら老いて衰(おとろ)へず。老いて学べば死して朽(く)ちず。」
 『言志四録』 その四十二

 意訳します。
 「江戸時代の三大教育家、佐藤一斎先生は、若い時に勉強すれば中年になって役に立つ人になる。中年の時に学べば老年になって衰えない。」

 ここまでは多くの訳が一致します。最後の「朽ちず」には訳者らしさが現れ、数々の訳があります。

 「老年になって学ぶなら、死んでも人望が朽ちない。」
 「老年になって学ぶなら、死後も業績が次の人に残っていく。」
 「老年になって学ぶなら、人生を虚しく終えたことにならない。」
 「老年になって学ぶなら、その学ぶ姿勢が人々に受け継がれていく。」

 ①は個人の名声が継承されること、②は仕事の業績が他人に継承されること、③個人の死の不安をなぐさめてくれること、④は困難に立ち向かう姿勢が継承されること、に焦点が合っています。

 私は④と読みました。そして、今回はとっくんに「一人だけが鬼である」ことを敏感に感じ取り、「その不健康さに立ち向う姿勢」を身につけて欲しいと感じました。なぜなら、「不健康さに立ち向かう姿勢」は、私の死後もとっくんの中に残って欲しいからです。
 憲法に定められた国民の三つの義務は「教育の義務」、「納税の義務」、「勤労の義務」と解釈されています。「教育の義務」とは、親「が」子供を教育する義務です。親「が」、知識を身につける知育、身体の発育を促(うなが)す体育、道徳を修(おさ)める徳育を子供に施(ほどこ)すという意味です。ドラえもんのような場面は、とっくんに徳育を考えさせられる場面である、と感じました。そして、佐藤一斎先生の教えに従いますと、「徳育を大切にする姿勢」が、私の死後も、とっくんを通して残る、と考えられます。
 このような貴重な場面をもらえたAくん、Bくん、Cくんに感謝しました。晴れ渡ったいつもと変わらない様な登校時間でした。そんな風に空を眺めていると、

 「ううん、楽しくない。」

 と、私の問いに、とっくんは答えました。そんなやり取りをしていると、聞こえたのでしょうか、私の右側にいるとっくんの反対側にCくんが来ました。私ととっくんが歩き出すと、彼は私ととっくんと並走して歩き出しました。とても嬉しかったです。そう思っていると、

 「うん。」

 と自分に言い聞かせるようにとっくんは、急にダッシュで前にいるAくん、Bくんの方に向かって駆け出しました。そして、二人の向かって大声で、

 「じゃあ、鬼は二人ね~とっくん鬼になるよ~。」

 と走っていきました。AくんもBくんも走り出しました。Cくんもゆっくりと歩き出し、私の方へ軽く顔を向けて、直ぐに駆け出しました。とっくんは、Aくん、Bくんのやりたい鬼ごっこを否定せず、Cくんがやりたくない鬼を否定せず、自分とCくんが鬼になることを自分で考えました。鬼が二人になれば、Cくんは鬼のままでも鬼ごっこが続けられます。そしてCくんは鬼のままでも平気になります。鬼ごっこは、Aくん、Bくん、とっくんで行われることになるからです。

『論語』を受け継ぐ人は「死して朽ちず」

 四人の後姿を見送りながら、大切な道徳を少しだけ伝えられたような気がしました。『論語』を振りかえって見れば、孔子の徳育(仁の心)は、石田梅岩先生、佐藤一斎先生など多くの人に受け継がれました。先ほど挙げた「死して朽ちず」とは、一斎先生ご自身のご実感だったのではないか、と感じました。つまり、「孔子は死にましたが、孔子の徳育は私(一斎先生)に受け継がれ、朽ちていない」という一斎先生の心の中のご実感です。加えれば、その一斎先生も「死して」、私達の時代となりました。本日、命がある私達は、時に『仮名論語』を声に出すことで、時に遺書に書き起こすことで、時に何気ない小学校の登校時に、時にささやかな集 まりの場(例えば、富士論語を楽しむ会)で、受け継げるのでしょう。『易経』「乾:けん」に、
 
 「すべての物は、天から与えられたそれぞれの性命(善の本性と肉体の生命)を正しく実現する」

 とあります。最後の「正しく実現する」とは、先人の徳育を色々な時、場所で受け継ぐことを指します。石田梅岩先生は『都鄙問答(とひもんどう)』の冒頭に、この『易経』を引用して、

 「何と面白いことでしょうか。これに代わるものはありません。」

 と述べられておられます。徳育を実現させる性質を私達全員が受け継いでおり、今日の命を頂けたことに感謝でき、そしてそれを受け継いでいくことが、何よりも面白い、と仰られます。
 私自身は、アニメのドラえもんのような小学生の世界に触れて、心の底から面白がることが出来ませんでした。「Aくん、Bくんはいじわるだ」と思ったり、「どうして子供はいじめを止めないのか」と怒ったり、自分が声を掛けると、「とっくんが仲間外れにされたらどうしよう」、と不安になったりしました。他にも色々と未熟な処がたくさんありました。それら全てをひっくるめて、私が徳育(仁の心)を修めたいと想えるようになりました。

 小学校で学ぼうとする四人の後姿を見て、職場へ向かうために方向を変えました。私はこの年齢で学ぶべき道へと進みたい、と想い、自転車を漕ぎ出しました。


参考図書
 :『言志四録』 佐藤一斎著 講談社学術文庫
 :『仮名論語』 伊與田覺著 論語普及会
 :『都鄙問答』 石田梅岩著 致知出版社

【随想】哲学とーちゃんの子育て 十八 -宰予晝寢(ひるい)ぬ- 



 「ふ~ん。」

 「え? ふ~ん、てどういうこと?」

 「知ってるってこと。」

 「・・・(怒り)・・・」

 朝の通学路での会話です。少々、頭に来てしまいました。
 ことの起こりは、毎朝の会話にあります。「今日の楽しみなことは?」と「今日のがんばることは?」を毎朝聞いています。そののち、私が切り出しました。

 「とっくんは、上手くなるよ。」

 「なんで?」

 「とっくんが尊敬する人(バスケットのコーチ)に教えてもらっているから。」

 「それだと上手くなるの?」

 「そうだよ。」

 と言いました。私の頭の中には、ご逝去された渡部昇一先生の、恩師佐藤順太(じゅんた)先生との想い出話がありました。
 渡部先生がご卒業の時、佐藤先生のご自宅に遊びに行かれ、その蔵書の数と読み込みに感動して、「私も、このように年を取りたい」と感動されたお話です。(このお話は、渡部昇一著『知的生活の方法』などに掲載されています。)

 「とーちゃんの尊敬する人が、素晴らしい生き方をしている、って思ってね。」

 「どんな生き方?」

 「お、いいね、本をたくさん読む生き方だよ。いい?」

 「うん。」

 「それである人のように本をたくさん読みたいな、って思ったんだって。」

 「うん。」

 「でも、一緒にいた三人の人は思わなかったんだって。だから、自分の尊敬する人を見つけて頑張るのが大切ってことだよ。」

 「ふ~ん。」

 「え? ふ~ん、てどういうこと?」

 「知ってるってこと。」

 「・・・(怒り)・・・」

 と冒頭に返ります。

 心の中で少し怒りました。けれども、何かがその怒りを言葉や行動に移すことを、止めてくれたのです。ハッとなりました。

 それはなんだろうか? と。

 朝の通学路は混んでいます。歩道の左側は、前からは一列になって高校生が自転車で十台ぐらい向かってきます。その内側に歩行者が数人います。右側は小学生が、七、八人が思い思いに進んでいます。ここで足を止めて、とっくんを叱りつけると、交通の邪魔になります。
 そうした混雑状況が、止めてくれたのでしょうか。それもあるかもしれません。スタスタと考える私の前に出で歩いていくとっくんの後ろ姿を見つつ、自転車を押していきました。

 「・・・(確かに、この状況では叱れないけれど。)・・・」

 大通りの赤信号で止まると、とっくんは同じ一年生の水色帽子をかぶった友達を見つけ、話し出しました。その後ろ姿についていき校門前で校長先生に「おはようございます。お願いします」とご挨拶をし、振り返って自転車に乗りました。下り坂で、駿府城公園の緑鮮やかな木々の姿が目に入って、頭がカラッポになりました。
 カラッポ、にある言葉が浮かんできました。

 「さいよ、ひるいぬ・・・」

 あ!! そうか!!

 とっくんが、とっくんの理解をすること、そのことに怒りを思ってしまってはいけない、という点を覚(さと)りました。

 「宰予(さいよ)、書寝(ひるい)ぬ。子曰(のたまわ)く、朽木(きゅうぼく)は雕(ほ)るべがらず、糞土(ふんど)の牆(しょう)は杇(ね)るべからず。予に於(おい)てか何ぞ誅(せ)めん。」
 公冶長第五 第十章 『仮名論語』 五十三、四頁

 伊與田覺先生訳

 「宰予がだらしなく昼寝をしていた。
 先師が言われた。
 『腐った木には彫刻することはできない。ぼろ土の垣根にはうわぬりをしても駄目だ。そのようなお前をどうして責めようか、責めても仕方のないことだ。』」

 カラッポの心に浮かんできたのは、昨年の平成二十八年三月のふじの友に書いた孔子の言葉でした。第三十七号の「【論語】 三つの翻訳を比べてみよう ―公冶長第五―」で、伊與田先生訳、五十沢先生訳、吉田先生訳の三つを比べています。私の結論を抜き出してみますと、

 「「朽木(きゅうぼく) 」とされた、宰予(さいよ:孔子の十哲:弁舌) 側の事情から、孔子の心の態度に視点を移します。「孔子は、優れた者からも劣った者からも学んだ」という態度です。とすると、孔子の強い口調で皮肉を述べるのは、孔子の十哲の宰予の成長を期待した言葉になります。つまり、突き放した言葉ではなく、どこまでも実利的な宰予を仁へと導こうとする言葉になります。」
 ふじの友 第三十七号 十二頁

 つまり、私は宰予のダメさ加減に注目するのではなく、ダメな態度ととる人をどのように導くか?という孔子に注目して読みました。言い換えれば、ダメな人ではなく、ダメな人を導く人に注目したのです。

 とっくんとのやり取りと同じです。
 とっくんの態度は、ダメな態度でした。そこで、導き手の求める態度を強制することは出来ます。けれども、それでは私の前だけで、私の求める態度をする人間になるでしょう。そして、私が見ていない時は、一切私の求める態度を投げ出す人間になるのです。
 それは宰予そのものです。孔子は宰予が、孔子がいる前では、立派な態度をしていて、裏では怠けているのを見抜いていたのでしょう。だからこそ、昼寝程度を大きく取り上げたのです。
 孔子の前での宰予はよほど、立派だったのでしょう。孔子の十哲に数えられる程なのですから。しかし、孔子の見ていない処では、怠け者だったと推測します。
 私が教えている学生でも同様です。テスト前だけ勉強を一生懸命して良い成績をとる学生がいます。けれども、本来勉強は、コツコツと地道に続けるものであります。学校の成績をよくするためのものでもなく、学校の成績を良くして、良い就職するためのものでもありません。自分の利益で考えるから、テスト前だけの勉強になるのです。まさに宰予の実利的態度そのものです。昼寝した宰予の態度は、二千年後の日本でも見られる態度なのです。
 その時、教師は、「学生がダメだからしょうがない」と諦めることもできます。けれども、孔子は導き手の責任として受け止めた、と私は解釈しました。

 「学生が、先生の望む態度を採らないのは、先生が悪い。」

 ということですし、

 「子供が、親の望む態度を採らないのは、親が悪い。」

 ということです。どうしても親は子供が親の望む態度を採らないと怒ってしまいます。そしてそれを子供のせいにして、怒りをぶつけてしまうのです。

 「どうして、あなたは言うことを聞かないの!!」
 「いっつも言っているでしょう! ダメ! 言うことを聞きなさい!」

 勤務先の自転車置き場に止める頃には、すっかり、怒りが収まっていました。怒りが反省に換わっていました。

〇「子供が腐った木だから怒るのでなく、腐った木であることを受け止めることから、導きを開始する。」

〇「朝の混雑時にするのは適切でなかった。」

〇「知っている、という本人の言葉を素直に私が受け止めること。」

〇「私の目の前だけの良い子を目指すのではなく、自分で考えて良い方向に進める子を目指すこと。」

 以上です。

 玄関の自動ドアを入りながら、もう一つ思い出しました。この勤務先の学生に授業をする指針を立てていました。その一つが、

 「卒業して五年後、十年後に『ああ、これを言っていたのか!』と気が付く内容を授業する。」

 です。

 二千年前に書かれた『論語』が、私の仕事と子育ての指針を明確にし、導いて下さいます。なんと味わい深いことでしょうか。また、ふじの友に書く機会を与えられたことが幸せに感じました。学恩と富士論語と楽しむ会に、感謝申し上げます。
 今後も考えながら、子育てをしていきたいです。

エッセイ「【歴史】 北条政子の成した偉業 ―日本らしい国家運営へ― 」


 北条政子の第四回目になります。これまで通り藤枝木鶏クラブでミニ講和をした内容を、少し整えて書き残します。
 今回でまとめになりますので、振り返ります。第一回は北条政子の大きな特徴として信仰心を挙げました。また、他の長期政権を打ち立てた権力者の三人の妻と比べました。特に、淀殿との違いを、政治権力の基盤から述べました。第二回は危機に立った時に政子が筋を通して、関東武士を守ったことを述べました。政子の優れた心の態度は、公平さに通じるものであり、宗教政策に大きく表れています。これが平氏との差を決定したと解釈しました。第三回は政子のトラブルは自分が乗り込んで解決する政治手法をいくつかの事件で述べました。
 以上のように、政子を優れた政治家として観て、その根拠を見てきました。政子を政治家ではなく、権力者のか弱き妻として、あるいは女性の自立として観られてきました内容とも比較してきました。最終回は、政子の全人生をかけた偉業を見ていきたいと思います。先にまとめを挙げます。

 まとめ:北条政子は、「皇室が権威を、民の代表が権力を」という日本らしい国家運営の基礎を築いた。
 
北条政子の家族は

 これまで述べてきませんでした、北条政子の家族について焦点を当てます。後に出てきますし、他の資料で家族のみの年表が見当たらなかったからです。

北条政子の親と兄弟について

 父:北条時政、三人の兄弟、長女の政子、姉妹四人の八人兄弟。

北条政子の家族年表

 二十一歳:頼朝と結婚。
 二十二歳:大姫誕生か?
 二十六歳:頼家(よりいえ)誕生。

 三十六歳:頼朝が征夷大将軍 実朝(さねとも)誕生。
 三十八歳:乙姫誕生か?

 四十一歳:大姫(二十歳)死す。木曽(源)義仲の子息と婚約したのを貫き通した。
 四十三歳:頼朝死す(五十三歳)。落馬と言われる。近年は脳出血とされる。
 四十三歳:長男頼家征夷大将軍。
 四十三歳:乙姫死す(十五歳?) 頼朝の死後、急速に悪化した。
 四十七歳:実朝征夷大将軍。
 四十七歳:父時政を追放。後妻におぼれたため。
 四十八歳:頼家修善寺で死す。

 六十三歳:実朝、頼家の遺児で実朝の猶子(ゆうし:義理の子供)公暁(くぎょう)に殺される。
 ――夫、実子、血縁は「竹御所」以外全て死亡――
 「竹御所」は藤原頼経(ふじわらのよりつね)と婚姻。
 六十三歳:征夷大将軍に公家を向かい入れることを決断。藤原頼経の後見となる。
 六十九歳:何度かの失神後、死す。

 政子は当時としては遅く二十一歳で結婚し、三十六歳、三十八歳の高齢出産をしています。父の力を背景にして長男を追放します。その様に、鎌倉政権の初期を安定に導くうえで父を頼りにしながらも、最後にはその父でさえ追い出してしまいます。その決断は、政治家として国家の安寧と家族の安心とを天秤にかけた上での決断でした。それでは家族の安心を引き換えに政子は何を成し遂げたのでしょうか。

北条政子の成した業績

これまで述べたこと
 鎌倉政権の宗教政策を担当する。
 :(伊勢の)神宮の内宮、外宮、園城寺、興福寺などの支援 → 平氏との差別化、優位を保持。

 公家の内紛争い=税金の奪い合いから、関東武士(農園主)の農地確保に。
 :合議制民主主義の確立。 → 長男頼家、次男実朝は公家化したので排斥。

 大都市鎌倉の建設
 :鶴岡八幡宮や伊豆山神社を政治の中心にする。 → 東国一の大都市に発展。

 鎌倉政権に順序と公平さを導入。
 :亀の前事件に見る正室と側室の区分け。 →  政権の安定(豊臣政権は不安定化して崩壊)。

今回述べること

鎌倉政権に公平な政治を導入 ―エコひいきなし―

 :征夷大将軍が頼家から実朝に代わるとき、領地を二分しようと決定しました。これに不満を持った反乱を父時政に知らせて鎮圧しました。頼家が心細くなり、エコひいきをしようとしても止めたのが政子なのです。さらに、その後、父時政は執権でしたが、後妻の愛におぼれて、後妻の子を征夷大将軍にしようとしました。これもエコひいきです。これを止めたのが政子でした。
 実朝が、頼家の息子で実朝の猶子であった公暁に殺された時も、権力を皇室に戻そうとする動きが出ました。承久(じょうきゅう)の乱です。承久の乱のきっかけは、上皇が愛人(側室)の領地の地頭を追い出すことを鎌倉幕府に求めたことがきっかけです。上皇は領地に地頭に置くことを認め勅許(ちょっきょ: 天皇の命令)を出していたのです。ですから、エコひいきをしたのは上皇だったのです。そこで承久の乱で、政子は以下のように言っています(意訳です)。

 「皆、最後の言葉をよく聞きなさい。頼朝公は朝敵を打ち、鎌倉幕府を創り、御家人たちを大切にしてきた。それに対する感謝の念が軽くていいのだろうか。けれども、今、逆臣の讒言(ざんげん:嘘と悪口)によって誤った勅許が下された。今こそ逆臣を討ちとり、恩を返す時である。ただし、上皇につくものは、今すぐ申し出なさい。」

 政子は、上皇の勅許を「誤っている」と言い切っています。エコひいきをしているからです。
 つまり、政子は「公平さ、公正さ」を基準に判断しました。それは、皇室への盲従を超える目を政子に与えたのです。「皇室の命令(勅許)ならばすべて正しい」という前提は、当時の日本を長い戦乱に陥れていたのです。政子の優れた点として、最愛の我が子頼家、実朝も、実の父時政も、上皇さえも政治を司(つかさど)るものとして許しませんでした。
 他方、家族内の母としては、それを求めませんでした。頼家の蹴鞠(けまり)遊びを見学しましたし、「竹御所」以外の血縁者がいなくなってから、恵まれない子供たちを養子にとるなどしていました。

初めての征夷大将軍、執権制度の確立 

 政子が存命中、

〇征夷大将軍が四代
 頼朝→頼家→実朝→頼経 
 
〇執権が三代
 父時政→弟義時(よしとき)→甥泰時(やすとき:義時の子) 

 の交代を経験しました。ほぼ全ての交代で大きな反乱がありました。なぜなら、それまでは公家の原理によって力あるものが権力を得る=正義、という時代だったからでした。そこに公平さを導入して征夷大将軍、執権制度を確立していったのです。特に、政子は自身の大きな軍事力(武家集団)を保持している訳ではありませんでした。ですから、普段から、その人物がどういう長所や欠点があるか、危機の時にどのような行動をするのかを読み切っていたのです。
 例えば、承久の乱後、鎌倉政権は対外上は盤石になりました。しかし、執権が義時から子泰時に移る時、反乱の気配がしました。義時には泰時と母が異なる政村(二十歳)がいたのです。この政村は母と共に北条氏に並ぶほどの三浦氏を巻き込んで政権を握ろうとします。
 そこで政子は、政村とその母伊賀の方の屋敷ではなく、三浦氏の屋敷を訪ねて言います。

 「もしかして泰時を除いて、反乱しようとしているのではないか? お前は政村とは親子同然だから相談に乗っているはずである。反乱を起こさないように忠告しなければならない」

 と。すると三浦義村は「何も知らない」と言い逃れをします。政子は義村の性格を見抜いて以下のようにいます。

 「政村について反乱の陰謀に加わるのか、泰時を助けて無事生き延びるのか、どちらか、今!ここで!はっきりせよ!!」

 三浦義村の「事なかれ主義」で「現状維持を第一とする考え方」を見抜いて、強く出るのです。もし、三浦義村が陰謀の主役であれば、政子は人質になってしまったはずです。ですから、政子は陰謀の主役が伊賀の方と政村であることも見抜いていたのでした。
 
鎌倉政権を全国政権に ―「皇室が権威を、民の代表が権力を」―

 承久の乱に勝ち、約三千か所の領地を没収しました。そして東日本だけでなく近畿、西日本を含めて全国に地頭を置くことになりました。鎌倉政権が全国政権になったのは頼朝の時代ではなく、政子の時代だったのです。そして、地頭は十町ごとに一町が免田として所領を得ることができました。これによって、日本全土の土地に鎌倉政権の行政権(裁判権、警察権、徴税権)が及んだのです。つまり、

 日本の歴史上初めて、土地の実質的な支配者が、皇室から民の代表に移ったのでした。それは政子が公平さを導入して成し遂げた偉業なのです。

北条政子の業績への評価

 北条政子の評価を、『吾妻鑑(あずまかがみ)』は以下のようにしています。

 「前漢の呂后(りょこう)と同じように天下の政治を行った。または、神功(じんこう)皇后の再来であり、我が国の皇基(こうき:皇室が国家を治める基礎)を擁護したのである。」

〇渡辺保先生の評価【よくわからない】:政子の業績は、大江広元(おおえのひろもと)のお陰であり、「(評価に喜んだかわからないが)政権を長続きさせたことを頼朝に報告できることをひたすらに喜んでこの世を去ったことと思う。」

〇田辺泰子先生の評価【否定】:「皇基の擁護」とは、政子の天皇家に対する一般的な尊敬の念をいっているのであると解釈したい。承久の乱の、院(上皇)と対戦したという事実経過からすれば、けっして「皇基の擁護」とはいえないからである。」ただし、天下の政治を行ったのは正しい評価と思う。

〇高木の評価【肯定】:政子の正当な評価だと考えます。以下図にします。

 「皇基の擁護」:「民は大宝である」と「平和を愛する」とが皇室が国家を治める基礎です。
 これは神武天皇の建国の詔(みことのり)と、仁徳天皇の「民のかまど」に沿います。

 承久の乱の原因は、上皇個人のエコひいきにあります。そのエコひいきで民は苦しみ、平和が何十年もの間失われ、戦乱が続いてきました。だからこそ、政子は「誤った」勅許と言い切ったのです。政子は自身の神格化や迷信によって民を苦しめることを嫌った話が残っています。「民は大宝である」と「平和を愛する」ことを政子は神仏に祈り、そして政治の場で実行したのです。政子は事あるごとに、鶴岡八幡宮などで祈祷、祈願を頻繁に行っています。以上の実績が認められて、鎌倉幕府の正式な歴史書『吾妻鑑』で評価されていると考えるに至りました。

 長きに渡りありがとう御座いました。

講義の関連記事「広島、長崎被爆者の治療をしなかった件」について

 これまでの講義の中で、何度か取り上げてきました「広島、長崎被爆者の治療をしなかった件」について、以下の記事が出ました。
 公式に初めて謝罪をなされたので、今後の対応を変えようと思っています。

 以下記事です。


<放影研>被爆者に謝罪へ ABCC時代、治療せず研究 459
2017年06月17日 15:40 毎日新聞


毎日新聞
写真丹羽太貫理事長
丹羽太貫理事長
 原爆による放射線被ばくの影響を追跡調査している日米共同研究機関「放射線影響研究所」(放影研、広島・長崎両市)の丹羽太貫(おおつら)理事長(73)が、19日に被爆者を招いて広島市で開く設立70周年の記念式典で、前身の米原爆傷害調査委員会(ABCC)が治療を原則行わず研究対象として被爆者を扱ったことについて被爆者に謝罪することが分かった。放影研トップが公の場で直接謝罪するのは初めてとみられる。丹羽理事長は「人を対象に研究する場合は対象との関係を築くのが鉄則だが、20世紀にはその概念がなかった。我々も被爆者との関係を良くしていかなければいけない」としている。

 ABCCでは被爆者への治療は原則行わず、多くの被爆者の検査データを集めた。被爆者たちは「強制的に連れてこられ、裸にして写真を撮られた」などと証言。「モルモット扱いされ、人権を侵害された」と反発心を抱く人が少なくなく、「調査はするが治療はしない」と長く批判を浴びてきた。

 丹羽理事長は取材に「オフィシャルには治療せず、多くの人に検査だけやって帰らせていた。被爆者がネガティブな印象を持って当然で、さまざまな書物からもそれははっきりしている」とし、「おわびを申さなければならない」と語った。歴代の理事長らトップが被爆者に直接謝罪した記録はなく、放影研は今回が初めての可能性が高いとしている。

 記念式典では、冒頭のあいさつで「原爆投下の当事者である米国が、被害者である被爆者を調べることに多くの批判や反発があった。不幸な時期があったことを申し訳なく思う」などと述べる方針。この内容は1995年に放影研作成の施設紹介の冊子で言及されているが、ほとんど知られていなかった。

 一方、被爆者を裸にして検査をしたり遺体の献体を求めたりしたことについて、丹羽理事長は「米国側が日本の習慣などを十分理解しておらず、文化摩擦があった。だがサイエンスとしては必要だった」との見方も示した。

 放影研歴史資料管理委員会委員の宇吹暁・元広島女学院大教授(被爆史)は謝罪について「放影研は被爆2世、3世の研究を今後も続けるには、組織として謝った方が協力を得られやすいと判断したのだろう」とみている。【竹下理子】
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    名前:高木健治郎

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